和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「海の幸」の千葉。

2007-05-31 | 安房
毎日新聞「日曜くらぶ」の連載「あの人に会う 日本近代史を訪ねて」。
その2007年5月27日は青木繁の連載四回目でした。文と写真は米本浩二。
では、そこからの引用。

「福岡県久留米市の中心部から約20分。兜山(通称・けしけし山)山頂に着いた。標高317㍍。青木繁記念碑がある。」
「1907年8月、繁の父廉吾が久留米市の実家で死去した。繁は急いで帰郷する。25歳だった。酒におぼれて、母や姉らと衝突し、再び上京することもなかった。熊本や佐賀を放浪するうちに結核が悪化して、福岡市内の病院で命を落とした。22歳で『海の幸』を描いてから、わずか数年を経て、死に急速に傾いていった繁。」
「繁は絵だけでなく短歌も詠んだ。『このぬしはわかき女神と人いう/唯(ただ)青々と澄める淵かな』など自然を写した歌に交じり、『父となり三年われからさすらいぬ/家まだ成さぬ秋二十八』など自分のふがいなさを嘆く歌もある。繁が亡くなる約4ヵ月前に書いた遺書は深い印象を残す。一家を支えられなかったことを姉と妹にわび、自分が死んだら骨を『ケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度』と頼んでいる。『未だ志成らず業現われず』『口惜しく残念』など切々たる文字の連なりは『海の幸』にも劣らず人の胸を打つ。・・・・『わが国は筑紫の国や白日別(しらひわけ)/母います国櫨(はぜ)多き国』」


ここで、青木繁の「海の幸」へともどってみたいのでした。
作品「海の幸」は千葉県の布良で、作品の着想を得ておりました。
ちょうど、サイデンステッカー自伝「流れゆく日々」をパラパラとめくっていたら、千葉県について書いている箇所がありました。興味深いので引用しておきます。

「東京と境を接する県の中では、いつでも千葉が一番好きだった。この点、私はたぶん、千葉県人は別として、ごくわずかな少数派に属しているのではあるまいか。東京の人は、ほとんどの場合、千葉県がすぐ隣にあることを、いささか恥ずかしいことと思っているらしい。・・・千葉は、なるほど少々粗野ではあるにしても、変に取り繕っていない分だけ、むしろ正直でいい。千葉以外の東京の近県は、東京に同化されすぎていて、そういう率直さを失ってしまっている。ほかの県でも、千葉に劣らず不正な、規則を破る行為は多々あるはずだが、千葉はその事実について、もっと開けっぴろげだというだけのことではないか。谷崎潤一郎の『細雪』は、やがて私の訳すことになる小説だが、その中に、家族のかかりつけの医者が出てくる。いかにも温かみのある人物で、明らかに、誰か実在の人物をモデルにしたと思われるのだが、この医者が、実は、千葉の出身ということになっている。それにまた、私がやがて知り合いになり、大好きになる有名な作家の一人、立野信之も千葉出身だ。・・どうやらこの土地には、何かがある。土臭い、気取らない、率直で、たくましい、何かがある。」

そして、こんな箇所が出てくるのでした。


「外房で過ごしたすばらしい夏は、全部で六度にわたったが、すべて1950年代のことで、最初は51(昭和26)年の夏だった。九十九里の片貝村で、薬屋の二階を借りてひと夏を過ごしたのだが、東京や千葉から、ひっきりなしにお客があった。・・・片貝村という地名は、今では地図に載っていない。町村合併で併合されてしまったからだが、半農半漁の村だった。・・・漁業にかかわる半分は、漁師の人たちも、漁船も、浜に打ち寄せる大波も・・・実に愉快だった。・・漁師の人たちはと言えば、あれほどつらい労働に精を出す人々を、私はかつて目にしたことがなかった。港がないから、一日の漁が終わると、船を砂浜に引き上げなくてはならない。それも、決して小さな舟ではないのである。みんな、ほとんど素裸に近い姿だった。時には私も船に乗せてもらって、沖の漁の様子を見せてもらうこともあった。網を引く仕事は、まさに重労働そのもので、私など、三十分も持ちこたえられそうになかった。にもかかわらず、すべては笑いと、猥雑な歌に満ちていた。中でも猥雑でたくましかったのは女性たちで、船に乗ることは許されないけれども、魚を降ろしたり、船を浜に引き上げる仕事は、ものすごい勢いで手伝った。私は、この女たちが好きだった。男たちも、そしてこの村そのものも、大好きだった。・・・」(p112~113)

     E・G・サイデンステッカー著 安西徹男訳
      「流れゆく日々 サイデンステッカー自伝」(時事通信社・2004年)


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