ネットでの座談を聞いていたら、
こんな箇所がありました。
それは、
『年を取るにしたがって、記憶力は減る。
そのかわりに、連想力はひろがる。』
なんだか、そんなような内容でした
(具体的な言葉は、もう忘れています)。
うん。連想力でいきましょう(笑)。
たとえば、
岩村暢子著「普通の家族がいちばん怖い」(新潮文庫)
の「単行本あとがき」にあった、この言葉
「・・理由は大きく二つあり、近年多くの対象者が
『本当にそうであること』より、
『そう答えるのが正解だと感じること』を
答えるようになってきているという事がひとつ。・・・」
(p268~269)
うん。いけません(笑)。
年をとったからか、ここから連想がひろがります。
ということで、本棚から出してきたのは
小林秀雄の対談「人間の建設」でした。
小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。
問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。
問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。
この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。
いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、
物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。
答えばかり出そうとあせっている。
・・・・・・・・・
たとえば、
命という大問題を
上手に解こうとしてはならない。
命のほうから答えてくれるように、
命にうまく質問せよ
という意味なのです。
うん。私は、『命』を『京都』と、
いれかえてみたくなる。
ということで、
『たとえば、
京都という大問題を
上手に解こうとしてはならない。
京都のほうから答えてくれるように、
京都にうまく質問せよ
という意味なのです。』
こういう質問項目があったら、
さて、どのような答えがあるのか?
小林秀雄いわく。
『問題をうまく出せば即ちそれが答えだと』。
う~ん。小林秀雄といえば、たしか
私の高校時代の国語教科書の
監修者欄をみたら、そのなかに
小林秀雄の名前が、ありました。
国語の教科書に、どんな文をいれるのか?
わたしなら、京都のこの短文をいれたい。
そんなことを思い描きながら、以下全文。
「ひねこうこ」 秋山十三子
しわしわの古漬けたくあんを薄切りにし、
け出しして煮たものを、京都の人は
『おつけもんの炊いたん』という。
先日、東京の人に食べさしたら、
『ひやっこればかりはどうも・・・・』と、
ひとくち食べておうじょう(閉口)しゃはった。
独特のにおいがあって、
切り干し大根ともちょっと違う。
おいしいとも、あじないともいいようのない味だが、
ふしぎに京都人の口にあう。
雪も降らず、ただシンシンと底冷えする冬の夜、
表を通るげたの音を聞きながら、
これでお酒をチビチビのむのが、
京都にうまれた男のしあわせという人さえある。
漬けもの桶の底に、はりついたように残り、
すてるよりほかないひねこうこを、煮て食べさせるなんて、
京都人のけちんぼの標本だと思う人も多いやろ。
しかしわたしたちは子どもの頃から、
『これはぜいたくなもんえ』と、教えられてきた。
そのままでもおいしく食べられるおだい(大根のこと)を、
お漬けものにするのが第一のぜいたく。しかも
一家中が毎日食べて、まだまだ残るほどたくさんに
用意できるという暮らしが存外のしあわせ。
それをまた塩出しして、おだしやら、手間やら入れて、
おいしいおかずに炊くのはぜいたくと思わならん・・・と。
以上がだいたい祖母のお説教の大要であったかと思う。
これを大名だきともよぶそうな。
人間が、三度三度のごはんを思う存分食べられることを幸せ
・・と思うて暮らした歴史はずいぶん長いことに違いあるまい。
ーーーさて、おこうこは、ていねいに薄切りする。
つぎに水に漬けて塩けを抜く。台所のはしりの隅に鉢を置いて、
立ったついでに何度も何度もてまめに水をかえる。
そして、だしじゃこと、種を抜いたタカノツメを入れて、
酒塩と、薄口をさし、たっぷりのだし汁がなくなるまで
コトコトと炊きあげる。
たくさん炊いて歯にしみるような冷たいのがおいしい。
今はやりの即席食品とは似ても似つかない
しん気くさい煮物である。
しかし、ごちそうを食べあきた中年の人たちが、
必ずおいしいとほめるのやから、
やっぱりぜいたくな京の味だろうか。
はい。以上が全文(p40~41)です。
『京のおばんざい』(光村推古書院)から引用しました。
はい。ここには
『京の味』のぜいたくを語るのに、
『京都人のけちんぼ』
『祖母のお説教』
『子どもの頃から』
『京都にうまれた男』
『一家中が毎日食べて』
『ふしぎに京都人の口にあう』
『中年の人たちが』
・・・
と、語られてる。
その、ぜいたく。
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