杉本秀太郎編「桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社)の
杉本氏の語りに忘れがたい箇所がありました。
杉本氏は、昭和24年に大学へはいります。
フランス文学科を選んだ。そして
卒論は、ポール・ヴァレリーをテーマにしたそうです。
卒論を提出すると、すぐに伊吹武彦先生からの呼び出しがある。
なんでも、卒論を鉛筆で書いたことのお叱りでした。
そして、卒論の試問になり、桑原武夫氏が杉本氏へと
語りかける場面があるのでした。
「『君の、読みました。鉛筆で書こうが字が汚かろうが、
そんなことはどうでもよろしい。おもしろかったらそんなことは
忘れて読みます。そやけど、君の書いたものはおもろなかった。』(笑)、
桑原先生はそう言われた。そして、
ちょっと暫く考えてから、
『狩野直喜先生て知ってますか。あの先生はでっせ。
一寸ぐらいあるこんな本を書いてやで、
最後に説明だけなら簡単であると、書いておられる。
君のは、たった三十枚や。しかも最後に君も、
説明だけなら簡単やと書いている。
こんなこと、書いてはあきまへん』と。」(p76~77)
「たったそれだけの先生の評言、批評を聞いて」
大学を出るのが惜しくなったと、杉本氏は語って
「これが、桑原先生という方に私が初めて
ほんとに触れた、最初の出来事でした。」とつづき
このあとに、大学院での演習の場面を語り始めておりました。
ちなみに、杉本氏が大学院にいた頃というと、
昭和24年(1949年)に大学に入学したのですから、
1950年代中頃でしょうか?
岩波新書の「新唐詩選続篇」(1954年)は、
吉川幸次郎・桑原武夫著となっております。
最後の方が、桑原武夫氏の担当のようです。
その桑原氏の「まえがき」のなかに
「私はよく若い人にいうのだが、
一篇の評論を書くことはいわば一つの戦いである。
長期にわたる蓄積と準備をへて正々堂々と戦う
のを本道とすべきことはいうまでもないが、
不意に状況が変り戦闘をよぎなくされるような場合にも、
一おうの戦いができないようでは武人とはいえぬ、と。
・・・」(p188)
うん。こんなことは、杉本秀太郎氏は
よく桑原武夫氏から聞かされていたのでしょうね。
では、「長期にわたる蓄積と準備をへて・・」
というのは、どんな蓄積と準備が必要だったのか。
それらしい箇所が、大学院の演習での
桑原先生と、僕・杉本秀太郎として語られておりました。
「・・二年目の演習は今度はサルトルの『文学とは何か』
というのがテキストでした。これもまた人文書院の全集に、
名前を挙げると後がしゃべりにくいんですけど、
加藤周一さんの翻訳があります。
きのうもその翻訳と、原文とをちょっと覗いて、
当時を思い出していたんですが、とにかく
一番熱心だったのは先生と僕で、僕の手もとの
加藤さんの訳本は本当に真っ赤に、無惨に朱が入っております。
その演習のとき、先生はなかなか厳密に訳文を原文に照らされた。
いうまでもなく、フランス語の語感が非常に確かな方でしたから、
加藤さんの訳文は洗いざらい底まで見えてしまったような
感じがしました。」(p78~79)
はい。フランス語の演習なんて、まるで別世界。
私には、当然チンプンカンプンなのですが、
あえて引用してみました。
ここに、杉本秀太郎と加藤周一と名前が、並びました。
さてさて、美術評論といってもよいのでしょうか
杉本秀太郎著「絵隠された意味」(平凡社・1988年)を
先頃古本で送料共470円で買いました。
カバー帯つきできれいです。
表紙は、竹内栖鳳の『斑猫』で、その猫の一部、顔のアップ。
この本のあとがきに、どういうわけでしょう。
加藤周一の名前が登場しておりました。
気になったので引用しておきます。
「・・・雑誌『太陽』1985年7月号より87年6月号まで
24回にわたって連載した。連載中の総題および各篇の題名は
そのままここに用いている。
『太陽』には、おなじ総題による一年間の連載が、
私のまえに完了していた。その書き手は加藤周一氏だった。
採りあげる画家あるいは絵が氏のものとかさなることがあっても
かまわないということだった。故意に避けようとも思わず、
故意にかさねようとも思わなかったが、結果を見ると
作品にかさなったものはなく、
画家はたしかピサネロだけがかさなっている。
ヨーロッパの絵画と日本の絵画を交互に採りあげるという
原則のほかに、私を拘束する条件は何もなかった。
好きな絵をわずかに24点ならべるのは造作もないことだったが、
取捨選択に私としての原則を考えた。・・・・」(p236)
はい。ネットで古本の検索をしてみると、
どうやら、加藤周一著「絵のなかの女たち」(南想社・1985年)
がその『太陽』連載のような気がする。
帯には『加藤周一初の美術をめぐる思索の書。』とある。
送料共で371円なので、今日注文しました。
はい。美術をめぐる思索の書。
その加藤周一版と、杉本秀太郎版とを
どうやら、いながらにして、読み比べることができそうです。