数年ごとに、みじかな本棚からとりだすのは、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)。
この梅棹忠夫の新書と、大村はまの講演とを
『 重ね読み 』してみたいと思います。
新書の「はじめに」は、20ページあるのですが、
なんど読めど、分かったようでいてわからない。
うん。分からないから、何度でもひらいてみる、
といった方がよいのかもしれないなあ。
ページごとに、言葉に一本筋が通っていて、
まるで筋が多い肉が、噛み切れないように、
嚙み砕いて理解しようとするのを阻みます。
「はじめに」の最後の3行に
『いちばんかんじん』なことを書いてあります。
「 知的生産の技術について、いちばんかんじんな点は
なにかといえば、おそらくは、
それについて、いろいろとかんがえてみること、
そして、それを実行してみることだろう。
たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。 」
うん。ここで、大村はま先生の講演を思い浮かべます。
「 今までやってみたことはけっしてやりません。
それから既存の教材はけっして使いません。・・・・
かならず教材は新しく発掘して使います。
だれも使ったことがない、教科書などにはもちろん載っていない、
そういう新しい教材を用意します。
方法も、自分として今まで一度もやったことのない
方法を開拓してやるわけです。ですから・・・・
新卒の時と同じ苦しみです。何をやってよいかわからないし、
どうやればよいかわからないし・・・・
もう四十幾年も教員をやっていれば、・・・
どんな古い方法でも、今までやった方法でもよかったら、
いますぐにでもやれます。
けれども、それでは老いてしまうと思います。
それは精神が老いてしまうことです。
未来に対して建設できないなら、私は、
さっさとやめた方がよいと思っています。・・・・
一般の学校にいるから苦しみも大きいのです。
しかし、私は、その毎月の研究授業をだれのためにもやっていません。
自分が教師として老いないためです。・・・・ 」
( p30~31 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )
また、「知的生産の技術」の「はじめに」を引用してみます。
「 この本で、わたしがかこうとしていることは、要するに、
いかによみ、いかにかき、いかにかんがえるか、
というようなことである。・・ 」( p2 )
「 ここで問題にしようというのは・・むつかしい話とはちがうのだ。
学問をこころざすものなら当然こころえておかねばならぬような、
きわめて基礎的な、研究のやりかたのことなのである。
研究者としてはごく日常的な問題だが、たとえば、
現象を観察し記録するにはどうするのがいいか、あるいは、
自分の発想を定着させ展開するにはどういう方法があるか、
こういうことを、学校ではなかなかおしえてくれないのである。
このことをわたしは、わかい研究者諸君の指導をする立場に
たつようになってから、気がついた。
大学をでて、あたらしく研究生活にはいってくる人たちは、
学問の方法論については堂々たる議論をぶつことはできても、
ごくかんたんな、本のよみかた、原稿のかきかたさえも
しらないということが、かならずしもめずらしくないのである。 」
( ~p4 )
はい。『ごくかんたんな、本のよみかた、原稿のかきかた・・』
それを学ぶのには、梅棹忠夫氏より大村はま先生に学ぶに限る。
そう思ってみるのです。今年は、大村はま先生から学ぶことに。