和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

花を聴く。花を観る。

2023-01-14 | 絵・言葉
柄にもなく、お正月は松を飾りました。

年末、主なき家の庭にあった松を切りました。
鉢植えの松がそのままになっていて鉢が割れ、
そのまま根をはり大きくなりはじめてました。
切った松は家に持って帰り、前の鉄柱に結わえて、
下の切口がきになるのでプラスチックの鉢に入れ、
年末にいただいた枝ぶりのよい南天を下にかざり、
竹の葉もかざり、即興の門松がわりとなりました。

思いっきり切った松は、まだまだありましたから、
家の中では剣山にさし水をはって飾りとしました。

家の中の松は、まだそのままにしてあります。
はい。思い浮かんできたのは、生け花でした。

ということで、花が語りかける瞬間のような場面を引用することに。

河井道著「わたしのランターン」(恵泉女学園)
このはじめの方に、病身の父のことがでてきます。

「 ・・その後も彼はとうとう本当の健康体にならなくて
  二十歳になるまでは半病人のようであった。

  けれども、病身ということはまたよいこともあった。
  主治医や、彼を毎日教えに来る先生が、いろいろな
  物語や伝説を話してくれた。父は、日本の古典や和歌に
  専念するゆとりを得たし、また茶道や活け花のけいこを
  する時間ももてた。

  また紙や絹や藁で手芸品をつくるのも楽しみであった。
  けれどもわけても一番の大きい楽しみは、庭にあった。

  花や苔、鳥やなく虫、また小石や庭石さえも、友とした。

  このような趣味は、一見、女性的であるように見えるが、
  神官の職は、風雅な教養を必要とするので、
  実際上にふさわしいものであった。

  後年ある時、わたしが野の花をびんに押しこんだのを見て、
  父がわたしをたしなめたことがある。わたしは、

 『 これは花瓶でもないし、花だって特別いい花ではないのです。
   ただちょっと道端でつんできただけなのですもの 』

  と、口ごたえすると、父は、

 『 野の花でも、栽培した花でも、花は花、
   安いものでも、高いものでも、花いけは花いけ 』

  と言った。そして、

 『 かためてぶち込んだら、あつくるしくて、
   息づまりそうだろう。葉を茎からおとしなさい。
   こちら側に花をいく分ひき上げて、茎を曲げてごらん。

   ちょうど露がおいて、風がそよぐように見せるのですよ。
   自然の姿に見えて、涼しい感じを与えなくては、いけない 』。

 いまでも、わたしは野花が、安ものの器におしつめていけてあるのを見ると、
 あの父の言葉を、初めて聞いた時のままに、ありありと思い出す。 」
                         ( p41~42 )

はい。これはもう、花が語りはじめた瞬間のように私には思えます。
うん。ここは、もうひとつ引用を重ねることにします。

「 朝花の水をかえる。
  花をトップリと桶の水の中につけて、花びんの水をかえて、
  さて花を一本ずつ少しクキを切って挿す。

  花はいきいきとして、また美しさを増す。こうして、
  クキのさきをポツンと切る度に耳にひびいて来る声――

 『 毎日、少しずつクキを切るんだとさ。
   そうすると花がよく保つそうだよ。
   そしてね、一分ぐらい、
   花を水につけるんだとさ。

   だから切る前に水につけておいて、
   一本ずつさきを切って活けるんだね。 』

  大変な発見をしたように、私に話した夫の声がよみがえる。  」

 ( p17 村岡花子エッセイ集「腹心の友たちへ」河出書房新社 )


はい。花を買うことは、まあありませんが、時には、
貰い物のお裾分けのように花を頂くことがあります。
そのままに、筒形の花瓶に投げ入れておくのですが、
この花を語るお喋りがきまって聞こえてきそうです。
コメント (2)
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