福原麟太郎著作集1は、「シェイクスピア」の論考でまとまっておりました。
そこに、「シェイクスピア講演」がはいっています。
この、「シェイクスピア講演」は講談社学術文庫(昭和63年)にもある。
さて、その講演に「シャイクスピアの文学」という36ページほどの文がありました。
なに、私はそこしか読まなかったということです。
どういうわけか、その講演中に嘉納治五郎が登場。
まず、そこを引用。
それは、シェイクスピアの登場人物を語っている時でした。
「・・・善人で、世話好きで、非常に注意が行きとどいて、お節介な人である。何か自分のやりたいことがあると、乗り出して人の迷惑なんかかまわないで一人でかきまわすという、そういう人がわれわれの友だちの中にもあるものです。自分自身のことを考えてみましても、確かに誰にでもそういう性質があると思います。何か、人間の心のあるボタンを押しますと、その人がクニャクニャとまいってしまうというようなことで ――― 私どもは嘉納治五郎という講道館を創立された先生に教わったのでありますが、嘉納先生というのは、非常に機嫌が悪くてお弟子がそばに行っておれないようなときにも、『先生柔道は』と言うと、『なに』といってニコニコされたという、そういうようなところは誰でも持っておると思いますが・・・・」
う~ん。福原麟太郎氏の先生は嘉納治五郎だったのですね。
そうだ。と、ここで夏目漱石を思い浮かべたというわけです。
漱石に、よくご存じの「私の個人主義」という学習院での講演の文があります。
そこに、嘉納治五郎が登場します。
何でも、漱石が卒業して、学習院の教師に就職しようとすると、落第。
そして、高等学校と高等師範の両方から同時に口がかかることになる。
以下は、ちょっとながくなりますが、せっかくですから、しっかりと引用。
「・・・ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、早速出掛けて見ると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談は極った、こっちに遠慮は要らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行掛り上否(いや)だとはいえませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えると勿体ない話ですが、私は高等師範などをそれほど有難く思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡した位でした。嘉納さんは上手な人ですから、否(やい)そう正直に断られると、私は益(ますます)貴方に来て頂きたくなったといって、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を掛持ちしようなどという欲張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数を掛けた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんも貴方はあまり正直過ぎて困るといった位ですから、あるいはもっと横着を極めていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向き所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けた御話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子屋へ手伝いに行ったようなものでした。
一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。貴方がたは松山の中学と聞いて御笑いになるが、大方私の書いた『坊ちゃん』でも御覧になったのでしょう。『坊ちゃん』の中に赤シャツという渾名を有っている人があるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし『坊ちゃん』の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツは即ちこういう私の事にならなければならんので、――甚だ有難い仕合せと申上げたいような訳になります。
松山にもたった一カ年しかおりませんでした。立つ時に知事が留めてくれましたが、もう先方と内約が出来ていたので、とうとう断って其所を立ちました。そうして今度は熊本の高等学校に腰を据えました。・・・・」
ついつい、面白くて、余分な個所まで引用してしまいました。
これくらいにして、
斎藤孝著「代表的日本人」(ちくま新書)に
嘉納治五郎が取り上げられておりました。
そこに
「ところで、嘉納治五郎が東京高等師範学校の校長を務めていたことをご存じでしょうか。・・彼は日本の教員養成の総本山とも言うべき東京高等師範学校の校長を、27年間も務めていたのです。」(p86)
その嘉納治五郎校長の時代に、夏目漱石がおり、福原麟太郎がいたというわけです。
ちなみに、「福原麟太郎著作集5」(研究社)に「嘉納治五郎先生」という短文がありました。
ひょっとして、東京高等師範学校と嘉納治五郎と、
これが教育から消えて、その余韻も消えてしまったのが現在なのでしょうか?
