家で、とりあえず数分坐禅をしてみる。
お尻の方に座布団をおいて、坐りやすくする。
ときどき、思いついてするので、たよりない。
さてっと、そういえば、道元の正法眼蔵に、
坐禅についての箇所があるに違いないと、
まあ、そんなことを思うのでした。
講談社学術文庫の増谷文雄全訳注『正法眼蔵』の
目次をパラパラとひらいてゆくと、『正法眼蔵(三)』の
目次に『坐禅箴(ざぜんしん)』とある。
はい。そこだけを、それも現代語訳だけをめくってみる。
数分坐禅と、一部分のパラパラ読みと、
こういうのを、ちかごろ恥としないのは、
これはもう、年をくったということでしょうか。
さっそく、興味をひく箇所がありました。
「南嶽(なんがく)はまた示していった。
『なんじは坐禅を学んでいる。それは坐仏を学んでいるのだよ』
そんなことばをよくよく思いめぐらして、
仏祖の教えの機微を学びとるがよい。・・・・・・
正伝につながる仏者でなかったならば、とてもとても、
このような学坐禅は学坐仏なのだといい切ることはできまい。
まことにや、初心の坐禅は、初めての坐禅であり、
初めての坐仏であると知るがよろしい。」(p189)
はい。わたしは、これだけで満腹。
これ以上、読めなかったりします。
「坐禅箴」のすこし先の方には、こうもあります。
「仏の光明というのは、
一つの句を聴いて忘れないのがそれであり、
一つの教えを保ち守るのがそれであり、
坐禅を直々に伝授するのがそれである。
もしも仏の光明に照らされるのでなかったならば、
それらを保ちつづけることも、信じ受けることも
できないのである。
そういうことで、古来からのことを尋ねてみても、
坐禅の坐禅たるゆえんを知るものは少ない。・・・・」
(p198)
うん。このくらいにして、さて、今日は、
我流の坐禅を、何分ぐらいできるかなあ。
コメントありがとうございます。
私は、これから道元の正法眼蔵を
読んでみようと思っている者です。
コメントいただいて、
ヨガとの関連を思い浮かべました。
つぎの、ブログにはそこのところを
書いてみたいと思います。
また、ベッドにはいったら、
弥勒菩薩半跏思惟像の姿を
思い浮かべておりました。
私自身なんとか、健康に留意して、
日々すごしてゆきたいと思います。
これからも、よろしくお願いします。
健康を考慮なさって、座禅よりも片脚立ちで瞑想の境地に挑戦されてみては如何ですか?