昨日なにげなく、清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書)を取り出してきて、ひらいたら(かといって、そのまま読んだわけではありません)。それがこうはじまっているのでした。「約三十年間、私は文章を書いて暮らして来た。従って、文章を書くことについては、実にいろいろの思い出があるが、その中で一番辛かったのは、何と言っても、学生時代の一つの経験である。最初に、その話を書くことにしよう。それは、一番辛かったと同時に、私の文章修業の上で一番役に立ったと思われるからである。・・・・私は、1923年の関東大震災の直後、中学の三年生の時、自分の一生を社会学に献げようと決心して以来、自分勝手の方法でガムシャラに勉強して来ていた・・・」とありました。ここから、本題の「一つの経験」が語られる。その前にチラッと関東大震災に触れられていたのです。
話はとびますが清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)のなか、第19話「簡潔の美徳」があります。そこにこんな言葉がありました。「日本文では、簡潔な書き方というのが、或る特別な重要性を持っているように考えられます。簡潔という美徳を大切にしないと、私たち日本人は、情報の伝達という点で外国人に大きく負けてしまうような気がするのです。」(p125)
この「私の文章作法」には文庫解説があり、「狐」さんが書いております。そこで「狐」さんは、堺利彦著「文章速達法」からの引用をはじめております。その例として
「もしも大火事の記事を書こうとするなら、渦巻く黒煙のあいだに悪魔の舌のごとき深紅の炎が閃き出るとか、蒸気ポンプのけたたましいベルの音が群衆の上に響きわたるとか、その火事のすべての景色を並列的に書き立てても文章がごたごたするばかりだと説く。むしろ些事であっても、火事の混乱を効果的に伝える景色を選び、たとえば『寝巻きに細帯という姿で飛び出した一人のカミさんが、左の手には空の炭取を一つ提げて、右の手には生まれたばかりの赤ん坊を逆様に抱いていたというようなこと』を詳しく描出せよ。無限にある事実のうちから、要点を抜き取って排列し、接続し、組み合わせたものが人の思想で、その思想を外に現したものが文章である。元来、文章とは『事実の略記』なのである――と説かれるとき、堺利彦の語る文章法の的確なこと、斬新なことを思わない訳にはいかない。」(p198~199)
ところで、ここで変な連想になりますが、清水幾太郎は地震の際になにを持って逃げたのか。「私の心の遍歴」に、それがありました。それを引用しておきます。
「大正十二年九月一日、中学三年生の私は、第二学期の始業式に出席しました。式は簡単に済みましたから、十一時過ぎには家へ帰ったように思います。何しろ暑い日なので、半袖のシャツとパンツだけという恰好になつて、暑い、暑い、と言いながら、昼飯を食べました。卓袱台(ちゃぶだい)には初物の里芋が出ていました。食べ終つて、お茶を飲んでいる時、猛烈な震動が来ました。震動と一緒に、頭がボーッとしてしまいました。どうしてよいか判らぬうちに、眼の前で、床の間の柱がミリミリと折れる、というより、粉々に砕けて、天井がドシンと頭の上に落ちて来て、真暗になつてしまいました。」(「清水幾太郎著作集10」講談社。p295)
「そこへ、父が帰つて来ました。潰れた家々の屋根を踏んで、父が帰つて来ました。しかし、その無事を喜ぶ暇もなく、今度は逃げる仕事です。荷物、といつても、私たちが這い出した穴に露出している品物しかありません。穴の奥へ入つて出せば出せるのでしょうが、絶えず揺り返しがあるので、それも出来ないのです。従つて、荷物らしい荷物はなく、私は、穴のところに転がつていた枕とお櫃とを両手に抱えていたように思います。火事はかなり大きくなりました。」(p297)
「九月の八日でしょうか、相変らず、枕とお櫃を抱えて、私たちは営門を出ました。何一つ明るい見透しが生れた訳ではありません。けれども、二日の夜に営門を入った時から僅か一週間ですが、明らかに、私は違つた人間になつていました。父にとつては、すべてが全く終つたようでしたが、私にとつては、すべてが終つた半面、すべてが新しく始まろうとしていたのでしょう。」(p303)
話はとびますが清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)のなか、第19話「簡潔の美徳」があります。そこにこんな言葉がありました。「日本文では、簡潔な書き方というのが、或る特別な重要性を持っているように考えられます。簡潔という美徳を大切にしないと、私たち日本人は、情報の伝達という点で外国人に大きく負けてしまうような気がするのです。」(p125)
この「私の文章作法」には文庫解説があり、「狐」さんが書いております。そこで「狐」さんは、堺利彦著「文章速達法」からの引用をはじめております。その例として
「もしも大火事の記事を書こうとするなら、渦巻く黒煙のあいだに悪魔の舌のごとき深紅の炎が閃き出るとか、蒸気ポンプのけたたましいベルの音が群衆の上に響きわたるとか、その火事のすべての景色を並列的に書き立てても文章がごたごたするばかりだと説く。むしろ些事であっても、火事の混乱を効果的に伝える景色を選び、たとえば『寝巻きに細帯という姿で飛び出した一人のカミさんが、左の手には空の炭取を一つ提げて、右の手には生まれたばかりの赤ん坊を逆様に抱いていたというようなこと』を詳しく描出せよ。無限にある事実のうちから、要点を抜き取って排列し、接続し、組み合わせたものが人の思想で、その思想を外に現したものが文章である。元来、文章とは『事実の略記』なのである――と説かれるとき、堺利彦の語る文章法の的確なこと、斬新なことを思わない訳にはいかない。」(p198~199)
ところで、ここで変な連想になりますが、清水幾太郎は地震の際になにを持って逃げたのか。「私の心の遍歴」に、それがありました。それを引用しておきます。
「大正十二年九月一日、中学三年生の私は、第二学期の始業式に出席しました。式は簡単に済みましたから、十一時過ぎには家へ帰ったように思います。何しろ暑い日なので、半袖のシャツとパンツだけという恰好になつて、暑い、暑い、と言いながら、昼飯を食べました。卓袱台(ちゃぶだい)には初物の里芋が出ていました。食べ終つて、お茶を飲んでいる時、猛烈な震動が来ました。震動と一緒に、頭がボーッとしてしまいました。どうしてよいか判らぬうちに、眼の前で、床の間の柱がミリミリと折れる、というより、粉々に砕けて、天井がドシンと頭の上に落ちて来て、真暗になつてしまいました。」(「清水幾太郎著作集10」講談社。p295)
「そこへ、父が帰つて来ました。潰れた家々の屋根を踏んで、父が帰つて来ました。しかし、その無事を喜ぶ暇もなく、今度は逃げる仕事です。荷物、といつても、私たちが這い出した穴に露出している品物しかありません。穴の奥へ入つて出せば出せるのでしょうが、絶えず揺り返しがあるので、それも出来ないのです。従つて、荷物らしい荷物はなく、私は、穴のところに転がつていた枕とお櫃とを両手に抱えていたように思います。火事はかなり大きくなりました。」(p297)
「九月の八日でしょうか、相変らず、枕とお櫃を抱えて、私たちは営門を出ました。何一つ明るい見透しが生れた訳ではありません。けれども、二日の夜に営門を入った時から僅か一週間ですが、明らかに、私は違つた人間になつていました。父にとつては、すべてが全く終つたようでしたが、私にとつては、すべてが終つた半面、すべてが新しく始まろうとしていたのでしょう。」(p303)