梅棹忠夫の研究室に勤めていた藤本ますみさんの本に、
こんな場面がありました。
「 原稿がなかなかすすまなくて困っているとき、
先生(梅棹)は苦笑しながら、こんなことをもらされた。
『 ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
すらすら読めるし、わかりやすい。だから、
かくときもさらさらとかけると思っている人がいるらしい 』 」
( p240 藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」講談社 )
読売の古新聞をひろげていて、お目当ての箇所がありました。
それは磯田道史の『古今をちこち』という月一回の連載です。
ふ~ん。最近のは、挿絵も磯田氏ご自分が描いているようです。
うん。『下手うま』というのありますが、どう見ても下手絵(笑)。
うん。以前の挿絵は惹かれるものがあり、夢にも出てきたんです。
それはそうと、12月14日(水)の磯田氏の連載文は、こうはじまってます。
「磯田道史『日本史を暴く』(中公新書)がベストセラーになったという。」
この回の見出しは、『学問と社会をつなぐ工夫』でした。
うん。ここが肝心そうだという箇所を引用しておきます。
「 21世紀半ばの人文学は、新しい評価軸が必要だと思う。これまでの
人文学系の学界の考え方には欠けている視点があり反省が必要だ。
学者と言えば、真か偽か、新知見か既知か、先行研究を高めるか、
という評価軸だけで考え、難解な用語で、専門家だけの学術雑誌
に論文を書く仕事だとしてきた。
一方で、わかりやすい。面白い。楽しい。つながる。
こういった本来、人文知がもっていた豊かでおおらかな視点を欠いてきた。
誰にもわかる。楽しめる。ユニバーサルな学問がこれからは必要である。
難解な学問が不必要なわけでない。
学問の成果の理解が難しければ、学問と一般社会
をつなげ、コミュニケートする工夫が必要になる。
実は、この仕事は難解な専門研究をやるよりも数段難しい場合も多い。
この点を誤解している研究者はまだ多い。
旧制高校卒業の世代の著述に比べ、近年、
人文系の研究は明らかに拙い文章の論文が増えている。
論文の査読をしていて強く感じる。
誰にでもわかりやすく解説するには
国語力や雄弁・博学が必要で、
なかなか難しい。でも、やらねばならぬ局面だ。 」
『でも、やらねばならぬ局面 』を、どのように理解すればよいのか?
というところで、ここにも大村はま先生に、登場していただくことに。
上記の磯田氏の文に『旧制高校卒業の世代』とありました。
ちなみに大村はまが、先生となったのはいつ頃だったのか?
大村はま著『新編 教えるということ』(ちくま学芸文庫)は、
講演をまとめた一冊なのですが、そこのはじまりにありました。
「 私は昭和3(1928)年にはじめて教師になりました。」( p11 )
どこで先生をはじめたかというと、
長野県の諏訪高女(今の二葉高校)です。その箇所を引用。
「 それから国語の先輩の先生は、私を助手にして万葉集の索引を作る
仕事をなさっていました。先生は土屋文明先生のお手伝いをして
いらっしゃたかたですが、私に・・むずかしい中国語の辞書をひかせます。
・・『・・こうやってひくんだよ』と教えてくださいました。
『 なんだって今のうちに勉強しておかなきゃだめなんだ。
手伝っているなんて思ったら大間違いだ。この本は、
こういうふうに使う。これを調べるにはこれを使う 』
と教えてくださいました。
当時、珍しいほどの蔵書を持っておりました長野県の、
今、二葉(ふたば)高校と申します諏訪高女の国語研究室において、
私はたいへん鍛えられたのです。・・・・
それから、また、言論自由の職員室の空気がありました。・・・
一方、思いきってものの言える雰囲気ができていて、
いちばん若い私が、いろいろなことを言えるような
雰囲気になっておりました。 」( p18 )
はい。これが、戦後の大村はま先生へとつながってゆく箇所なので
もうちょっとおつきあい願います。
「 そのころ、熱心な先生のなかには、国語ですと、
『源氏物語の研究』とか、『万葉の研究』とかいったような
テーマをもって勉強なさるかたが、信州にはたくさんありました。
私はそのことについて相当な反感をもっておりました。
それはそれでよい、研究することは尊いことだと思います。
けれども、私はもっと、『 作文をどうするか 』とか、
そういった種類のことを教師は勉強すべきではないかと、
生意気ながらも考えておりました。
女子大に在学中から、先生になろうと決心して、
教材の研究を試みていたのですから、
当然そういうことになるわけです。
・・・・国語教育の権威芦田恵之助(あしだけいのすけ)先生に
直接手をとって教えていただいた最後の人たちの中に、私もはいっております。
ですからもう、教育の、そうした現場の研究をすべきであると、
胸いっぱいに思っておりました。 」 ( p19 )
この講演「教えるということ」は、1970年8月におこなわれたものでした。
そうです、梅棹忠夫氏は、こう語っておりました。
『 ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
すらすら読めるし、わかりやすい。だから、
かくときもさらさらとかけると思っている人がいるらしい 』
新聞連載の、磯田道史氏はというと、
「 誰にでもわかりやすく解説するには
国語力や雄弁・博学が必要で、なかなか難しい。
でも、やらねばならぬ局面だ。 」と指摘します。
どうやら、磯田氏の指摘を深堀するためには、
梅棹忠夫著『 知的生産の技術 』があって、
大村はまの『 作文はどうするか 』がある。
そう私なりの目星をつけているわけなんです。
はい。つい長くなりますが、最後にここも引用。
「 ある日、歴史の先生が
『 勉強しているかい、テーマを言ってみろ 』
と私におっしゃいました。
そして、私が
『 作文を今こういうふうにして、
こういう記録をとって、
こういうようにやっている 』
と言いましたら、
『 平家物語時代に口語が芽ばえてきて、
だんだん狂言のことばになってくる。
そういうふうな研究をして、
口語の発生とその発達、ということを考える。
このなまな国語、なまな口語、これが今からどのくらい経たら
ほんとうの日本語になれるのか、考えてみるんだな。
文語はすでにもう鍛えられたことばになったけれども、
どうも口語はなまでいけない。
口語では文章は書けないし、歌も作れない。
そういう意味で口語の研究をしたらどうか 』
と私におっしゃったのです。
たいへん強くそれをおっしゃったのですが、
それはそれとしておもしろいとは思いましたけれども、
私は黙っていて、それをやるとは言わなかったのです。
ところが、あくる日になってもまた、万葉集はどうかとか、
芭蕉はどうかとか、いろいろおっしゃったものですから、
とうとう私は、職員室のまん中で、20幾人かいる先生がたのまん中で、
――校長先生ももちろんおいでになっていました――
『 作文の研究じゃいけないんですか! 』と、
大声でどなってしまいました。・・・・
そんなことをどなったというのが、今日まで教室につながる
エネルギーだったんじゃないかと、今でもみなさんに言われます。
そんなようなことで、私は、先生になった初めの10年間を過ごしました。」
( p19~20 )
今年これから私が読もうとしている『大村はま国語教室』は
そこから始る大村はまの足跡なのだと心得。全集を開きます。
何って、ちっとも読み進めていないのだから困ったものです。
せめても、当ブログで『読むぞ、読むぞ』とスタートの号令。