文章を書く時に、陥りやすい落とし穴がありまして、
それは、文章の第一ハードルとしての最初に出会う関門としてそびえておりました。ちょっと普通には通り越せそうにはありません。どなたもそこで躓き、その前で右往左往して終わる難関でした。
なんてことを思っていたら、村野四郎の詩「花を持った人」を引用したくなりました。
くらい鉄の塀が
何処までもつづいていたが
ひとところ狭い空隙(すきま)があいていた
そこから 誰か
出て行ったやつがあるらしい
そのあたりに
たくさん花がこぼれている
それでも何人かは、塀から出て行く人はいるわけです。
では、そのためのレッスン。それには、まず壁の存在の確認を怠りなく。
ということではじめます。
清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書)に
「私の少年時代に、美文の型から抜け出るのが文章の勉強の第一歩であったように、現在は、新聞のスタイルから抜け出ることが勉強の第一歩だとも言える。新聞の文章は現代の美文である」(p44)
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)の第四話は「新聞の真似はいけない」でした。そこにこんな例がでております。
「どなたもお気づきかと思いますが、新聞を読んでいると、『・・・ようだ』という一句で終る文章によく出会います。私は、この一句を見るたびに、何か落ち着かない気持ちになってしまいます。なぜなら、『よう』というのは、推測を意味する弱い言葉であり、『だ』というのは、大変に強い断定の言葉であるからです。『よう』と『だ』とは、素直に調和しない言葉、正反対の言葉のように感じられるからです。本当に推測なら、『ように思われる』とか、『ように思う』とすべきでしょうが、それでは、頼りない主観的な感じが出過ぎるために、『だ』を補っているのでしょう。逆に、本当に断定するなら、『よう』という曖昧な言葉は避けるべきです。しかし、断定してしまうと、どこからか苦情が出た時に、逃げ道がなくなります。・・逃げ腰で口先だけ強いことを言っているような、こういう表現を私は好みません」。
違う本から引用してみましょう。
石原千秋著「大学生の論文執筆法」(ちくま新書)に
「新聞などのマスコミでよく見かける言い回しの中で僕が最も嫌いなのが、何かを批判して『~と言われても仕方あるまい』と収める言い方だ。これも『朝日新聞』から・・ストックしておいたものを、バリエーションを含めてアトランダムに挙げると、『総裁人事を選挙向けのパフォーマンスに利用したといわれても仕方あるまい』、『これでは捜査をする気がなかったといわれても仕方があるまい』、『テロを容認したと言われても仕方ないものだ』、『幹部による組織の私物化と受け取られても仕方あるまい』、・・・などなど。・・
どうしてこういう腰の引けた無責任な表現をするのか、僕には実は理解できる。自分の言葉で批判して『責任』を取るのが厭なのだろう。あるいは、自分の言葉で批判して再批判されるのが怖いのだろう。「きっと誰かが『批判』するだろう、だけど『批判』するのは私ではありません」、こういう声が聞こえてきそうだ。『批判』は他人任せというわけだ。テレビでアナウンサーや記者がレポートの終わりに、『まだ議論は始まったばかりです』などと言うのも、無責任な点では変わりはない。そんなことを言っているヒマがあったら、さっさと自分たちで『議論』すればいいではないか。日本のマスコミの無責任体質がこういう表現によく表れている。『批判』したり、『議論』したりするのは、自分の責任で行いなさい。何度も繰り返すが、研究者が『批判』したり、『議論』したりするときには、研究者生命を賭けているのだ。だって、研究者が『地球が回っていると言われても仕方あるまい』なんて書いたら、バカみたいじゃん。だから、こういう責任逃れのヤワな言い回しが僕は最も嫌いだ。・・・」(p59)こうしてまだ続くのですが、(ちょいと引用がめんどくさくなりました)これくらいにしておきます。
それでは、こうした文章ばかり書いている新聞は、どうなってしまったのか。
それを知りたければ、高山正之著「歪曲報道」(PHP)などいかがでしょう。
朝日新聞を取り上げております。
この本の中で高山正之氏は、こう書いております。
「・・『朝日新聞』は「まさか」ではなく、間違いなく「おかしい」「異常だ」という確信がこのとき生まれた。それからまるまる30年。残念ながら「確信」は裏切られることなく、むしろより異常さが増幅しているように思う。たとえば30年目に起きた『朝日』の本田雅和記者によるNHK・政治圧力事件。・・・」(P199)
くらい鉄の塀が
何処までもつづいていたが
ひとところ狭い空隙があいていた
そこから 誰か
出て行ったやつがあるらしい
もう少し高山正之氏の言葉を引用して終わりにします。
「こんな大事なことを『朝日』は取材不足で手抜きしたのか、というとそうではない。この新聞は意図的に読者をミスリードするあやかし系をもって得意とする。手抜き記事とこういう騙しの記事は見た目そっくりだが、見分け方は簡単だ。『朝日新聞』が書けば騙し記事。よその新聞なら、それは手抜き記事ということだ。」(P112)
「NHK 報道問題でも、『朝日新聞』の本田記者の思い込み記事によって日本は大いなる過ちを犯すところだった。やっと正しいことがいえる政治家が出た。『北朝鮮に経済制裁をすべし』といえた安倍晋三氏。そして海底資源に関する中国の盗っ人猛々しい言い分にきっちり文句のいえた中川昭一氏。その2人は『朝日』お得意の事実組み換え記事によって危うく葬り去られかねなかった。それは9万人を北朝鮮に送り込んだこととは比較にならないほど大きな痛手を日本に与えるところだった」(P219)
そのあたりに
