谷沢永一・渡部昇一著「人間は一生学ぶことができる」(PHP)は、佐藤一斎の「言志四録」の随筆的な断片を、適宜取り上げながら進行してゆく対談です。
さて、前回とりあげたドナルド・キーン著「渡辺崋山」(新潮社)の、引用の繰返しになりますがキーン氏はこう書いておりました。
「崋山に永遠の名声を与えたのは肖像画であって、他の様式の画でもなければその生涯に起きた数々の事件でもなかった。描かれた人物が誰であれ、また描かれた時代がいつであれ、崋山の肖像画には常に生気に満ちた説得力が漲っている」(p158)
それでは、崋山の肖像画ではどれが一番有名なのでしょう。
今回紹介する対談本に、それらしき箇所がありました。
「学力、気迫を兼ね備えた佐藤一斎という人物の姿を今日に伝える絵が、東京国立博物館に残っています。これは渡辺崋山の作品です。崋山は、肖像の描き方という一つのパターンを作りました。その最高傑作とされるのは下総・古河藩の家老・鷹見泉石の肖像画です。蘭学を通じて、崋山は鷹見泉石と交流があり、そこで得た共感と尊敬とを兼ねて描かれたと言われています。これを第一位とすると、第二位が佐藤一斎の肖像画です。佐藤一斎の肖像画は文政九年、渡辺崋山が29歳、一斎が50歳のときに描かれたと思われます。絵のスケッチが七種類、残っていて、崋山が何遍も下書きをし、納得のいくまで仕上げたことがうかがえます」(p21)
これは谷沢永一氏の言葉です。渡部昇一氏はというと、こんなふうに触れております。
「一斎は近世儒学の最高峰であると同時に、藩政の実務もこなしたので非常に尊敬された人だった。当時の人は一斎の顔つきや癖まで真似ようとしたという噂があるぐらいです」(p251)
ここで、ドナルド・キーン氏の文、佐藤一斎の肖像画について書いた箇所を紹介しておきます。
「文政四年に描いた作品は、崋山がそのために今日記憶されている肖像画の傑作、人によっては最高の折紙をつけている儒学者佐藤一斎の肖像である。一斎像は、それ以前の日本の肖像画には見られない立体感ある力強い作品である。・・この肖像画はこれに先立って描かれた何枚もの画稿の末に初めて完成された。画稿第二では、一斎の顔はほとんど近寄りがたいほど厳しく見える。画稿第三では、その表情は笑みを漂わせて和らいでいる。画稿第十一になると、一斎の表情は哀愁を帯びて内気でさえある。完成稿(これだけは紙本でなく絹本に描かれている)の表情は意志強固で、眼は鋭い。場合によって前に描いた画稿の方が完成稿よりも生き生きと、より力強い効果を生みだしている。しかし完成稿は、佐藤一斎の風貌のみならず、儒教に対する信念の強さを伝えることに最も成功している。」(p83)
「明らかに崋山が望んでいたのは、肖像画が対象の目鼻立ちの写実的な描写であると同時に、人物の個性の再現でもあることだった。弟子の椿椿山(つばきちんざん)に宛てた手紙に美術の目的や技巧について述べたものがあり、画は描かれる対象に似ていなければならないと繰り返し主張している。伝統的な日本の風景画に、中国のどこかにありそうな無名の山がよく出てくるが、そうしたものに崋山は一切関心がなかった。一つの山は一つの顔のように、紛れもなく独自の個性を持っていなければならなかった。崋山は一斎像を完成するまでに、少なくとも十一枚まで番号が付けられた一連の画稿を描いているが、これはその枚数において前例がない。・・・一斎像の画稿第二でさえ、すでに深い感銘を与える。しかし、崋山は満足しなかった。残存している画稿の中でも崋山が一斎の顔や頭部よりも一斎そのものを描くことに決めたのは画稿第十一になってからである。・・・」(p84~86)
また、渡部昇一・谷沢永一の対談にもどりますと、
佐藤一斎著「言志四録」を取り上げる理由として、谷沢さんは二つあげています。
「江戸時代が幕を下ろす直前に生まれた『言志四録」は、江戸時代の儒学、漢学が到り着いた一つの頂点ということです。・・第二に、西郷南洲(隆盛)が傾倒したことです。・・」(p14)
渡部氏は、こうも語っております。
