和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

めでたき日本語。

2007-05-04 | Weblog
「編集者齋藤十一」を読んでいて思ったことがあるので、書き留めておきます。

司馬遼太郎と桑原武夫の対談「人口日本語の功罪について」に、
こんな箇所があります。

<司馬> ・・先生は以前どっかへゆく車のなかで、『ちかごろ週刊誌の文章と小説の文章と似てきた。これは由々しいことだ』ということを、それも肯定的な態度でおっしゃったことがありましたね。・・やはり日本語としてはめでたきことです。
<桑原> ええ。戦後民主主義についてはいろいろの評価がありますが、戦後民主主義が国語に適用されるとそういう現象が起きる。これは週刊誌の文章(内容ではありません)がいいというわけではない。しかしそこに共通基盤が見られるといことです。一例をあげると、私の知人のある若い科学者、彼はすばらしい業績をあげていたが、文章が下手で読むにたえないので、ぼくは『きみのネタはすばらしい。しかしこんな文章ではぜったい売り物にならへん』といったんです。彼は反省しまして、学校に通う電車の中で毎日必ず週刊誌を読んだ。そのうちに文章がうまくなりましたよ。
<司馬> なるほど。型に参加できたわけですな。
<桑原> 別に科学者として偉くなったわではないが、彼の文章に商品価値が出て、それによって彼の学説も広まったわけです。

 以上は、文芸春秋社「司馬遼太郎対話選集1 この国のはじまりについて」に載っております。さらにですね。朝日新聞社「司馬遼太郎全講演第一巻」。そこに1975年松山市民会館の「全国大学国語教育学会」での講演があるのです。題して「週刊誌と日本語」。そこには対談の科学者の名前が登場しております。
ちょいと長くなりますが、以下講演を引用してみます。

 西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も勤めた、大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。西堀さんは優れた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。桑原さんはこう言った。
「だから、おまえさんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない」西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
「おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ」
「文章に理系も文系もあるか」
「じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ」
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
「おまえさんは電車の中で週刊誌を読め」
西堀さんはおたおたしたそうです。
「週刊誌を読んだことがない」
「『週刊朝日』でもなんでもいいから読め」
週刊誌の話になったのには理由があるんです。
私は桑原さんにこう言いました。
「共通の文章日本語ができそうな状況になったのは昭和25年ぐらいではないでしょうか」
これには非常にかぼそい根拠がありまして、昭和20年代の終わりごろに批評家たちがしきりに似たことを言いだしていました。「このごろの作家は同じようなことを書いている。変に文章技術はうまくなっているけれど、同じようなことばかりでつまらない」しかし、私は逆に見ることもできると考えました。内容のつまらなさにアクセントをおかず、だれもが簡単に書いていることに驚きを感じたらどうだろうか。それができずに苦労していた時代もあったのですから。この時代の共通の日本語ができつつあったのではないかと桑原さんに言ったところ、桑原さんは言いました。
「週刊誌時代がはじまってからと違うやろか」
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと言われるものですから、私も意外でした。
「週刊誌って?」
そうやって不思議な顔をしたものですから、さきほどの西堀さんの話になったのです。・・週刊誌はもともと大新聞社が発行していたものです。大新聞社ですから、記事が余ってもったいないじゃないかということになり、「週刊朝日』なり、「サンデー毎日」なりができたそうですね。戦争を経て、昭和30年代になりますと、出版社の新潮社が、よせばいいのに週刊誌を出した。これは大変にカネのかかる、危急存亡にかかわる道楽だったと思うのですが、それが成功しました。するとほかの文藝春秋なども週刊誌を出し始め、大変な乱戦状態になった。・・




こうした視点から、『編集者 齋藤十一』を読むと魅力をすくい上げることができます。その最後には齋藤十一略年譜が簡単についております。

 1945年(昭和20年) 11月、戦争が終って復刊した「新潮」の編集にあたる。
 1946年(昭和21年) 2月、取締役に就任、「新潮」の編集長になる。
 1950年(昭和25年) 1月、「芸術新潮』創刊。
 1956年(昭和31年) 2月、「週刊新潮」創刊。

桑原武夫さんが語った「週刊誌が共通の文章日本語をつくったことにいささかの貢献をしたのではないか」という意味合いは、齋藤さんにどう感じられていたのか?

齋藤十一氏は、亡くなる少し前、テレビのインタビューに答えております。
そこにこんな言葉がありました。

―――何で、つくろうと思ったんですか。
<齋藤> 当然、あのときは週刊誌をやらなくちゃならない時代に来ていたんだよな、世の中がな。だから。
―――成功すると思っていました?
<齋藤> 成功する? ああ、ああ。それよりも、あれはやらなくちゃならない、と思ったんだよな、週刊誌をね。
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