和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

虻蜂とらず。

2022-02-03 | 本棚並べ
ふと、思い浮かんだ言葉に、
『虻蜂取らず』というのがありました。
「同時に複数のものをとろうとして、
 一つも手にすることができない」
というような意味のことわざのようで、
「二兎追う者は一兎をも得ず」と同じ意味のようです。
うん。言葉は知っていても、使ったことなかった。

古本で佐伯彰一著「神道のこころ」(日本教文社)。
松阪大学図書館蔵書に、赤いハンコで「除籍済」と
はいっております。

この本のなかで、
尾崎一雄が、取りあげられていて、
私は一度も読んだことがない人ですが、
読んでみたいと思ってしまうのでした。

また、この本のなかに、
8月15日に関連する文がありました。
そこに、こうあります。

「この季節になると、毎年きまって取り出してきて、
その一節を読み上げたり、また一気に読みかえしたり
する本が何冊かある。

『平家物語』や阿川弘之の『雲の墓標』『暗い波濤』、
また柳田国男の『先祖の話』や
アイヴァン・モリスの『失敗の高貴さ』などだが、

『平家』や阿川氏の本はともかく、後の二冊は
少々奇妙な選択といわれるかもしれない。しかし、
死者たちへの敬虔という点で、
これらの書物は不思議なほど相通じている。」


はい。平家物語や阿川弘之や先祖の話。
はなから、長い平家物語は私には無理。
それ以外の本が気になります。
さらに、佐伯氏はつづけます。

「アイヴァン・モリスは、イギリス生まれの日本文学研究家、
数年前イタリアで急死された人だが、少々精力的すぎ、
著作家としてもあれこれと手を出しすぎるきらいがあった。

ところが、彼のこの最後の本は、
不思議なほど語調ににごりがなく、澄み切っている。
『失敗の高貴さ』The Nobility of  Failureは一種の日本史論 
  ・・・・・・・・・・・・

とくに特攻隊を扱った章の出来はすばらしい。
もとより、無条件で特攻隊を讃美している訳ではない。
その実際の成果が、いかに少なく、しばしば無効に近かった
こともはっきりと書きとめているのだが、同時に
特攻に加わった若者たちの手記や手紙にひろく目を通して、
その心情、態度を内側からとらえようと努めているのだ。

平静で、客観的でいて、しかもじつに行きとどいている。
特攻隊の人々に、『敵』に対する憎しみの感情が、
ほとんど全く認められないことに率直におどろき、
彼らのほとんどがむしろ平静に、『よき未来の到来を信じつつ』
死地に赴いたプロセスを、共感をこめて描きとめている。

阿川氏の作品などを別にすると、わが国でも、これほど客観的で
しかも行きとどいた特攻隊論は、めったに見られないように思う。

彼らを偏狭な超国家主義の化け物じみた扱いをしていないのはもちろん、
ひたすら受け身のあわれな犠牲者とも見なしていないのだ。
かつて、まぎれもなく『敵』として戦った相手国の書き手による、
これほどの内的な理解と共感の記述をたどってゆくと、
ぼくはその度に、涙を抑えがたくなってしまう。
これなら、いや、これでこそわが同じ世代の死者たちも救われる、
思わずそんな呟きまで、洩らさずにいられない。 ・・・・」


佐伯彰一氏のこの一冊をひらいてると、
読みたい本が、あれもこれも出てくる。


いままでの私はというと、こういう場面にどうしていたか。
はい。これが私の『虻蜂取らず』というのかもしれません。
あれも読みたい。これも読みたいとの思いが押し寄せると、
それから先は、その押し寄せた波が、スーッと引いてゆく。

ちなみに、アイヴァン・モリスの『失敗の高貴さ』は
翻訳で『高貴なる敗北』と題して古本検索でありました。
あったのですが、その1冊で1万円以上しておりました。

ここは、腰をすえて、柳田国男の『先祖の話』を読みおえて、
阿川弘之の2冊へと、読みすすめるか。
それとも、気になっている尾崎一雄をパラリとでも
ひらきはじめるか。

こんなふうにして、思い迷っていると、
浮かんでくる言葉が、『虻蜂取らず』。






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