和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「姑息さ」のお手並。

2007-05-06 | 朝日新聞
朝日新聞2007年5月1日「社説」は、題して「言論はテロに屈しない 阪神支局襲撃20年」とあります。内容のはじまりには、こうあります「20年前の憲法記念日に、朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に襲われ、29歳だった小尻智博記者が殺された」。この社説、読んでみると読むに耐えない書き方をしていて、小尻記者が生きていたら、きっと恥かしくなるのじゃないかと私には思える文面なのです。たとえていえば、簡潔な日本人ではこのようには、書かないと思えるほど、この機会にあれこれとつなぎ合わせ、自説につごうよく結びつけ、「朝日の社説」の主張をここぞとばかりに開陳につとめてる。それが、私には、読めば読むほど悲しくなってくるような文面なのです。これが「朝日の社説」の典型的な見本のようです。

ということで今回は、朝日新聞「姑息(こそく)さ」のお手並み拝見学習。

週刊新潮2007年2月15日号に特集記事が、その教材を提供してくれております。「落ち込む『朝日新聞』の明日は」が5ページにわたって書きこまれております。記事のきっかけは、2007年2月1日の文化欄の特集「現代雑誌事情  個性薄れ落ち込む部数」に納得できないという書き出しでした。その週刊新潮を読んでいると、簡潔に「姑息さ」が列挙されており、ほれぼれする取材文になっております。ここでは、前回紹介したNHK番組改変問題の箇所をとりあげている箇所。それがその後の様子を伝えておりました。

「NHK番組改変訴訟の控訴審判決。01年1月、民間団体が催した『天皇を戦犯』として被告にした模擬裁判の模様を取材したNHKが、取材に協力した当の団体などから、『番組が当初の説明と違う趣旨の内容に変更された』として、NHKと制作会社2社に計200万円の賠償を命じる判決が出されたのだ。しかし、『政治家の介入』については明確に否定されたのである。」
このあとに翌日の朝日の社説を引用しております。
そして週刊新潮はこう指摘しております。
「だが、ちょっと待て。当時、大騒動になった朝日新聞の記事は、『安部晋三、中川昭一両氏が放送前日にNHK幹部を呼び、『偏った内容だ』と番組内容に介入し、それによって改変がなされた』という内容だったはずである。
つまり、肝心の政治家の介入が否定されたというのは、すなわち朝日の記事が『捏造だった』という意味であり、<政治家の介入までは認めるに至らなかったが・・・>などと、言い訳で逃れられるものではない。社説で全面謝罪を表明するならともかく、NHKに対して、<編集の自由や報道の自由は民主主義社会の基本だ>などと、逆にお説教を垂れるのは、まさに姑息、いや呆れ果てた傲慢ぶり・・・・」
一寸端折ってつぎにいきます
「伊藤律架空記者会見やサンゴ事件、近くはインタビューしてもいない田中康夫長野県知事(当時)のコメント捏造事件・・・等々、同社の捏造やゴマカシ体質は、他紙の追随を許さない。」

この週刊新潮の特集記事は、迫力があり。時々「朝日の社説」を読んだ時などに、まるで、目くらましで目が霞んだ時の、漱ぎあらいの洗顔水のようにして読めるのでした。ということで、この週刊誌は本棚に置いております。その特集記事の5ぺージ目の最後には朝日OBの本郷美則さんの言葉をもってきておりました。それも鮮やかな印象を残すのです。では、それを引用しておわります。

「朝日新聞が流していたジャーナリスト宣言のCMで中東の学校の教室の背景で爆発が起き、包帯をした子供の映像が映るものがある。しかし、朝日の記者はどうか。バグダッドにもカブールにも、朝日の記者は常駐していません。遠く離れた場所にいて、現地の特約記者に電話取材し、たまに現地を訪れては記事を書いているのではありませんか。NYタイムズなどとは違って、血まみれの戦場でも、火煙が立ちのぼる現場でも、朝日の記者は戦っていないのです。そんな新聞社がCMにこんな映像を使ってジャーナリスト宣言とは、笑われてしまいますよ」

