この前、読売の古新聞(12月中頃~1月中頃までの)を
もらってきて、今日になってパラパラめくっています。
もう1月も終わろうとしてるけれど、
たとえば古新聞の1月1日の新春詠。
ここはお一人。小池光氏の3首。
新春の庭に降り立ちちからある霜柱踏む 善きことあれな
胃ぶくろの中に容れたりいただきし会津みしらずの大柿ひとつ
息つめて一気に抜きしいつぽんの白毛鼻毛をわれは凝視す
新聞紙で思い浮かぶのは、四コマ漫画のサザエさんでした。
畳をあげての大掃除をしている場面。その下に古新聞が敷いてある。
サザエさんが、その古新聞を読み始めると掃除はそっちのけとなる。
うん。新聞紙で思い浮かぶ、大村はま・梅棹忠夫を並べてみることに。
まずは、大村はま先生から
それは、昭和22年中学校が創設された時のことでした。
「私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。
ご存知のとおり大戦災地でしたから、一面の焼け野原・・・・
焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校があります。
その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校というのは出発しました。
・・ガラス戸があるわけでなし、本があるわけでなし、
ノートがあるわけでなし、紙はなし、鉛筆はなし・・・
そこへ赴任したわけです。・・・
『教室がないから二クラス百人いっしょにやってください』と、
こういうわけです。その百人の子どもは中学の開校まで3月から
1か月以上野放しになっていた子どたちです。・・・・
しばらくは教室の隅に立ちつくしていました。・・・
私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものを
たくさんつくりました。約百ほどつくって、それに一つ一つ
違った問題をつけて、ですから百とおりの教材ができたわけです。
翌日それを持って教室へ出ました。そして、子どもを一人ずつつかまえては、
『これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん』と、
一つずつわたしていったのです。・・・・・ 」
( p75~76 ちくま学芸文庫「新編教えるということ」 )
この場面は、「教えることの復権」(ちくま新書)での
苅谷さんとの対談のなかでも出てきます。
大村】 ・・・そのとき、ふと新聞のことを考えついた。
苅谷】 すぐその帰り道のことなんですか。
大村】 そう。戦時中、強制疎開で私は千葉県我孫子市に
一時移ったんですけれども、そのとき、
茶碗やら何やらを新聞にくるんで運んだわけです。
当時は私だけでなく、だれも新聞紙は大事にしましたよ。
ご主人は、仕事に行くときに必ず新聞紙一枚ポケットに
入れておくといったような。そんなふうに新聞紙は財産だった。
・・・でも、なにか特別の目的で取っておいたのでもなんでもない。
靴を包んだりお箸やお皿を包んだりした新聞紙ですから、
古いのも破れたのもあって、教材なんて結構なものではない。
それが、まあたくさんあったわけです。
とにかく子どもの数ほどないとしょうがない。
新聞を丁寧にのばして、教材として使えそうな記事を探して、
はさみで切っていって、百枚ほど作った。
ほかに余分な紙などはないから、記事の余白に一枚一枚、
学習のてびきを書いていったんですよ。
これを読んでどうせよということ。
それも、この文章を読みなさいなどというのではなくて、
ちょっと気の利いた、面白いことばをつけて、
やってもいいなという気にさせる。
そんなてびきをそれぞれにつけた。
・・・・それが百枚全部違うわけよね。
茶碗を包んだ新聞紙ですから。
全員に全部違うものを読ませるとか、
具体的なてびきをつけるとか、
その後の教室での仕事が、このとき
骨身に沁みてわかったのではないかしら。
あれ以来、教材を探すのもてびきを作るのも、誰よりも早い。
じょうずかどうかわからないけど、パッとこれは教材になるとわかる。
あまりえり好みせず、なんとか役に立つものを自分で作るということ、
それを知らず知らず体得したのではないかしら。
( p131~132 )
うん。次でおしまい。
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。
そこにある、『 十年分の日刊紙三紙 』のことが印象深い。
「先生の場合、最初からはっきりした目的があったのかどうかは知らない。
しかし、すくなくとも、半年か一年さきにつかう目的はなかったと思う。
というのは、わたしがつとめはじめたときにすでに、梅棹夫人は
物置きが新聞だらけで困っておられたのだから。 」(p207)
「十年もの長きにわたって、家族との闘いのなかを守りとおしてきた」(p210)
この三紙10年分の古新聞が日の目を見るチャンスが訪れます。
うん。肝心なところなのですこし長く引用。
「加納一郎先生の古稀記念事業に、その門下生たちのあいだで、
今日までの日本の探検の全成果をまとめて出版しようという
企画がもちあがったのである。・・・・・
梅棹先生も加納先生の薫陶をうけたひとりであった。
研究室で加納先生のお名前が出るとき、先生はきまって
『加納先生』と呼んでおられた。京都大学のあたりでは、
学生も先生も教師のことを、本人の目の前以外のところでは、
『さん』づけでよぶのがふつうになっている。それなのに、
わたしたちの前でも、加納先生と呼び、手帳に約束をかきこむときも、
『加納先生』と記入してあったから、梅棹先生にとって加納先生は
ただの先生ではないのだなと、わたしは感じていた。
その加納先生の古稀事業だから、先生はだれよりも率先してはたらいた。
出版社に話をつけ、編集方針、編集委員などについて、
根まわしのほとんどをとりしきられた。・・・
その探検講座の資料の一部に・・自分の新聞を提供しようと考えられた。
たまった新聞は、10年分はゆうにある。このなかから、
探検や冒険に関連のある記事を切り抜いていけば、立派な文献資料ができる。
・・・出版社に交渉したら、切り抜きに必要な経費は、
編集費の一部として出していただけることになり・・・
アルバイトをしてくれる〇〇探検部の若者たちの手で、
梅棹家から古新聞がはこびこまれ、台紙、合成糊、
赤色マジックペン、新聞名や日付を台紙におすハンコ、
スタンプ台、カッターなど消耗品は、注文し・・届けてもらった。
・・気になった記事の指定は、選定基準をもとに、
まず学生たちが赤で記事をかこみ、そのあと、
福井(勝義)さんが記事のとりこぼしがないかチェックする。
さらに切り抜きと台紙にはりつける作業は、
梅棹家のお子さんと若い学生さんたちで手わけしてやるときまった。
・・先生は『新聞切抜事業団』と名づけられた。・・・・ 」
( p209~210 )
さてっと、これだけで終わっては昔の戯言と笑われるかもね。
最後には、鶴見俊輔氏の対談での言葉を引用しておくことに。
「 ・・私たちが〇〇でやったのは、いまの〇〇のイメージとは
ぜんぜん違うわけ。つまりね。あのときのカードは機械のない
時代の技術なんですよ。コピー機もないしテープレコーダーもないし、
もちろんコンピュータやEメールもない。
いわば、穴居時代の技術です。
コンピュータのいまのレベル、
インターネットのいまのレベルという、
現在の地平だけで技術を考えてはだめなんです。
穴居時代の技術は何かということを、
いつでも視野に置いていかなきゃいけない。
それとね、私たちの共同研究には、
コーヒー一杯で何時間でも雑談できるような
自由な感覚がありました。・・・・・
一日中でも話している。
アイデアが飛び交っていて、
その場でアイデアが伸びてくるんだよ。
ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。
いま、インターネットで世界中が交流できるようになってきているけど、
コンピュータの後ろにそういう自由な感覚があれば、
いろんな共同研究ができていくでしょうね。 」
( p207 季刊「本とコンピュータ」1999年冬号 )