週刊新潮創刊号(1956年)の表紙絵には、絵のなかに書き込みがありました。
それが、「上総の町は貨車の列、火の見の高さに海がある」でした。
そうそう、川本三郎の本に「火の見櫓の上の海」(NTT出版・古本)というのがあります。
その副題は「東京から房総へ」。川本さんのあとがきには、こんな言葉が拾えます。
「『近所田舎』という言葉がある。辞書には載っていないが、東京の人間が房総のことをよくそういった。『すぐ近所の田舎』といった意味である。海があり、畑があり、山がある。夏、東京からやって来た人間は、海辺の小さな町で、しばし『田舎暮し』の楽しさを味わうことが出来る」
そして、本の題名についての説明。
「房総半島には、低い山がすぐ海まで迫っているところが多い。町は、山と海のあいだの狭い傾斜地に出来ている。だから、駅を降りて海のほうへ下っていくと、海が瓦屋根のあいだに、火の見櫓の上に見えてくる。谷内六郎は、それを『火の見の高さに海がある』という言葉でうまくあらわした。表題はそれに倣った」
ちょいと、この言葉も引用しておきましょう。
「『近所田舎』としての房総を、近来、いちばんよく楽しんでいるのは、マンガ家のつげ義春だろう。・・・私にとって、つげ義春は、房総の風景の発見者である。・・小さなありふれた町を歩く、その日常性のなかにこそ旅の醍醐味があると教えてくれた、旅の良き先人である」
あとがきは「1995年5月」とあります。もう10年以上前の本になります。
さてっと。毎日新聞の日曜版「日曜くらぶ」に「あの人に会う 日本近代史を訪ねて」という連載があるのでした。2007年5月6日と5月13日は「青木繁」の特集でして、まだ来週も続きそうです。文と写真・米本浩二とあります。最初の回は房総半島南端の布良海岸にある「青木繁の記念碑」出かけています。そしてこう綴っております。
「青木繁が名作『海の幸』を描いた場所である。1904年7~8月、繁は恋人の福田たね、画友の坂本繁二郎ら総勢4人で布良の民家に寄宿する。もっぱら繁が絵に没頭するための布良行きで、坂本らはお手伝い役だったらしい。『海の幸』は古代神話を思わせる裸体の漁師の行進を描いている。大魚を背負う陸揚げの様子を坂本から聞いた繁は一気に絵筆を走らせたという」
ちなみに、2回目の5月13日では「青木繁の代表作『海の幸』は福岡県久留米市の石橋美術館が所有している。現在も企画展で公開されている」として、そこに出かけて学芸課長・森山秀子さんとの会話も取り入れております。
何でもこの国の重要文化財は、縦70.2㌢横182㌢の油絵で「大魚の陸揚げが醸し出すイメージが壮大なだけに、実物を小さいと感じる人は多いのではないか」というと、森山さんが答えて「当時の限界でしょうか。布良(めら)で寄宿した民家は狭いし、東京の下宿も4畳半か6畳程度でしょう」。
それでは、川本三郎さんの本では、どのように紹介されていたか?
