和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

編集者齋藤十一。

2007-05-01 | Weblog
「編集者 齋藤十一」(冬花社)を楽しく読みました。
追悼集として編まれた一冊。あとに続く編集者たちが追悼文を書かれているのが読みどころ。人となりといえば、たとえば飯塚博雄氏の文に

「仕事で中央公論社の嶋中社長にインタビューしたことがある。当時、社の厳しい経営にあえいでおられた嶋中社長は『君の社の齋藤十一さんは日本の出版界の宝とも言える人だ。あの人がうちの社にいたら中央公論社の業績も運命も変わっていただろう』と語っておられた」(p81)

そういえば、と思い浮かんだのは、ドナルド・キーン著「明治天皇」でした。
今、新潮文庫で「明治天皇」が何冊かにわかれて出ておりますね。
以前の、キーンさんの連載「私と20世紀のクロニクル」の
「42・二つの伝記『明治天皇』と『足利義政』」(2006年11月4日読売新聞)に、興味深い言葉があります。キーンの『明治天皇』は新潮社から出版されました。それについて書かれている箇所にあるのでした。

「私の伝記『明治天皇』の成功は、勿論喜ばしいことだった。・・・
特に嬉しかったのは、韓国語訳とロシア語訳が出た時だった。しかし一つの点で、この成功は私に気まずい思いをさせた。『明治天皇』を書いたのは、新潮社に勧められたからだった。長い連載執筆のあらゆる段階で、私は編集者たちの貴重な助言を受けた。著者に対して、これ以上のことをしてくれる出版社があるとは、ちょっと考えられない。」

そして、こう続くのです。

「ところが、ある日、嶋中雅子と話した時、この本を中央公論社から出さなかったことに私は罪の意識のようなものを感じた。亡くなった彼女の夫の元中央公論社社長嶋中鵬二は、親友であったばかりでなく、私を日本の文学界にデビューさせてくれた恩人なのだった。彼の会社の内部で私に対する優遇に反対があった時でも、彼の親切は変わることがなかった。彼は私の『日本文学の歴史』全十八巻を出版してくれたが、たぶん赤字だったのではないだろうか。にもかかわらず私は、初めて奇跡的によく売れた自分の本を、別の出版社から出したのだった。私は嶋中夫人に、次の本は彼女のところから出すと約束した(夫の死後、彼女は中央公論社社長に就任していた)。」

それにしても、ドナルド・キーン氏が、なぜ新潮社から本を出したのか?
という疑問は、当然に思いうかぶわけです。
また、「編集者 齋藤十一」にもどると、何人かの追悼で同じ言葉が、拾えるのでした。
その箇所を引用してみたいと思います。
それは、伊藤幸人氏の文にもあります。

「『新潮45』の第一回編集会議というべき、創刊にあたっての初顔合わせで、編集者以下編集スタッフ四名を自室に呼んで、齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。昭和59年(1984年)12月28日のことである。
『他人(ひと)のことを考えていては雑誌はできない。いつも自分のことを考えている。俺は何を欲しいか、読みたいか、何をやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要がない』」

うん。この箇所。
名指揮者が、明快で鮮やかな解釈を打ち出した瞬間ですね。
こうも、つづくのでした。

「『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。したいんだけど、素人だから、手に負えない。そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ』強烈なアジテーションに、われわれ編集部員は圧倒された。・・・実は、こうした齋藤さんの『演説』は、その後の編集会議でもずっと続いていたのだ。」(p168~169)。

ちなみに参考文献として、読めたのは
「諸君!」2001年7月号の、齋藤美和著「夫・齋藤十一」。
誕生百年記念『新潮』四月号臨時増刊「小林秀雄 百年のヒント」(平成13年)の、坂本忠雄著「小林秀雄と齋藤十一」。


あと、たいへんに興味深いのは、齋藤十一と音楽。
私はおかげで、一度はゆっくりと味わいたかったバッハを、
グレン・グールドで聞けばいいのだと知恵をつけてもらいました。感謝。
コメント (4)
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