和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「谷内六郎館」へ。

2007-05-13 | 安房
週刊新潮2007年5月17日号に
「4月末、神奈川・横須賀に『谷内六郎館』がオープンした。本誌(週刊新潮)の表紙原画を常設展示する美術館の誕生である」として写真で紹介されております。もうちょっと紹介記事を引用してみましょう。
「新設された横須賀美術館の『離れ』のような形で、海に面して立つ六郎館。ここでは、谷内六郎さんが25年にわたって描いた表紙原画が、創刊号から順番に展示される。まず6月3日までは、1956年分。そして7月8日までは57年分といった具合だ。なにしろ膨大な数だけに、全部を展示するのに約3年かかる予定。その多くが、展覧会に出品されたことがなく、ここ横須賀で初公開となる」。
週刊新潮に25年間描き続けた1300点余に及ぶ原画を収蔵するのでした。もしも機会があれば、立ち寄ってみたいなあ。けれど、全部を見るのに3年かかるのも困るなあ。もし一度に全部見れたら、どれだけいいことか。私なら、邪道だけれど、壁が見えなくなるほどにその原画を掛けておくという企画をするだろうに。絵画を見て満腹感を味わって帰るというのが贅沢な理想。そうしたら、一泊してでも、見に行きたいなあ。思うのですが、たとえば東北の美術館に見たいコレクションがある。として、せっかくでかけていっても、その一部しか見れないとしたら、かえってわざわざ見に出かける意欲がそがれるのじゃないかなあ。たとえ、配列がゴッチャになって、隙間がなくっても、全部の作品を見ることができるのなら、私は行きます。そういう贅沢な配列を試みてもいい時期にきてるんじゃないでしょうか。と、私の夢を語ってみました(もちろん。私の貧乏性が語らせる発想なのですが、絵を全部見終ってから、語りたいこともあります)。

  神奈川県横須賀市鴨居4―1 
   横須賀美術館敷地内 谷内六郎館
   電話 046―845―1211   10時~18時
    毎月第一月曜と年末年始は休館。
   観覧料(常設展) 一般300円・高大生と65歳以上200円・中学以下無料。
   京急「馬堀海岸駅」「浦賀駅」
   JR「横須賀駅」からバス便あり


さてっと。それでは、見に行かなくても出来る楽しみ。
つまりですね。あれこれと思ったことを書いてみます。


齋藤美和編「編集者 齋藤十一」(冬花社・税込み¥2500)に、
齋藤美和夫人の談話が掲載されていて、こんな箇所があるのです。


「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、表紙に関することを担当していました。どのような表紙にするか、試行錯誤がつづきました。編集長の佐藤亮一さんから『出版社から初めての週刊誌だから作家の顔で』と言われて、作家の写真を表紙の大きさに焼いてみたりしたのですが、いくら立派な顔であっても、しょせんは【おじさん、おばさんのアップ】で、あまり面白くない。『やっぱり絵にしましょう』と、そのころ若手から中堅の位置にあった高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに描いていただこうと考えたのですが、これもなかなかうまくいかない。そんなときに齋藤(十一)が『こんな人がいるよ。研究してみる価値はあるんじゃないか』と教えてくれたのが、おりしも第一回文藝春秋漫画賞を受賞したばかりの谷内六郎さんでした。」(p280~281)


ちょうど「谷内六郎館」では、6月3日まで、週刊新潮が創刊された1956年2月からの一年分の表紙絵が並んでいるようですね。「週刊新潮」創刊号の谷内六郎の表紙絵は、つとに有名で、名作とされておりますね。これには「表紙の言葉」というのがついていたそうです。それを引用してみましょう。

「乳色の夜明け、どろどろどろりん海鳴りは低音、鶏はソプラノ、雨戸のふし穴がレンズになって丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳(じびき)におぐれるよ、上総(かずさ)の海に陽が昇ると、町には海藻(かいそう)の匂がひろがって、タバコ屋の婆さまが、不景気でおいねえこったなあと言いました。房州御宿にて」

