京都の芸事について、梅棹忠夫氏は指摘しておりました。
「京都は、芸事の中心地である。
諸芸の家元はひととおりそろっている。
お茶にお花に、能、狂言に謡(うたい)、仕舞(しまい)、
おどりに書道。絵には家元というものはないようだが、
大先生の塾がある。
それぞれのジャンルに、いくつもの流派があり・・」
(p71「梅棹忠夫の京都案内」角川選書)
この本の1ページ前に「池坊」とある。
「六角烏丸(からすま)には六角堂がある。ほんとに六角のお堂・・
ここはまた池坊、お花の家元である。」
宮本常一「私の日本地図14 京都」(未来社)に
書かれている六角堂はというと、
「六角堂・・・この寺の20世の住持専慶は
山野をあるいて立花(りっか)を愛し、
立花の秘密を本尊から霊夢によって授けられ、
26世専順はその奥義をきわめた。
堂のほとりに池があったので、この流派を池坊とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという。
すなわち立花の池坊はこの寺からおこったのである。
もともと仏前への供花から花道は発展していったもののようで、
とくに7月7日の七夕には星に花を供える儀礼が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ、『都名所図会』には『都鄙の門人万丈に
集り、立花の工をあらわすなり。見物の諸人、群をなせり』とある。
このように立花は後には次第に人がこれを見て
たのしむようになってきたのである。・・・」(p118~119)
うん。これだけでも足利義政・鎌倉時代・室町の頃と
六角堂の時代背景が見てとれるのでした。
さて、松田道雄は1908年生まれ。
「京の町かどから」で、子どもの頃の『六角さん』を
書き残してくれておりました。
「西国18番頂法寺は六角通り烏丸東入ったところにある。
本堂が金色の擬宝珠(ぎぼし)を頂上にした正六角の建物
であるところから六角堂の別名がある。
京都のものが呼ぶときは六角さんという。
六角さんは、私たち中京(なかぎょう)の子どもには、
その境内であそべる唯一のお寺であった。・・・・・・
何といっても六角さんの記憶は夜とむすびついている。
毎月17日と18日とに、ここに京都でいちばんたくさん
露店がならぶ夜店がでたからである。」
こうして、露店のうんちくを4~5ページしたあとに
「本堂の裏になっている『池の坊』では活け花がいくつも
ならべられて、それを活けた人の名札がたてかけてあった。
家元に花をならいにいっているお弟子さんたちの作品展だった
わけだ。何もわからないのだけれども、いつもしまっている門が
あいているので、はいって一まわりした。
そこを出て本堂の裏のくらいところへくると、
人山ができていて、なかでバイオリンがきこえる。
艶歌師が人のたくさん出たころを見はからってやってきたのだ。
『熱海の海岸散歩する』の歌をきいた覚えがある。
長髪で袴(はかま)あをはいた人が、歌がすむと
うすっぺらな小冊子を売ってまわった。・・・」(p215)
はい。とりあえず、3冊から引用してみました。