本はネット古本での注文を、チョコチョコします。
昨日届いた古本は、
山本安見著「走馬燈 父山本健吉の思い出」(富士見書房・平成元年)。
大岡信・丸谷才一対談「唱和と即興」(「古典それから現代」構想社より)
での対談のなかでの、山本健吉氏が印象に残っておりました。
うん。まずは、その対談からピックアップ。
大岡】 ・・・挨拶ということについては山本健吉さんなどが
力説されていますが、虚子は『贈答句集』がすばらしいという
( p92 )
丸谷】 ・・この間、山本さんの『芭蕉全発句』の書評をかいて、
その中で、戦後の俳句論の歴史はすべて山本健吉『挨拶と滑稽』で
言ったとおりになってきていると言ったんですけどね。
これはぼくの誇張じゃなくて、
虚心に見ればとうしてもそういうことになる。 ( p107 )
大岡】 挨拶と即興ってことは、とっても重視してる。
これは山本健吉論として、非常に面白いんだな。
丸谷】 山本さんは話をしていると、滑稽、ユーモア
そういうものをとっても愛する人ですよね、生活においては。
大岡】 そうそう。文章を書くと、真面目な面が表に出てくるんだろうな。
・・
大岡】 ぼくは山本さんの『古典と現代文学』を、
あの当時読んでたいへんな名著だと思ったし、
いまもそう思っていますが、あそこに言われていたことは、
ほんとうに重要な問題ですね。
で、さっきも話に出たけれど、われわれの世界では
即興ということは、ほんとに問題にされない。けれど
挨拶に関しては、わりあいとつつきやすいんじゃないでしょうか。
俳句作者も、挨拶ということを
もっと突っ込んで考えたらどうだろうか。 ( p108 )
ちなみに、対談「唱和と即興」は、初出一覧に、
『俳句』1974年9月号に掲載されたとあります。
はい。引用が長くなりました。
山本健吉の仕事と家庭生活というのが、何となく気がかりでした。
もちろん、私は山本健吉の本は読んだためしがないのですけれど。
まあ、そんなことを思っていたのでしょうね。そうすると、
山本安見著「走馬燈 父山本健吉の思い出」が、古本で200円。
これなら、おかたい評論を仕事とする山本健吉の本とはちがって、
身近な生活感からはいっていけそうです。
娘さんから見た山本健吉が語られておりました。
うん。一箇所引用。
「・・・何しろ評論なんて七面倒臭いものを書いている・・
土屋文明の歌の
『評論はむづかしき事を常として我が事あればその件りだけ読む』
というのを父はよく呟いていた。・・・・・
『新潮』に『いのちとかたち』を連載していた時は、
ちょっと音をたててもイライラとする様子がわかった。
・・・もっぱらダスキンを使った。テレビも殆ど音なしで、
母と画面にくっついて観ていた。我が家は狭く、
台所兼食堂と書斎兼応接間は続いていて、音は丸聞こえだ。
父が原稿用紙をピリッとめくるたびに、こちらの神経もピリッとなる。
それだけに、『出来たッ!』と父が言って立ちあがると、
我々は思わず『バンザーイ』と叫んだ。
たいてい夜中の二時、三時。
それから柔和な顔つきに戻った父と酒盛りが始まる。・・・
ご機嫌がよくなるにしたがって歌が出てくる。
いよいよワンマンショーの始まり。母と私はもっぱら聞き役。
八代亜紀の舟唄『お酒はぬるめの・・・』に始まって、
『津軽海峡冬景色』、沢田研二『抱きしめたい、ラブ』や
越路吹雪の『ろくでなし』、最後は必ず森進一の『襟裳岬』となる。
特にこの歌のもつイメージにひかれ、
『襟裳の春は何もない春です』の『何もない』が気に入っていた。
『見渡せば花も紅葉もなかりけり』に相通じる詞として、
定家の三夕(さんせき)に匹敵すると惚れ込んでいた。
・・・歌手自身思いきって冒険したと思われる歌が父は好きだった。」
( p186~187 )
はい。ここでは、引用は一箇所だけにしておきます。
本棚には、バラバラにすると何やらわからなくなる4冊を並べることに。
丸谷才一対談集「古典それから現代」(構想社)
高浜虚子「贈答句集」
山本健吉著「古典と現代文学」(講談社・昭和30年)
山本安見著「走馬燈 父山本健吉の思い出」(富士見書房)