大矢鞆音(ともね)著「画家たちの夏」講談社・2001年。
題名に惹れ、古本で安く買ってありました。
著者のサイン入りだった。装幀・安野光雅。
序章が「それぞれの夏」。
五章まで、各章一人、五人の画家がとりあげられております。
まずは、序章の最後の箇所を引用。
「戦後、多くの画家たちは生活の苦しさを抱えながらも、
ともかく平和のなかで再び絵が描ける喜びを自分のものにしていた。
絵を描くことがひたすら好きだった画家たちである。・・・・
美術の秋ということばをよく耳にするが、
画家たちにとっての戦いは、夏である。
彼等は季節の夏を、人生の夏を、どのように生き、
どのように描き、どのようにして死を受け入れたか。・・・ 」(p16)
第二章「大矢黄鶴 父との夏」は、鞆音氏の父親でした。
うん。この箇所を引用しておきたくなります。
「8月も終わりになるころ、いよいよ搬入の日が近づいてくる。
作品のでき具合がよくても、悪くても、
その〆切日には提出しなければならない。
作品の完成というのは結局のところ、〆切日が完成の日ということになる。
そのでき具合が自分の想いのなかばであっても、完成となる。
結局のところ絵描きにとって完成などない、
というのが父の仕事を見つづけての私の感想である。
・・・毎年毎年の夏の日々は私にとっても、じつに楽しかった。
その作品がどう評価されようが、確実に父の戦いとして結果が残る。
そしてその苦闘のさまが手にとるようにわかっていれば、
他人の評価などどうでもよいではないか、という想いでいっぱいになる。
『今年も終わった』『夏の陣は想いなかばで終わった』
というのが父の気持だったろうと思う。
『あとは搬入するだけ』『その後は他人さまが決めることだ』
というのがいつわらざるところだったろう。
そこには炎暑の夏を戦った、というさわやかさがあふれていたように思う。
どんな苦しい時も、秋の出品制作を一回も休んだことがなかった父。
これが毎年の年中行事と受けとめていた我々兄弟の夏の日々の過ごし方は、
この父の出品制作を中心に組まれており、
普通の子供たちが、海水浴に行ったり、山登りに行ったり、
という話を聞いても、遠い世界の話として聞き流すことができた。
一生懸命に描きつづける父の姿、生き方が、
七人の子供たちへの教えとなっていたはずである。・・・」(p81~82)
ちなみに、
大矢黄鶴(おおや・こうかく)明治44年新潟県三島郡与板町生れ。
昭和41年脳出血のため死去。(1911~1966)
大矢鞆音(おおや・ともね)は、1938年東京生れ。
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