和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

自身を、まないたに乗せて

2021-04-10 | 本棚並べ
本棚から3冊とり出す。

 「桑原武夫傳習錄」(潮出版社・1981年)
 「桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社・1996年)
 「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社・2008年)

うん。3冊目から引用をはじめます。
その「まえがき」は梅棹忠夫氏本人でした。

「わかいときは、還暦をむかえた先輩というと、
たいへんな老人のようにおもっていた。それが、
いつしか自分自身がその還暦から四半世紀をすぎて、
いわゆる米寿、八八というよわいをかぞえることに
なっていた。おどろいた次第である。

そのわたしに米寿に際して、わかい友人たちが
おいわいの会をひらいてくださるという。

それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせては
ざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて
議論をしたらどうかと提案した。

・・・・盛大な討論会となった。・・・・
このような機会がめぐってこようとは、おもいもしなかった。」


つぎは、3冊のはじめの1冊
梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫伝習録」から引用。
はじまりの序文は梅棹忠夫が書いておりました。
そのはじまりから引用。

「桑原武夫先生は、ことし(1981年)の5月に
喜寿の賀をむかえられる。第77回目のお誕生日の当日は、
友人・弟子たちがあつまって、祝賀会をひらく。その日を目標に、
この本『桑原武夫伝習録』の刊行計画はすすめられたのである。

桑原先生の人となり、行状、業績について、たくさんの文章が
知人たちによってかかれている。それをあつめて、一冊の本に
まとめようという企画である。

・・・・・・・
先生の著作のどれをよんでも、かずかずの学問的刺激をうける。
わたし自身も学問の道につらなるものとして、
先生からおおくの学恩をうけている。しかし、
学問はやはりなま身の人間のいとなみである。

学問は人物ときりはなされては存在しえない。
ご本人の著作とともに、他人のかたる人間像もまた、
その学問を理解し、継承するためのカギである。
『伝習録』は同時に『伝承録』でもある。・・・」

最後は3冊うちの、2冊目からの引用。
この本は桑原武夫7回忌の公開講演をまとめた一冊。
その最後の梅梅対談(梅棹忠夫・梅原猛)から
梅棹氏の発言を引用しておきます。

梅棹】・・・フィールドでは今西先生に鍛えられた。
ところが、研究室におけるリーダーシップはやっぱり
桑原さんは抜群であったと思います。・・・・・・・

桑原先生が人文科学における共同研究という手法を編み出された
ことになっております。そのとおりですが、一般にこれは大変誤解が
あるんです。共同研究というは専門を同じゅうする人たちが集まって
やるものだということが一般にいわれておりますが、
桑原先生のやり方は全く反対でした。

専門が違う人間が一緒にやることが大切なんだと。
専門が違い、それからテーマが同じではいけない。
全部他流試合の世界なんですね。

百科全書のときに集められた人数は二、三十人もおった
かと思いますが、それぞれ全部専門が違う。
私のような自然科学から来た人間も入っておりますし、
文学の方も、歴史の方も、いろんな人が入っておった。
それを全部一つにまとめていく。その指導力というものは
抜群であったと私は回想しております。

共同研究のやり方、組織の仕方、
これは私はその後深く守っており・・・・・

さらに、未来構想になるかどうかわかりませんが、
桑原先生の組織運営力といいますか、組織家としての
側面に私は大きな影響を受けております。・・・」
(p127~128)

はい。3冊からアトランダムな引用をしました。
ここから何か見えくればいいなあ。

コメント
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