たくさんの花がこぼれている
それは、文章の第一ハードルとしての最初に出会う関門としてそびえておりました。ちょっと普通には通り越せそうにはありません。どなたもそこで躓き、その前で右往左往して終わる難関でした。
なんてことを思っていたら、村野四郎の詩「花を持った人」を引用したくなりました。
くらい鉄の塀が
何処までもつづいていたが
ひとところ狭い空隙(すきま)があいていた
そこから 誰か
出て行ったやつがあるらしい
そのあたりに
たくさん花がこぼれている
それでも何人かは、塀から出て行く人はいるわけです。
では、そのためのレッスン。それには、まず壁の存在の確認を怠りなく。
ということではじめます。
清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書)に
「私の少年時代に、美文の型から抜け出るのが文章の勉強の第一歩であったように、現在は、新聞のスタイルから抜け出ることが勉強の第一歩だとも言える。新聞の文章は現代の美文である」(p44)
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)の第四話は「新聞の真似はいけない」でした。そこにこんな例がでております。
「どなたもお気づきかと思いますが、新聞を読んでいると、『・・・ようだ』という一句で終る文章によく出会います。私は、この一句を見るたびに、何か落ち着かない気持ちになってしまいます。なぜなら、『よう』というのは、推測を意味する弱い言葉であり、『だ』というのは、大変に強い断定の言葉であるからです。『よう』と『だ』とは、素直に調和しない言葉、正反対の言葉のように感じられるからです。本当に推測なら、『ように思われる』とか、『ように思う』とすべきでしょうが、それでは、頼りない主観的な感じが出過ぎるために、『だ』を補っているのでしょう。逆に、本当に断定するなら、『よう』という曖昧な言葉は避けるべきです。しかし、断定してしまうと、どこからか苦情が出た時に、逃げ道がなくなります。・・逃げ腰で口先だけ強いことを言っているような、こういう表現を私は好みません」。
違う本から引用してみましょう。
石原千秋著「大学生の論文執筆法」(ちくま新書)に
「新聞などのマスコミでよく見かける言い回しの中で僕が最も嫌いなのが、何かを批判して『~と言われても仕方あるまい』と収める言い方だ。これも『朝日新聞』から・・ストックしておいたものを、バリエーションを含めてアトランダムに挙げると、『総裁人事を選挙向けのパフォーマンスに利用したといわれても仕方あるまい』、『これでは捜査をする気がなかったといわれても仕方があるまい』、『テロを容認したと言われても仕方ないものだ』、『幹部による組織の私物化と受け取られても仕方あるまい』、・・・などなど。・・
どうしてこういう腰の引けた無責任な表現をするのか、僕には実は理解できる。自分の言葉で批判して『責任』を取るのが厭なのだろう。あるいは、自分の言葉で批判して再批判されるのが怖いのだろう。「きっと誰かが『批判』するだろう、だけど『批判』するのは私ではありません」、こういう声が聞こえてきそうだ。『批判』は他人任せというわけだ。テレビでアナウンサーや記者がレポートの終わりに、『まだ議論は始まったばかりです』などと言うのも、無責任な点では変わりはない。そんなことを言っているヒマがあったら、さっさと自分たちで『議論』すればいいではないか。日本のマスコミの無責任体質がこういう表現によく表れている。『批判』したり、『議論』したりするのは、自分の責任で行いなさい。何度も繰り返すが、研究者が『批判』したり、『議論』したりするときには、研究者生命を賭けているのだ。だって、研究者が『地球が回っていると言われても仕方あるまい』なんて書いたら、バカみたいじゃん。だから、こういう責任逃れのヤワな言い回しが僕は最も嫌いだ。・・・」(p59)こうしてまだ続くのですが、(ちょいと引用がめんどくさくなりました)これくらいにしておきます。
それでは、こうした文章ばかり書いている新聞は、どうなってしまったのか。
それを知りたければ、高山正之著「歪曲報道」(PHP)などいかがでしょう。
朝日新聞を取り上げております。
この本の中で高山正之氏は、こう書いております。
「・・『朝日新聞』は「まさか」ではなく、間違いなく「おかしい」「異常だ」という確信がこのとき生まれた。それからまるまる30年。残念ながら「確信」は裏切られることなく、むしろより異常さが増幅しているように思う。たとえば30年目に起きた『朝日』の本田雅和記者によるNHK・政治圧力事件。・・・」(P199)
くらい鉄の塀が
何処までもつづいていたが
ひとところ狭い空隙があいていた
そこから 誰か
出て行ったやつがあるらしい
もう少し高山正之氏の言葉を引用して終わりにします。
「こんな大事なことを『朝日』は取材不足で手抜きしたのか、というとそうではない。この新聞は意図的に読者をミスリードするあやかし系をもって得意とする。手抜き記事とこういう騙しの記事は見た目そっくりだが、見分け方は簡単だ。『朝日新聞』が書けば騙し記事。よその新聞なら、それは手抜き記事ということだ。」(P112)
「NHK 報道問題でも、『朝日新聞』の本田記者の思い込み記事によって日本は大いなる過ちを犯すところだった。やっと正しいことがいえる政治家が出た。『北朝鮮に経済制裁をすべし』といえた安倍晋三氏。そして海底資源に関する中国の盗っ人猛々しい言い分にきっちり文句のいえた中川昭一氏。その2人は『朝日』お得意の事実組み換え記事によって危うく葬り去られかねなかった。それは9万人を北朝鮮に送り込んだこととは比較にならないほど大きな痛手を日本に与えるところだった」(P219)
そのあたりに
たくさんの花がこぼれている