うん。私にも中学校で忘れられない先生がいました。
国語の先生で、杉村先生といいました。
もう20年以上前に、子供の中学校の広報誌に
載せたいからと自由題で、急きょピンチヒッターとして
注文がきました。その際の文がとってありました。
たまには、そんなのから引用させてください。
「・・私の忘れがたい恩師は、○○中の先生でした。
『夕鶴』などを教えてくださった国語の杉村〇〇先生。
廊下をペタペタと底の堅い教員用のつっかけで、
音をたてて歩く先生でした。
ボンクラな私は、国語の授業とは、このようなものだろうと、
うかつにも思いこんでいました。ところが、
高校で国語をうけてもつまらない。
何でほかの先生はこんなにつまらないんだろう、と思っておりました。
杉村先生の国語の魅力に気づくのに、自分なりにまわり道をして
時間がかかりました。
さて、現在の話です。3年前偶然に杉村先生の奥さんと話す機会にめぐまれました。
杉村先生は昭和49年に42歳で亡くなっておられます。
奥さんの三恵子先生は、もう退職まじかで〇〇小学校の校長先生でした。
その当時の文章を読ませてほしいとお願いしておいて、取りにうかがうと、
風呂敷に包んでありました。お線香の匂いがしました。
三恵子先生は、亡くなってから、その資料を仏壇の下に包んで置かれ。
忙しさも手伝って、いまだに落ち着いて触れる気にならないとお聞きしました。
その資料からひとつ引用させていただきます。
それは、亡くなる前年に同僚にあてた年賀葉書の文面です。
『教室で』とあります。
『 生徒たちは活字と格闘し
むんむんと新しい世界に飛躍します。
・・・・・・
なに?なぜ?とどん欲な生徒の息吹が
無限に教室と私の心に流れます。
人間のために学ぼう
人間の心を大切にしよう。
心あることばでいつまで語ろうと思います。
母国語の心のことばで
それを大切にしようと思います。 』
この年賀葉書の文面は、奥さんも知らずに。
たまたま、宛名不明で戻ってきたので読むことができたそうです。
杉村先生らしい偶然だと思い。そういうこぼれでたような
偶然に感謝して読ませていただきました。 」
ちなみに、この文は、最初の依頼の字数に合わせて書いたのですが、
広報委員の方からあとで、収まりきらないので半分にしてほしいと、
依頼され、この文を半分に削って掲載されました。掲載文は、
自分でも何をいっているのやら、わからない文になっておりました。
はい。20年以上すぎてから、この文をブログに引用するなんて、
思ってもみないことでした(笑)。
はい。私の大村はま先生への興味は、
どうやら杉村先生という下地があり、
自然と繋がっているのだと思います。