筑摩書房の
現代漫画5「水木しげる集」。
その最後に鶴見俊輔氏が
作家と作品を書いておりました。
その最初のページに
武蔵野美術学校の文字。
最初から引用。
「水木しげるは、大正13年3月、鳥取県堺港市にうまれた。
高等小学校を出てから図案の学校に入り、2年ほどでやめた。
大阪の夜間中学校をへて、武蔵野美術学校に入った。
召集され陸軍に入り、歩兵としてラバウルに行く。
ここで左手を失なった。ラバウルで彼は、
死の世界と背中あわせになる体験とともに、
近代文明以前の手ごたえのたしかな生活を知った。
文明以前への回想と死の世界との交流とは、
水木しげるが戦後の日本を描く時に補助線として
くりかえし用いる方法であり、
水木の現代生活の描写はこの故に、
独自のあつみをもつようになる。
陸軍一等兵として昭和22年日本にかえって来てから、
水木は、神奈川県の旧陸軍病院に入院した。
画家になる志をすてにくく、
ふたたび武蔵野美術学校にもどるが学費がつづかず
退校した。・・・・」
現代漫画5「水木しげる集」。
その最後に鶴見俊輔氏が
作家と作品を書いておりました。
その最初のページに
武蔵野美術学校の文字。
最初から引用。
「水木しげるは、大正13年3月、鳥取県堺港市にうまれた。
高等小学校を出てから図案の学校に入り、2年ほどでやめた。
大阪の夜間中学校をへて、武蔵野美術学校に入った。
召集され陸軍に入り、歩兵としてラバウルに行く。
ここで左手を失なった。ラバウルで彼は、
死の世界と背中あわせになる体験とともに、
近代文明以前の手ごたえのたしかな生活を知った。
文明以前への回想と死の世界との交流とは、
水木しげるが戦後の日本を描く時に補助線として
くりかえし用いる方法であり、
水木の現代生活の描写はこの故に、
独自のあつみをもつようになる。
陸軍一等兵として昭和22年日本にかえって来てから、
水木は、神奈川県の旧陸軍病院に入院した。
画家になる志をすてにくく、
ふたたび武蔵野美術学校にもどるが学費がつづかず
退校した。・・・・」