そういえば、物理学者の寺田寅彦は、関東大震災に遭遇しておりました。
その体験を、さてどこに書いていたのか。何だか読んだような気はするのですが、探せない。たとえば、岩波文庫に寺田寅彦随筆集全5冊があります。パラパラと目次をめくってみるのですが、それらしき題名は見当たらない。こういうときは、ひとりで探し回らずに、水先案内人のお世話になるに限る。と、太田文平著「寺田寅彦」(新潮社)をひらいてみました。ありました。そこにちゃんと引用してあります。それでは、そこからの引用。そして孫引き。
それは206ページにありました。
大正12年9月1日の関東大震災には、寅彦は東京で遭遇している。しかし、寅彦の自宅は幸いその災禍をまぬかれたばかりでなく、『漸く健康を恢復して、そろそろ自分の専門の仕事に手を付け始めたところへ、あの関東大震災が襲って来て、そうして折柄眼覚めかかった自分の活力に新しい刺激を与えたのであった』(「続冬彦集」の自序)科学者としての真価は、このようにして発揮される契機を摑んだのである。『震災日記より』という作品は、寅彦が如何に冷静な自然科学者であるかを示す好材料である。それによると次のようになっている。
―――9月1日(土)雨が収まったので上野二科会招待日の見物に行く。会場に入ったのが10時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「Ⅰ崎の女」に対するモデルの良人から撤回要求の問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰をかけている両足の蹠の下から、木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来た筈の弱い初期微動を気付かずに、直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちに、いよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時にこれは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた、土佐の安政地震の話がありありと想出され、丁度船に乗ったようにゆたりゆたり揺れるという形容が適切であると感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ていると、四、五秒程と思われる長い週期で、みしみしと音を立てながら緩かに揺れていた。それを見たとき、これならこの建物は大丈夫だということが直感されたので、恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうしてこの珍らしい地震の振幅の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。主要動が始ってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大したこともないと思う頃に、もう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになた。―――
この文中の「Ⅰ崎の女」というのは「出雲崎の女」のことであり、T君というのは津田青楓のことである。寅彦は青楓と別れて、大学へ行き、赤門から入って燃えている図書館の裏から本部の前を通り、物理の二階に火のつきかけているのを見た。・・・・
「震災日記より」とありますから、随筆をいくら探しても見つからなかったわけです。きっと寅彦の日記をあたればいいのでしょうが、あいにくそういう全集は手元になかった。やっぱり探さなくて正解でした。
ちなみに、この太田文平著「寺田寅彦」(1990年)の最後は、というと
「実験物理学者寺田寅彦の真価認識はこれからであるというのが、具眼の士の一致した見解である。」と書き込んでありました。
そういえば、2005年に池内了著「寺田寅彦と現代」(みすず書房)という本がでておりました。うれしいことには、ちゃんと古本屋にありました。
せっかくですから、そこからも引用しておきましょう(p142)。
関東大震災が起きたのは大正12年(1923年)9月1日であった。
それから旬日も経たないうちに書いたと思われるのが「事変の記憶」(大正12年10月)で、寺田寅彦は、ややシニカルに、大震災についての自分の思いを書き留めている。まず冒頭で、
今度の地震と、そのために起こった大火事とによって、我々は滅多に得られない苦い経験を嘗めさせられた。この経験をよく噛みしめて味わって、そうしていつかはまた起こるべき同じような災いをできるだけ軽くするように心掛けたいものである
と述べているように、寅彦の目はもう未来を見ている。
以上
太田文平・池内了の両氏からの引用をしてみました。
いつかまとめて、寺田寅彦を読みたいと思ってはいるのですが・・・・。
その体験を、さてどこに書いていたのか。何だか読んだような気はするのですが、探せない。たとえば、岩波文庫に寺田寅彦随筆集全5冊があります。パラパラと目次をめくってみるのですが、それらしき題名は見当たらない。こういうときは、ひとりで探し回らずに、水先案内人のお世話になるに限る。と、太田文平著「寺田寅彦」(新潮社)をひらいてみました。ありました。そこにちゃんと引用してあります。それでは、そこからの引用。そして孫引き。
それは206ページにありました。
大正12年9月1日の関東大震災には、寅彦は東京で遭遇している。しかし、寅彦の自宅は幸いその災禍をまぬかれたばかりでなく、『漸く健康を恢復して、そろそろ自分の専門の仕事に手を付け始めたところへ、あの関東大震災が襲って来て、そうして折柄眼覚めかかった自分の活力に新しい刺激を与えたのであった』(「続冬彦集」の自序)科学者としての真価は、このようにして発揮される契機を摑んだのである。『震災日記より』という作品は、寅彦が如何に冷静な自然科学者であるかを示す好材料である。それによると次のようになっている。
―――9月1日(土)雨が収まったので上野二科会招待日の見物に行く。会場に入ったのが10時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「Ⅰ崎の女」に対するモデルの良人から撤回要求の問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰をかけている両足の蹠の下から、木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来た筈の弱い初期微動を気付かずに、直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちに、いよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時にこれは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた、土佐の安政地震の話がありありと想出され、丁度船に乗ったようにゆたりゆたり揺れるという形容が適切であると感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ていると、四、五秒程と思われる長い週期で、みしみしと音を立てながら緩かに揺れていた。それを見たとき、これならこの建物は大丈夫だということが直感されたので、恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうしてこの珍らしい地震の振幅の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。主要動が始ってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大したこともないと思う頃に、もう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになた。―――
この文中の「Ⅰ崎の女」というのは「出雲崎の女」のことであり、T君というのは津田青楓のことである。寅彦は青楓と別れて、大学へ行き、赤門から入って燃えている図書館の裏から本部の前を通り、物理の二階に火のつきかけているのを見た。・・・・
「震災日記より」とありますから、随筆をいくら探しても見つからなかったわけです。きっと寅彦の日記をあたればいいのでしょうが、あいにくそういう全集は手元になかった。やっぱり探さなくて正解でした。
ちなみに、この太田文平著「寺田寅彦」(1990年)の最後は、というと
「実験物理学者寺田寅彦の真価認識はこれからであるというのが、具眼の士の一致した見解である。」と書き込んでありました。
そういえば、2005年に池内了著「寺田寅彦と現代」(みすず書房)という本がでておりました。うれしいことには、ちゃんと古本屋にありました。
せっかくですから、そこからも引用しておきましょう(p142)。
関東大震災が起きたのは大正12年(1923年)9月1日であった。
それから旬日も経たないうちに書いたと思われるのが「事変の記憶」(大正12年10月)で、寺田寅彦は、ややシニカルに、大震災についての自分の思いを書き留めている。まず冒頭で、
今度の地震と、そのために起こった大火事とによって、我々は滅多に得られない苦い経験を嘗めさせられた。この経験をよく噛みしめて味わって、そうしていつかはまた起こるべき同じような災いをできるだけ軽くするように心掛けたいものである
と述べているように、寅彦の目はもう未来を見ている。
以上
太田文平・池内了の両氏からの引用をしてみました。
いつかまとめて、寺田寅彦を読みたいと思ってはいるのですが・・・・。