「佐藤一斎は家老ぐらいの職にあって藩政にかかわったから、政治の取り方、上になったときの心得等々に、体験の裏打ちと学問の裏打ちの両方があります。したがって、後に大政治家になる西郷に訴えるところがあったに違いないし、十分なヒントを与えたのだろうと私は想像します。一斎の弟子ということでは、中村正直を挙げておきたいと思います。中村は一斎についている頃から英語の勉強を始め、幕府が有望な旗本をイギリスに留学させるときに総監督を兼ねて渡英しました。・・・中村は儒学の最高峰の佐藤一斎に学んだ最高の弟子でした。」(p253)
さて、谷沢永一氏の筋道を、あらためて辿り直してみたいと思います。
同じお二人の対談で、この本の前にも「人生後半に読むべき本」(PHP)がありました。そこでの谷沢さんにこんな言葉がありました。
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。『徒然草』がなければ、たとえば井原西鶴の『好色一代男』はなかったろうといわれている。つまり初めて人情というものを著作のテーマにした史上空前の記述なのです。『徒然草』にいたって、しみじみと人生の味わいを語るという新しい分野が広がりました。『徒然草』があったから、西鶴が人情をテーマの中心に据え、それから伊藤仁斎が学問の方面で人情をテーマにするということができたといってもいい。全部源流は『徒然草』。」(p153)
そして、今回の対談「人間は一生学ぶことができる」で、谷沢さんはこう語っております。
「江戸時代の儒学は、伊藤仁斎あるいは山鹿素行以来、人生論の探求であり、社会論の探求であり、『人間、いかに生きるべきか』の研究でした。よかれ悪しかれ、そこに一つの特色があります。」(p15)
「仁斎の『童子問』から近世儒学は熟成し始め、佐藤一斎に至ります。近世の儒学を代表する本を問うならば、まず山鹿素行の『山鹿語類』、それから伊藤仁斎の『童子問』、荻生徂徠の『論語徴』と続き、最後に佐藤一斎の『言志四録」という系譜ができるのではないかと思います。」(p18)
ともかくも、渡辺崋山は、その佐藤一斎の肖像画を描いたのでした。
そして、ドナルド・キーンは、まるで日本人にダビンチの「モナリザ」を紹介するような態度で、世界にむかって「渡辺崋山」を紹介しているのです。
さて、前回とりあげたドナルド・キーン著「渡辺崋山」(新潮社)の、引用の繰返しになりますがキーン氏はこう書いておりました。
「崋山に永遠の名声を与えたのは肖像画であって、他の様式の画でもなければその生涯に起きた数々の事件でもなかった。描かれた人物が誰であれ、また描かれた時代がいつであれ、崋山の肖像画には常に生気に満ちた説得力が漲っている」(p158)
それでは、崋山の肖像画ではどれが一番有名なのでしょう。
今回紹介する対談本に、それらしき箇所がありました。
「学力、気迫を兼ね備えた佐藤一斎という人物の姿を今日に伝える絵が、東京国立博物館に残っています。これは渡辺崋山の作品です。崋山は、肖像の描き方という一つのパターンを作りました。その最高傑作とされるのは下総・古河藩の家老・鷹見泉石の肖像画です。蘭学を通じて、崋山は鷹見泉石と交流があり、そこで得た共感と尊敬とを兼ねて描かれたと言われています。これを第一位とすると、第二位が佐藤一斎の肖像画です。佐藤一斎の肖像画は文政九年、渡辺崋山が29歳、一斎が50歳のときに描かれたと思われます。絵のスケッチが七種類、残っていて、崋山が何遍も下書きをし、納得のいくまで仕上げたことがうかがえます」(p21)
これは谷沢永一氏の言葉です。渡部昇一氏はというと、こんなふうに触れております。
「一斎は近世儒学の最高峰であると同時に、藩政の実務もこなしたので非常に尊敬された人だった。当時の人は一斎の顔つきや癖まで真似ようとしたという噂があるぐらいです」(p251)
ここで、ドナルド・キーン氏の文、佐藤一斎の肖像画について書いた箇所を紹介しておきます。