などと外山滋比古氏の本を読みながら
外山滋比古氏の恩師である福原麟太郎を思い。
さらに、福原麟太郎氏の恩師のことを思ったりするのでした。
そこに、「シェイクスピア講演」がはいっています。
この、「シェイクスピア講演」は講談社学術文庫(昭和63年)にもある。
さて、その講演に「シャイクスピアの文学」という36ページほどの文がありました。
なに、私はそこしか読まなかったということです。
どういうわけか、その講演中に嘉納治五郎が登場。
まず、そこを引用。
それは、シェイクスピアの登場人物を語っている時でした。
「・・・善人で、世話好きで、非常に注意が行きとどいて、お節介な人である。何か自分のやりたいことがあると、乗り出して人の迷惑なんかかまわないで一人でかきまわすという、そういう人がわれわれの友だちの中にもあるものです。自分自身のことを考えてみましても、確かに誰にでもそういう性質があると思います。何か、人間の心のあるボタンを押しますと、その人がクニャクニャとまいってしまうというようなことで ――― 私どもは嘉納治五郎という講道館を創立された先生に教わったのでありますが、嘉納先生というのは、非常に機嫌が悪くてお弟子がそばに行っておれないようなときにも、『先生柔道は』と言うと、『なに』といってニコニコされたという、そういうようなところは誰でも持っておると思いますが・・・・」
う~ん。福原麟太郎氏の先生は嘉納治五郎だったのですね。
そうだ。と、ここで夏目漱石を思い浮かべたというわけです。
漱石に、よくご存じの「私の個人主義」という学習院での講演の文があります。
そこに、嘉納治五郎が登場します。
何でも、漱石が卒業して、学習院の教師に就職しようとすると、落第。
そして、高等学校と高等師範の両方から同時に口がかかることになる。
以下は、ちょっとながくなりますが、せっかくですから、しっかりと引用。
「・・・ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、早速出掛けて見ると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談は極った、こっちに遠慮は要らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行掛り上否(いや)だとはいえませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えると勿体ない話ですが、私は高等師範などをそれほど有難く思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡した位でした。嘉納さんは上手な人ですから、否(やい)そう正直に断られると、私は益(ますます)貴方に来て頂きたくなったといって、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を掛持ちしようなどという欲張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数を掛けた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんも貴方はあまり正直過ぎて困るといった位ですから、あるいはもっと横着を極めていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向き所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けた御話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子屋へ手伝いに行ったようなものでした。
一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。貴方がたは松山の中学と聞いて御笑いになるが、大方私の書いた『坊ちゃん』でも御覧になったのでしょう。『坊ちゃん』の中に赤シャツという渾名を有っている人があるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし『坊ちゃん』の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツは即ちこういう私の事にならなければならんので、――甚だ有難い仕合せと申上げたいような訳になります。
松山にもたった一カ年しかおりませんでした。立つ時に知事が留めてくれましたが、もう先方と内約が出来ていたので、とうとう断って其所を立ちました。そうして今度は熊本の高等学校に腰を据えました。・・・・」
ついつい、面白くて、余分な個所まで引用してしまいました。
これくらいにして、
斎藤孝著「代表的日本人」(ちくま新書)に
嘉納治五郎が取り上げられておりました。
そこに
「ところで、嘉納治五郎が東京高等師範学校の校長を務めていたことをご存じでしょうか。・・彼は日本の教員養成の総本山とも言うべき東京高等師範学校の校長を、27年間も務めていたのです。」(p86)
その嘉納治五郎校長の時代に、夏目漱石がおり、福原麟太郎がいたというわけです。
ちなみに、「福原麟太郎著作集5」(研究社)に「嘉納治五郎先生」という短文がありました。
ひょっとして、東京高等師範学校と嘉納治五郎と、
これが教育から消えて、その余韻も消えてしまったのが現在なのでしょうか?
などと外山滋比古氏の本を読みながら
外山滋比古氏の恩師である福原麟太郎を思い。
さらに、福原麟太郎氏の恩師のことを思ったりするのでした。
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