『桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社・1996年)。
その表紙写真について、杉本秀太郎氏は「編集後記」の
最後で、こう書いておりました。
「カバーに用いた先生の影像は1966年冬の撮影。
七回忌の集まりには、正面スクリーンにこれが
大きく映し出された。先生の背後にかかっている拓本は、
北宋の人陳摶(ちんたん)の書。厳父隲蔵博士が明治40年
の中国旅行のあいだに購入されたと聞く。
先生はこの書跡が格別にお好きであった。」
この場合は拓本なのですが、
そういえば、この本には文字を書くことへの言及が、
杉本秀太郎・鶴見俊輔のお二人にあったのでした。
杉本秀太郎氏は大学の卒論を鉛筆で書いておりました。
そのことに関してご自身は、こう語っております。
「・・提出後暫くして、当時のフランス文学科の主任、
伊吹武彦先生から呼び出しがかかってきました。
研究室に行くと、体じゅう震わせて怒っておられる。
それは僕が卒論を鉛筆で書いたからなんです。
僕はその頃、自分の書く字がものすごく嫌で、
字を書いては消しして際限がないものですから、
万年筆ではよう書けなかった。
ただ鉛筆で書いたということだけをお叱りになって、
僕は引き下がりました。・・・」(p76)
はい。『自分の書く字がものすごく嫌で…』とある。
この本でもう一人、印象的なのは鶴見俊輔氏でした。
「私は京都大学に来たんですが、二年ほどいたんですけども、
そこで鬱病が現れてきて、これはもともと持っていたんですけども、
字が、自分の名前を書くのが嫌になったんです。
1951年の6月の末ですが、私は辞表を持って桑原さんのご自宅に
伺ったんです。・・・・・
京都大学を私がやめることがいいかどうかについての
当否については全く言及されないんです。ここに病人がいるから、
それは黙って給料を取っていればいいという、それだけなんです。
別の対応をもし桑原先生がそのときされたとすれば、
桑原先生は私の上司ですから、私はそこで辞めて、
とにかく自分の名前が書きたくないわけですから、
29歳で自殺したと思いますね。そう思います。」(p97)
鶴見俊輔氏は「自分の名前を書くのが嫌になったんです」
とあるのでした。鶴見さんの鬱病と関係するのかどうか、
杉本秀太郎著「京都夢幻記」(新潮社・2007年)に
「植物小誌」と題した文のはじまりもまた印象的でした。
「だれしも知るように、メランコリアに陥った人は明け暮れ
悪循環から抜け出せない。明けも暮れもないトンネルがつづく。
あるとき、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の『登山見千里』という
一行書を見て躍動する書体に驚き、そのはずみにメランコリアから
抜け出たことがある。50歳代半ばのことで、鬱状態の奥のほうに
錆びず居坐っているバネがあった。・・・・・」
これは、「植物小誌」という文のはじまりの
落語でいえば、マクラのような箇所にあたりますので、
もう少し語られたあとに話題はとってかわってゆきます。
ちなみに、この本には『登山見千里』の書は
写真掲載されていないのですが、
同じ著者の『絵 隠された意味』には、その書が
載っていました(p209)。
私みたいな素人が見ると、なんだかなあ、
とつい口に出てしまいそうな書体なのでした。
けれども、書体によって癒される方がいる。
ということはよく伝わってくるのでした。
あるいは、年齢がゆくと、書に興味がむくのは、
このような、要素があるからなのでしょうか?