小林秀雄が岡潔との対談に、こう記しておりました。
小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。
問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。
問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。
この考えはたいへんおもしろいと思いましたね。
いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、
物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。
答えばかり出そうとあせっている。
岡】 問題を出さないで答えだけを出そうとするのは不可能ですね。
小林】 ほんとうにうまい質問をすればですよ、
それが答えだという簡単なことですが。
岡】 問題を出すときに、
その答えがこうであると直観するところまではできます。
できていなければよい問題でないかもしれません。
その直観が事実であるという証明が、数学ではいるわけです。
それが容易ではない。・・・・
(p76~77「対話 人間の建設」新潮社・昭和53年)
え~と。杉本秀太郎の短文を読んでいると、
ときに、文の書きだしだけで、充分だと思えることがあります。
例えば、『絵 隠された意味』(平凡社・1988年)に
「映発」という5ページの文があり、そのはじまりで杉本氏は、
さりげなくですが『問題提起』をして、はじめておりました。
「フィレンツェのウフィツィ美術館には、だれ知らぬ人もない絵が沢山ある。
ボッティチェリの『ヴィナス誕生』および『春』、レオナルドの『受胎告知』
・・・・・・・・・
だが、名画集のたぐいで見なれてしまった絵というものには、
厄介なところがある。はるばる遠い国の美術館を訪れ、
まぎれもない実物の絵のまえに立ったとき、
眼前の実物が妙にそらぞらしく、手ごたえを欠いていて、
これは一体どうしたことかと目をこすって見直す、
そういう経験をしなかった人があるだろうか。
まわりの見物衆はどの人も、神妙な顔をしているので、
内心のうろたえを隠して、こちらも神妙を装う。
こうしてお互いに神妙ごっこをしている。
あのルーブルの『モナ・リザ』は、
見物衆の内心を見すかして、
皮肉な微笑をやめないのである。」(p22~23)
岡潔氏は
「その直観が事実であるという証明が、
数学ではいるわけです。それが容易ではない。」
と答えておりました。
杉本秀太郎氏は、このあとを、さて、
どうつづけて書いていたでしょうか。
たいてい私の場合、寝床で本をひらいていると、
始まりだけで、あとは本をとじ寝てしまいます。
ですから、わたしは、いつでもはじまりが肝心。