「文政四年に描いた作品は、崋山がそのために今日記憶されている肖像画の傑作、人によっては最高の折紙をつけている儒学者佐藤一斎の肖像である。一斎像は、それ以前の日本の肖像画には見られない立体感ある力強い作品である。・・この肖像画はこれに先立って描かれた何枚もの画稿の末に初めて完成された。画稿第二では、一斎の顔はほとんど近寄りがたいほど厳しく見える。画稿第三では、その表情は笑みを漂わせて和らいでいる。画稿第十一になると、一斎の表情は哀愁を帯びて内気でさえある。完成稿(これだけは紙本でなく絹本に描かれている)の表情は意志強固で、眼は鋭い。場合によって前に描いた画稿の方が完成稿よりも生き生きと、より力強い効果を生みだしている。しかし完成稿は、佐藤一斎の風貌のみならず、儒教に対する信念の強さを伝えることに最も成功している。」(p83)
「明らかに崋山が望んでいたのは、肖像画が対象の目鼻立ちの写実的な描写であると同時に、人物の個性の再現でもあることだった。弟子の椿椿山(つばきちんざん)に宛てた手紙に美術の目的や技巧について述べたものがあり、画は描かれる対象に似ていなければならないと繰り返し主張している。伝統的な日本の風景画に、中国のどこかにありそうな無名の山がよく出てくるが、そうしたものに崋山は一切関心がなかった。一つの山は一つの顔のように、紛れもなく独自の個性を持っていなければならなかった。崋山は一斎像を完成するまでに、少なくとも十一枚まで番号が付けられた一連の画稿を描いているが、これはその枚数において前例がない。・・・一斎像の画稿第二でさえ、すでに深い感銘を与える。しかし、崋山は満足しなかった。残存している画稿の中でも崋山が一斎の顔や頭部よりも一斎そのものを描くことに決めたのは画稿第十一になってからである。・・・」(p84~86)
また、渡部昇一・谷沢永一の対談にもどりますと、
佐藤一斎著「言志四録」を取り上げる理由として、谷沢さんは二つあげています。
「江戸時代が幕を下ろす直前に生まれた『言志四録」は、江戸時代の儒学、漢学が到り着いた一つの頂点ということです。・・第二に、西郷南洲(隆盛)が傾倒したことです。・・」(p14)
渡部氏は、こうも語っております。
「佐藤一斎は家老ぐらいの職にあって藩政にかかわったから、政治の取り方、上になったときの心得等々に、体験の裏打ちと学問の裏打ちの両方があります。したがって、後に大政治家になる西郷に訴えるところがあったに違いないし、十分なヒントを与えたのだろうと私は想像します。一斎の弟子ということでは、中村正直を挙げておきたいと思います。中村は一斎についている頃から英語の勉強を始め、幕府が有望な旗本をイギリスに留学させるときに総監督を兼ねて渡英しました。・・・中村は儒学の最高峰の佐藤一斎に学んだ最高の弟子でした。」(p253)
さて、谷沢永一氏の筋道を、あらためて辿り直してみたいと思います。
同じお二人の対談で、この本の前にも「人生後半に読むべき本」(PHP)がありました。そこでの谷沢さんにこんな言葉がありました。
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。『徒然草』がなければ、たとえば井原西鶴の『好色一代男』はなかったろうといわれている。つまり初めて人情というものを著作のテーマにした史上空前の記述なのです。『徒然草』にいたって、しみじみと人生の味わいを語るという新しい分野が広がりました。『徒然草』があったから、西鶴が人情をテーマの中心に据え、それから伊藤仁斎が学問の方面で人情をテーマにするということができたといってもいい。全部源流は『徒然草』。」(p153)
そして、今回の対談「人間は一生学ぶことができる」で、谷沢さんはこう語っております。
「江戸時代の儒学は、伊藤仁斎あるいは山鹿素行以来、人生論の探求であり、社会論の探求であり、『人間、いかに生きるべきか』の研究でした。よかれ悪しかれ、そこに一つの特色があります。」(p15)
「仁斎の『童子問』から近世儒学は熟成し始め、佐藤一斎に至ります。近世の儒学を代表する本を問うならば、まず山鹿素行の『山鹿語類』、それから伊藤仁斎の『童子問』、荻生徂徠の『論語徴』と続き、最後に佐藤一斎の『言志四録」という系譜ができるのではないかと思います。」(p18)
ともかくも、渡辺崋山は、その佐藤一斎の肖像画を描いたのでした。
そして、ドナルド・キーンは、まるで日本人にダビンチの「モナリザ」を紹介するような態度で、世界にむかって「渡辺崋山」を紹介しているのです。