朝日新聞社文化企画部「誕生80年記念 絵の詩人谷内六郎の世界展カタログ」には、創刊号の表紙絵について、解説がありました。

「実に25年間、1300枚以上の絵だけでなく、それに匹敵する量の詩とも散文とも思える素晴らしい【作品解説】の始まりがここにある。また同時にこの作品には、その後の谷内六郎のすべてが盛り込まれている。青少年期をすごし、絵画の原点ともいえる房総の海、おかっぱ頭でまつげの長い伏し目がちな少女。そして海沿いに肩を並べて、ひっそりとたたずむ漁師町の家並。それらが水平線と平行して、いつの間にか『貨車』になって動きだす。空想と童話風は作品である。」


ここで、もういちど齋藤美和さんの談話へともどってみると。そこに大学時代の齋藤十一氏のことが語られているのでした。早稲田大学の理工学部に進んだ話です。
「そのうちに、大学生活よりも本を読む方が楽しくなってきた齋藤は、どこか空気のいいところで本をじっくりと読みたくなったそうです。何かやりたくなると居てもたってもいられなくなるのは、性分なのですね。早速本をいっぱい行李(こうり)に詰め込んで、お父さんの月給袋をちょっと拝借して、家出をしてしまいました。目的地は千葉。齋藤は子供のころ、夏になると一家で内房の保田にある農家の離れで過ごしていましたから、土地勘があったのです。中学生のころには保田から外房の鴨川まで下駄で歩き通したこともあって、その途中の吉尾村という集落が心に残っており、あそこに行きたいと考えたそうです。結局、齋藤はこの吉尾村のお寺の客間を紹介されてほぼ1年の間、昼間は近所のお百姓の畑仕事を手伝い、夜は好きなだけ本を読んで過ごしました。・・・」(p273)


ここで、「週刊新潮」の創刊号表紙絵について、谷内六郎・齋藤十一のお二人の間に、房州という地名の補助線がひけそうな感じです。表紙絵について、画家と編集者とのどのような会話があったのかを、あれこれと想像してみるのです。

ついては、そのヒントになりそうなエピソードがあります。
「編集者齋藤十一」に「もう一度行ってきな」と題して写真家野中昭夫氏の文が載っています。そこには「『週刊新潮』のグラビア写真は、亮一さん、十一さんの厳しいチェックで、没続きの三年半が過ぎる」(p105)と編集者としての齋藤十一氏のことが出てきます。そこに昭和36年(1961年)の新年号から『芸術新潮』が『読む雑誌から見る雑誌へ』と週刊誌大になって、写真を多く掲載するようになった頃の思い出が書かれているのでした。
「2、3日撮影して、2、30本のフィルムを抱えて夜行で帰京する。早朝の暗室に飛び込み、現像、引き伸ばしを終えて渡す。・・・やがて山崎さんからの呼び出しがあって編集部に行くと、齋藤さんの姿はなく、『もう一度撮り直しに行く。明日出かけるよ』の一言。この雑誌に来てからは、二度ならず三度の取り直しをしたことすらあった。『齋藤さんは何をお望みなんでしょうか』。答えは『何をじゃないよ。どう撮るかだよ』。さらに、『齋藤さんという方はご自分を読者の一人と考えているから、当り障りのない写真では満足しない。雑誌を開いてハッとするような写真でないと読者は買ってくれない』とも。」
そして「もう一度行ってきな」と言われてた野中氏はこう述懐するのでした。
「このシリーズを撮り出した頃は、土門拳氏と入江泰吉氏のことがいつも頭の中にあって・・・だがこの思いは、撮り直し、撮り増しを何度か繰り返しているうちに、間違っていると考えるようになった。」(p107)

こうして、「谷内六郎館」が出来るほどの表紙が描かれる「週刊新潮」を、一から手がけた齋藤十一だからなのでしょう。「新潮45」の新創刊に際して語った齋藤の言葉が、あらたな逆説として、鮮やかに浮かび上がります。

「石井君、表紙なんかいらないよ」
「日記と伝記が雑誌の柱だ」
「グラビアなんかいらない。活字だけ」
「誰も表紙なんか気にしやしないんだよ。問題は中身だ。・・」(p177)
 (「編集者齋藤十一」のなかの、石井昴「タイトルがすべて」)

それにしても、と思うわけです。
「谷内六郎館」へ行ってみたいなあ。
いつか、機会があったら。





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