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最近「週刊朝日」。

2007-05-05 | 朝日新聞
朝日新聞の古新聞をもらって来ては読みます。
テキストとしての朝日新聞は、寝かして、時間をずらせて読むと、ちょうど読みごろになるのでした。たとえば、産経新聞の気になる2つのコラム。
2007年4月26日「産経抄」と
4月28日「花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング」。
そこでは、最近の「週刊朝日」がどのようになってしまっているのか。その構造を見る思いがします。内容は、4月24日の「週刊朝日」広告と、次の25日朝日新聞のベタ記事「おわび」について語られておりました。
どちらのコラムも、普通の読者には忘れられても可笑しくない、2年前のNHK問題を取上げて関連を示しておりました。あのNHK問題とは「日本軍の慰安婦問題を取り上げたNHKの番組が、政治的圧力で改変されたとかみついた朝日の記事掲載」のことです。具体的には朝日新聞が2005年の「1月12日付朝刊で、4年前にNHK教育テレビで放送された慰安婦を扱った番組について、中川昭一経済産業相と安部晋三自民党幹事長代理が放送前日にNHK幹部を呼び、圧力をかけたという趣旨の記事を載せた」(2005.3.18産経・主張)ところが、4年前の記録で中川氏が会ったのは放送前ではなく、放送後三日後だったことが判明したのでした。それでも朝日新聞の社説は、どうだったのか。忘れてはならない朝日の主張を繰り返してみましょう。
「朝日新聞は正確な取材をもとに、間違いのない報道を心がけてきた。報道の内容に自信を持っている。・・ことの本質を見失ってはならない。問われているのは、NHKと政治家の距離の問題である。」(2005.1.22朝日新聞社説)
それから、そのままの主張を繰り返すのでした。
次は、読売新聞2005年7月26日の社説。それは、ようやく朝日新聞の検証記事が掲載されたのを受けての社説でした。「朝日は、安部氏らに報道を全面否定された直後から、『事の本質はNHKと政治との距離』と、論点をそらすような主張を繰り返してきた。社会部長の結語も、その延長線上の『自己完結』としか受け取れない。『取材・報道への指摘について』の記事の中でも、『呼び出し』や『中川氏の放送前日の面会』を裏付ける新たな情報やデータは得られなかったと、朝日自身が認めている。にもかかわらず、報道の前後に、安部氏らが取材に語った内容が『相互に矛盾がない』などとして、記事の訂正の必要性を否定した。」

そういえば、こんな記事もあったのでした。
「朝日が平成12年から13年にかけて『週刊朝日』に連載した企画『世界の家族』をめぐり、消費者金融会社の武富士から5000万円編集協力費を受け取っていながら、然るべき対応をしていない問題が浮上している。これも新聞全体の信用にかかわる問題だが、朝日は『不手際』を認めたものの、納得のゆく説明をしていない。」(2005年2月2日産経主張「朝日NHK問題 いいわけに終始している」)



だいぶ2年前の記事にこだわりました。そうこう思っているうちに、
さて、2007年の4月後半の朝日新聞の古新聞がとどいたわけです。
問題の週刊朝日の広告が載った4月24日の朝日新聞を見てみました。
まず、その日の天声人語に、こんな言葉があります。

「関西テレビの捏造問題を機に、政府は放送法改正案を国会に提出して会期中の成立をめざしている。国の規制を強めようとする法案である。テレビ側にも問題はあるが、表現の自由の阻害を心配する声も大きい。・・ガラの悪さを正すのは、国家権力ではなく、作る側の良識と、見る側の批評眼でありたいものだ。」

そう、その同じ日の朝日新聞に、作る側の良識には期待できないものの、見る側の批評眼を期待したくなる週刊朝日の広告がのるのです。
それはもう普通の新聞読者が、この2年前のことを振り返らなくなったころを計算したかのような按配で、何げなく「週刊朝日」の広告が掲載されたのでした。
広告全体の十分の三くらいのスペースでそれはありました。「総力特集 長崎市長射殺事件と安部首相秘書との『接点』」「城尾容疑者所属の山口組系水心会と背後にある『闇』を警察庁幹部が激白!」とあります。黒地に白抜きの大文字ですから、パッとみると全体の三分の一のスペースをとっているようにも見えます。