気になるところではあります。ちょうど200ページにそれはありました。
「この絵のなかの漁師たちは、全裸である。・・・
房総の裸の漁師といえば、木村伊兵衛の写真集『昭和時代』第一巻(昭和59年、筑摩書房)には、裸のたくましい漁師たちが浜辺で船を出そうとしている姿を撮った写真がある。・・・それを見て解説の色川大吉は、『たとえば少年のころ、毎夏、私は銚子や九十九里浜に泊りがけで行った。銚子では漁師たちが市内でもふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。・・・』・・・青木繁の布良滞在は約二ヵ月にも及んだ。・・海のなかの様子を知るために、『あま眼鏡』で海底にそよぐ藻類や魚を観察したという。房総の海がよほど気に入ったのだろう。次の年の五月には、恋人の福田たねと内房の保田(ほた)を訪れている。青木繁の絵には、房総の海が大きな役割を果たしたことになる」。
ここでさらに、気になるのが、木村伊兵衛の写真集。
ちょうど、その巻だけ簡単にネットの古本屋で買うことができました。昨日とどいたのです。
浜辺で船を出そうとしている裸の漁師たちの一枚の写真。
これは一見の価値がありました。そう思っちゃうほどに、私には鮮やかな残像。
それが、「上総の町は貨車の列、火の見の高さに海がある」でした。
そうそう、川本三郎の本に「火の見櫓の上の海」(NTT出版・古本)というのがあります。
その副題は「東京から房総へ」。川本さんのあとがきには、こんな言葉が拾えます。
「『近所田舎』という言葉がある。辞書には載っていないが、東京の人間が房総のことをよくそういった。『すぐ近所の田舎』といった意味である。海があり、畑があり、山がある。夏、東京からやって来た人間は、海辺の小さな町で、しばし『田舎暮し』の楽しさを味わうことが出来る」
そして、本の題名についての説明。
「房総半島には、低い山がすぐ海まで迫っているところが多い。町は、山と海のあいだの狭い傾斜地に出来ている。だから、駅を降りて海のほうへ下っていくと、海が瓦屋根のあいだに、火の見櫓の上に見えてくる。谷内六郎は、それを『火の見の高さに海がある』という言葉でうまくあらわした。表題はそれに倣った」
ちょいと、この言葉も引用しておきましょう。
「『近所田舎』としての房総を、近来、いちばんよく楽しんでいるのは、マンガ家のつげ義春だろう。・・・私にとって、つげ義春は、房総の風景の発見者である。・・小さなありふれた町を歩く、その日常性のなかにこそ旅の醍醐味があると教えてくれた、旅の良き先人である」
あとがきは「1995年5月」とあります。もう10年以上前の本になります。
さてっと。毎日新聞の日曜版「日曜くらぶ」に「あの人に会う 日本近代史を訪ねて」という連載があるのでした。2007年5月6日と5月13日は「青木繁」の特集でして、まだ来週も続きそうです。文と写真・米本浩二とあります。最初の回は房総半島南端の布良海岸にある「青木繁の記念碑」出かけています。そしてこう綴っております。
「青木繁が名作『海の幸』を描いた場所である。1904年7~8月、繁は恋人の福田たね、画友の坂本繁二郎ら総勢4人で布良の民家に寄宿する。もっぱら繁が絵に没頭するための布良行きで、坂本らはお手伝い役だったらしい。『海の幸』は古代神話を思わせる裸体の漁師の行進を描いている。大魚を背負う陸揚げの様子を坂本から聞いた繁は一気に絵筆を走らせたという」
ちなみに、2回目の5月13日では「青木繁の代表作『海の幸』は福岡県久留米市の石橋美術館が所有している。現在も企画展で公開されている」として、そこに出かけて学芸課長・森山秀子さんとの会話も取り入れております。
何でもこの国の重要文化財は、縦70.2㌢横182㌢の油絵で「大魚の陸揚げが醸し出すイメージが壮大なだけに、実物を小さいと感じる人は多いのではないか」というと、森山さんが答えて「当時の限界でしょうか。布良(めら)で寄宿した民家は狭いし、東京の下宿も4畳半か6畳程度でしょう」。
それでは、川本三郎さんの本では、どのように紹介されていたか?
気になるところではあります。ちょうど200ページにそれはありました。
「この絵のなかの漁師たちは、全裸である。・・・
房総の裸の漁師といえば、木村伊兵衛の写真集『昭和時代』第一巻(昭和59年、筑摩書房)には、裸のたくましい漁師たちが浜辺で船を出そうとしている姿を撮った写真がある。・・・それを見て解説の色川大吉は、『たとえば少年のころ、毎夏、私は銚子や九十九里浜に泊りがけで行った。銚子では漁師たちが市内でもふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。・・・』・・・青木繁の布良滞在は約二ヵ月にも及んだ。・・海のなかの様子を知るために、『あま眼鏡』で海底にそよぐ藻類や魚を観察したという。房総の海がよほど気に入ったのだろう。次の年の五月には、恋人の福田たねと内房の保田(ほた)を訪れている。青木繁の絵には、房総の海が大きな役割を果たしたことになる」。
ここでさらに、気になるのが、木村伊兵衛の写真集。
ちょうど、その巻だけ簡単にネットの古本屋で買うことができました。昨日とどいたのです。
浜辺で船を出そうとしている裸の漁師たちの一枚の写真。
これは一見の価値がありました。そう思っちゃうほどに、私には鮮やかな残像。