岸田衿子の詩「古い絵」は、こうはじまります。
木の実の重たさをしるまえに
話をはじめてはいけません
実のそとを すべる陽
実のなかに やどる夜
人の言葉の散りやすさ
へびと風との逃げやすさ
こうはじまり、途中省略して、最後の二行はというと、
かすかな音をきくまえに
話をはじめてはいけません
うん。この詩が印象に残っているのでした。
それじゃ、話をはじめるのは、いつなのか。
この疑問のバトンは杉本秀太郎(1931年~2015年)へつながります。
「見る悦び 形の生態誌」(2014年・中央公論新社)のはじまりに
「宗達のこと」(16ページ)の文を、杉本氏はもってきております。
その文を読んで、私が思ったのは、岸田衿子のこの詩でした。
『かすかな音をきくまえに 話をはじめてはいけません』
亡くなる一年前の杉本氏は、ご自身の本を
『かすかな音をきく・・』話からはじめておりました。
はい。ということで、まあ、杉本氏の話を聞いてください。
「・・きのうも、京都国立博物館の常設室に出ていた
伊年印『草花図』襖四面を、しばらくぶりにながめ
翳(かげ)りの少しもない金一色の、風さえ絶えて、
息詰まる緊張に包まれた、これはひとつの閉ざされた庭である。
十種にあまる植物が寄りつどっているが、一見、
秋草ばかりにみえて、そうではない。・・・・・・・・
庭の中央に、一むれの芥子(ケシ)の花が場を占め、他を圧して
色あざやかに、華やかに咲き誇り、右からも左からも、
前からも、他の植物が芥子をめがけて傾き、のび出し、
這い寄る気配を見せながら、芥子の晴れ姿を祝ってか、
妬んでか、口ぐちに人語(じんご)を発している。
左の隅から上半身を乗り出すようにして傾いている稗の紫がかった、
つぶつぶした花穂の一団が、他を圧する大声で祝言を唱えている。
遠くから稗と向かい合って、右の奥には、ひょろりとした細竹二本が
立ちあがり、いまにも芥子の花に駈け寄らんばかりの動勢を示しているが、
内心では『芥子なんて、近ごろの外来の西洋だねが、いばりくさって
おるのは片腹痛いわい』と思いつつも、口先では
『やあ、おめでとうござる』と言っている。
この細竹と、当座の中心たる芥子とのあいだに挟まれた薊(アザミ)の花が、
細竹の内心を見抜いてくすくす笑いたいのをこらえ、口元に片袖を
当てて控える。」
うん。このあとに野薔薇・秋海棠(シュウカイドウ)
山帰来(サンキライ)・立葵(タチアオイ)・鶏頭(ケイトウ)
菫(スミレ)の花と続いてゆくのですが、
ここは、私の一存でカット(笑)。
そのつぎを引用してゆきます。
「この襖絵の『草花図』をながめるたびに、私はいま書いたような
植物たちの言い草、仕草を聞いたり見たりして娯しみ、
自分の心のさわがしさに、われながらあきれ、笑いをこらえきれなく
なるまでその場を離れない。
そして立ち去りがてらに思うことはいつも決まっている。
それは大体、次のようなことである。
この襖の中央、芥子の根元に取り付けられている美麗な
一対の金色の引手にゆびをかけ、襖を左右にあけ放てば、
奥の部屋の壁には、如拙(じょせつ)の有名な
『瓢鮎(ひょうねん)図』がぶらさがっているはずだ。
つまり、宗達はこの『草花図』を描くにあたって、
妙心寺退蔵院に古くより伝わる室町時代のあの禅画から
まなび取るところがあったと、私は見込んでいる。
『瓢鮎図』全体に紛れもない滑稽の気味、度外れな諧謔の趣は、
宗達のこの襖絵に脈々として流れている。
右端のあの細竹のあわてている恰好などは、
ことに如拙作中の竹に似かよっている。・・・・」(~p18)
はい。詩と随筆とが、私の中でむすびつく。
その嬉しさ。