問題は次の日の朝日新聞のベタ記事。

ここまで引用してきたのですから、
丁寧に全文。朝日新聞4月25日第二社会面のベタ記事を引用します。
指摘がなければ、見すごしてしまう場所にそれは、ありました。

「安部首相は24日夜、今週の『週刊朝日』に掲載された伊藤一長・前長崎市長を銃殺した容疑者の所属している暴力団と安部首相の秘書をめぐる報道について『週刊朝日の広告を見て愕然とした。全くのでっち上げで捏造だ。驚きとともに憤りを感じている』と強く批判した。首相官邸で記者団に語った。首相は『私や私の秘書がこの犯人や暴力団組織と関係があるのなら、私は直ちに首相も衆院議員も辞める考えだ。関係を証明できないのであれば、潔く謝罪して頂きたい』と述べた。さらに首相は『私や私の秘書に対する中傷でしかない記事だ。いわば言論によるテロではないかと思う』と強く反発した。」

そのあとに、山口一臣・週刊朝日編集長の話とあり。その全文。

「一部広告の見出しに安部首相が射殺犯と関係があるかのような不適切な表現がありました。関係者のみなさまにおわびいたします。」


以上が新聞からでした。
「言論によるテロではないか」と首相に名指しされた「週刊朝日」。
情けないけれども、認めましょう。これが最近の「週刊朝日」でした。



もうすこし、蛇足を加えておきます。

思い出すのは「池上彰の新聞勉強術」(ダイヤモンド社)。
そこで、池上さんはベタ記事を「私がもっとも愛する記事です」としておりました。
そして、国際面のベタ記事を語った箇所には、こうありました。

「事実だとすれば、『民主主義国アメリカ』の自己否定にもつながる一大事です。国際的なスキャンダルに発展する内容です。紙面の編集者は、あまりの衝撃的なニュースのために真偽を疑い、大きく扱うことをためらったのかもしれません。それでも、取り上げないと、後になって大問題になったときにニュース判断を問われることになりかねませんから、『ニュースとして取り上げておいた』というアリバイ証明的に、小さく掲載したとしか思えません。」(p84)

テキスト「朝日新聞」を読むには、欠かせないのが、ベタ記事のようです。
これからは、もらってきた朝日の古新聞をベタ記事のほうから読んでいけばいいんだ。
と、楽しみ方を教わりました。新聞は楽しいんだ。それにしても「アリバイ証明」としてのベタ記事とは、新聞読みの池上彰さんからの貴重な指摘。





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めでたき日本語。

2007-05-04 | Weblog
「編集者齋藤十一」を読んでいて思ったことがあるので、書き留めておきます。

司馬遼太郎と桑原武夫の対談「人口日本語の功罪について」に、
こんな箇所があります。

<司馬> ・・先生は以前どっかへゆく車のなかで、『ちかごろ週刊誌の文章と小説の文章と似てきた。これは由々しいことだ』ということを、それも肯定的な態度でおっしゃったことがありましたね。・・やはり日本語としてはめでたきことです。
<桑原> ええ。戦後民主主義についてはいろいろの評価がありますが、戦後民主主義が国語に適用されるとそういう現象が起きる。これは週刊誌の文章(内容ではありません)がいいというわけではない。しかしそこに共通基盤が見られるといことです。一例をあげると、私の知人のある若い科学者、彼はすばらしい業績をあげていたが、文章が下手で読むにたえないので、ぼくは『きみのネタはすばらしい。しかしこんな文章ではぜったい売り物にならへん』といったんです。彼は反省しまして、学校に通う電車の中で毎日必ず週刊誌を読んだ。そのうちに文章がうまくなりましたよ。
<司馬> なるほど。型に参加できたわけですな。
<桑原> 別に科学者として偉くなったわではないが、彼の文章に商品価値が出て、それによって彼の学説も広まったわけです。

