同時代にいてくれたのに、
私は、『逝きし世の面影』も未読でした。
その著者・渡辺京二氏が2022年12月25日に亡くなる。
今日の産経新聞オピニオン欄『正論』で平川祐弘氏が
渡辺京二氏をとりあげられておりました。
そのはじまりは
「 渡辺京二氏が熊本で歳末に亡くなった。
『逝きし世の面影』(平成10年、葦書房)という
情緒豊かな標題の書物で、日本が西洋化することで
失った明治末年以前の文明の姿を追い求めた。
この代表作が17年に平凡社ライブラリーとして
再刊され、(注:平川祐弘が)解説を書いた。・・・ 」
ちなみにですが、
渡辺京二氏は1930年生まれ。
平川祐弘氏は1931年生まれ。
平川氏は、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』を切り口にして、
戦後の言論空間を短文できれいに腑分けしてくれていました。
月刊Hanada令和5年3月号には、
三浦小太郎氏が「追悼・渡辺京二」という10頁の文が載っていました。
ちなみに、その次の頁には平川祐弘氏の連載が第九回目になってます。
わたしは、『逝きし世の面影』も読んでいないし。他の本も、
ちょっと、読み齧ったぐらいですので追悼文の引用はさけて、
本棚から、渡辺京二氏の掲載文がある雑誌をとりだしてくる。
「文芸春秋」2016年6月号には、
特集の「大地震からの再出発」に、渡辺氏が「熊本の地から」と
題する文を載せておりました。その文のはじまりは
「 この原稿の注文を受けたとき、考えてしまった。
決定的な二度目の激震のあと、まだ三日目である。・・・
やっと最低限の生活空間をぎりぎり作り出したばかりだ。 」
こうして、被災した様子を少し書いてゆき、
「その後のことは書かない。」として文章の鼻先を変えています。
「 災難は今度で二度目という気がする。
というのは、私は旧制中学三年のとき
大連で敗戦を迎え、引き揚げるまで一年半、
敗戦国民として悲惨を味わったからだ。
特の二年目の冬がひどかった。
常食は高粱(コーリャン)でつねに飢えていた。
零下十数度までくだるのに、
石炭が切れて暖房なしに過した。
家は接収され、他の日本人住宅に同居を強いられた。
引き揚げ船には手荷物だけで乗った。全所有物を失ったのだ。
引き揚げてみると、当にした親戚は空襲で焼け出されていて、
彼らが転がりこんでいたお寺の一隅に、さらに私たちが転がりこんだ。」
「敗戦後の苦難と、今回の災害は、形態は違うものの、
生活基盤を脅かされる点では同一といってよい。
だから私は二度目というのである。
しかし、経験の質はまったく異なっていた。
私は年齢というものを勘定に入れていなかったのである。
敗戦後の私は十代であった。躰をいくら酷使しても疲れを知らなかった。
苦難は冒険とさえ感じられた。この時期の記憶は、
私の生涯でも最も生気に満ちている。
しかし、いま私は八十五歳、
今度ほど自分が役立たずであるのを感じさせられたことはない。」
「 大連で敗戦を迎えたのが私にとってよきことだったのは、若かったからだ。
いまの若い人が東北大災害と熊本大地震を経験したのは、
私の場合とおなじようによきことなのだ。このふたつの悲惨事は、
これから社会を担ってゆく人びとにとって
貴重な経験になるにちがいない。
高度化・複雑化・重量化する文明を、
いかにして質を落すことなくかえって高めながら、
より操り易く、より軽量で、
より人間に馴染み易いものに転換してゆくか
という困難な課題に取り組まねばならぬのは彼らなのだ。 」