杉本秀太郎著「火用心」(編集工房ノア・2008年)に
『詩人の庭』という短文が入っておりました。
そのはじまりが、興味深いので、まず引用。
「 庭には顔がある。
取り澄ましている庭、
くつろいでいる庭、
素顔のまま、
あるいは厚化粧の庭。
流し目を送る庭もあれば、
むっつりと不機嫌な庭もある。
微笑していたり、泣いていたり、
大笑いしていたり、おどけていたり。
じつにさまざまな顔を示すところは人とよく似ている。
無病息災に暮らしている人が一日じゅう
少しも表情を変えずということはないだろう。
それと同じで、ひとつの庭が一日のうちにも、一年のうちにも、
さまざまに顔を更ため、表情に変化を見せる。」(p81)
(注; 散文を、短く一行にしながら、改行もほどこして、
いつものように、こちらで、勝手に並べかえました。)
わたしは身近では、庭とは縁のない住まい・生活でした。
それで、めずらしく庭の掃除をしたり剪定したりすると、
この杉本氏の言葉が鮮やかに浮き上がってくるのでした。
ちなみに、このあとに萩原朔太郎と龍安寺が
登場するのですが、私にはどうでもよくって、
その箇所はカットして、この4ページの文の
最後の方から、すこし引用しておきます。
「くどくど言うまでもないが、庭が顔をそなえているというのも、
庭に植物があるからで、石庭は特殊な例である。
長い目で見れば、庭は木の育ち方にしたがって、
次第に持ち前の顔の造作を変えてゆく。
植えたときには程良い高さ、好ましい枝ぶりだった樹木が、
いつの間にか背高く伸び、枝ぶりも変ってきて、
おだやかな、よくととのっていた顔が
山姥のようなおそろしい顔になったり、
卒塔婆小町のようないたましい顔になったり。
つまり、庭は人と同じように老化する。
そして美しく老いた人のように老いて美しい庭もある。」(~p84)