小学校の頃の、修学旅行は箱根でした。
6年生は2クラスあって、合同で講堂で説明をうけた。
そのなかで、唱歌「箱根八里」の歌詞の説明があった。
第一章 昔の箱根
箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず
万丈の山 千仞の谷 前に聳え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
・・・・・・・
わからないながらも、歌詞にはこんな意味があるのだと、
字面だけを、パクパクと追っていたものには驚きでした。
安野光雅さんの文に、こんなはじまりがありました。
「 わたしが子どもだった昭和初期の時代には
まだ文語文の世界がありました。
学校で習う唱歌の『我は海の子』などはいい例です。
『函谷関(かんこくかん)もものならず、
万丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷』と歌う、
『箱根の山』もそうで、函谷関を見たこともなく、
また万丈の山という言葉の意味もわからぬのに、
文語文の描き出す世界は、理屈抜きで心に響くものがありました。
そのむかし、文字に書き残して、
何ごとかを人につたえようとする文章は
文学に限らず日常の手紙も算数の文章題も、
張り紙の文句も、およそみな文語文でした。
以前、山梨県に向かう小仏峠を行ったとき、
『曲折多し、谷深し』と書いた交通標語がありました。
これも文語文の余韻があるためか、いまだに覚えています。」
ちなみに、安野光雅さんは、1926年島根県津和野町生まれ。
引用を続けます。
「・・・わたしたちの世代は、その両方にまたがっているためか、
文語文の持つ、荘重、簡潔、明快、覇気、といった
一種の雰囲気の快感が忘れられないでいるのです。
『我は海の子』という言い方を、口語文に直訳すると、
『わたしは海の子です』ということになってしまいます。
『我は海の子』という言葉はどうしても、
口語に直訳することはできないと思いますが、
それでも歌っているうちに『苫屋(とまや)』という言葉も知らないのに
『煙たなびく苫屋こそ、我が懐かしき住み家なれ』という
章句が伝わってくるからふしぎです。・・・」
( p592~594 安野光雅「口語訳即興詩人」山川出版社 )
はい。ここは、唱歌「われは海の子」の3番までを引用したくなります。
われは海の子
一 我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に、
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。
二 生れてしおに浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き、
千里寄せくる海の気を
吸いてわらべとなりにけり。
三 高く鼻つくいその香に
不断の花のかおりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く。
( P156 岩波文庫「日本唱歌集」
ちなみに、箱根八里はp80にありました。)