杉本秀太郎氏の古本をポツポツ買っています。
ネットで購入できるので、ついつい手がでる。
氏は随想と肌合いがよいようです。その都度、
文がまとまると編集され本を出されてました。
編集者にとっては魅力の文の持ち主なのかも。
あっちの文を、改めてこっちの本にいれたり、
別の本と重複する文があっても、それなりに、惹かれます。
その都度の、本の装幀もいろいろなので、並べて楽しめる。
『品定め』(展望社・2001年)と題した、あとがきには
「近頃、暑気当たりといえばよくわかるものを
熱中症などと呼ぶようになってきた。
まるいことば、耳当たりのやわらかな呼び方に代えて、
四角い熟語、耳当たりの険しい用語を公用語あるいは
官用語にする傾きは、今に始まったことではない。
『品定め』が『批評』と呼び代えられて久しい。
私はあえて古語を使ってみたくなったまでである・・」
さてっと、斎藤緑雨をとりあげた短文が、
ちらちら、あったので備忘録として引用。
『文学の紋帖』(構想社・1977年)
『回り道』(みすず書房・1981年)
『洛中通信』(岩波書店・1993年)
そのうちの2冊に、篠田一士の名が登場しておりました。
「次のような文章がある。『緑雨の呼吸』と題した
篠田一士の随想に引用があったのを読んで以来、
私の記憶にとどまっている文章である。・・・・」
(p158「回り道」)
「私は篠田一士の所説にほぼ賛成である。
緑雨にとって、世界はただ二つしかなかった。
一つは経験的世界、他は言語的世界である。
それなら、私もあなたも、
緑雨と異なるところはないはずである。
違いは、緑雨にとって、この二つの世界が、
形の宝庫であり、形の埋蔵資源帯であり、
そして見出された形が逆に世界に働きかけ、
世界の見かけではなくその構造を
変質させるにいたったという点にある。・・・」
(p144~145「文学の紋帖」)
うん。ここに紹介されている、篠田一士の『緑雨の呼吸』は、
篠田一士著『読書の楽しみ』(構想社1978年)にありました。
ここでは、『緑雨の呼吸』の最後の箇所を引用しておきます。
「・・・こういう戯文を緑雨は、かずかぎりなく書いた。
題材はせまく、主題もとりたてて言うほどのことはない。
アイロニーと言い、諷刺と言ってみたところで、そこから
たいした卓論がひきだせるとも思えない。
しかし、この日本語の呼吸のよさ・・・・
力強い文章とか、優雅な文章ならば、他に人がいるだろう。
だが、それよりもさきに、言葉はまず生き物である。
生き物がいくつもあつまり、組み合わさって、
そこになにがしのものが創られるというならば、
当然、息づかいが問題になるだろう。
観念とか、思想とかといった得体のしれないものが出てきて、
言葉がその符丁になってしまえば、息づかいなど無用になる。
・・・・・」(p169)
杉本秀太郎氏は「スティル 斎藤緑雨の戯文」と題する文で
このバトンを、丁寧にとりあげてゆくのでした。
ちなみに、『スティル 斎藤緑雨の戯文』は
『回り道』と『杉本秀太郎文粋1』(筑摩書房)で読めます。