 以上は、文芸春秋社「司馬遼太郎対話選集1 この国のはじまりについて」に載っております。さらにですね。朝日新聞社「司馬遼太郎全講演第一巻」。そこに1975年松山市民会館の「全国大学国語教育学会」での講演があるのです。題して「週刊誌と日本語」。そこには対談の科学者の名前が登場しております。
ちょいと長くなりますが、以下講演を引用してみます。

 西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も勤めた、大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。西堀さんは優れた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。桑原さんはこう言った。
「だから、おまえさんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない」西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
「おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ」
「文章に理系も文系もあるか」
「じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ」
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
「おまえさんは電車の中で週刊誌を読め」
西堀さんはおたおたしたそうです。
「週刊誌を読んだことがない」
「『週刊朝日』でもなんでもいいから読め」
週刊誌の話になったのには理由があるんです。
私は桑原さんにこう言いました。
「共通の文章日本語ができそうな状況になったのは昭和25年ぐらいではないでしょうか」
これには非常にかぼそい根拠がありまして、昭和20年代の終わりごろに批評家たちがしきりに似たことを言いだしていました。「このごろの作家は同じようなことを書いている。変に文章技術はうまくなっているけれど、同じようなことばかりでつまらない」しかし、私は逆に見ることもできると考えました。内容のつまらなさにアクセントをおかず、だれもが簡単に書いていることに驚きを感じたらどうだろうか。それができずに苦労していた時代もあったのですから。この時代の共通の日本語ができつつあったのではないかと桑原さんに言ったところ、桑原さんは言いました。
「週刊誌時代がはじまってからと違うやろか」
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと言われるものですから、私も意外でした。
「週刊誌って?」
そうやって不思議な顔をしたものですから、さきほどの西堀さんの話になったのです。・・週刊誌はもともと大新聞社が発行していたものです。大新聞社ですから、記事が余ってもったいないじゃないかということになり、「週刊朝日』なり、「サンデー毎日」なりができたそうですね。戦争を経て、昭和30年代になりますと、出版社の新潮社が、よせばいいのに週刊誌を出した。これは大変にカネのかかる、危急存亡にかかわる道楽だったと思うのですが、それが成功しました。するとほかの文藝春秋なども週刊誌を出し始め、大変な乱戦状態になった。・・




こうした視点から、『編集者 齋藤十一』を読むと魅力をすくい上げることができます。その最後には齋藤十一略年譜が簡単についております。

 1945年(昭和20年) 11月、戦争が終って復刊した「新潮」の編集にあたる。
 1946年(昭和21年) 2月、取締役に就任、「新潮」の編集長になる。
 1950年(昭和25年) 1月、「芸術新潮』創刊。
 1956年(昭和31年) 2月、「週刊新潮」創刊。

桑原武夫さんが語った「週刊誌が共通の文章日本語をつくったことにいささかの貢献をしたのではないか」という意味合いは、齋藤さんにどう感じられていたのか?

齋藤十一氏は、亡くなる少し前、テレビのインタビューに答えております。
そこにこんな言葉がありました。

―――何で、つくろうと思ったんですか。
<齋藤> 当然、あのときは週刊誌をやらなくちゃならない時代に来ていたんだよな、世の中がな。だから。
―――成功すると思っていました?
<齋藤> 成功する? ああ、ああ。それよりも、あれはやらなくちゃならない、と思ったんだよな、週刊誌をね。
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編集者齋藤十一。

2007-05-01 | Weblog
「編集者 齋藤十一」(冬花社)を楽しく読みました。
追悼集として編まれた一冊。あとに続く編集者たちが追悼文を書かれているのが読みどころ。人となりといえば、たとえば飯塚博雄氏の文に

「仕事で中央公論社の嶋中社長にインタビューしたことがある。当時、社の厳しい経営にあえいでおられた嶋中社長は『君の社の齋藤十一さんは日本の出版界の宝とも言える人だ。あの人がうちの社にいたら中央公論社の業績も運命も変わっていただろう』と語っておられた」(p81)

そういえば、と思い浮かんだのは、ドナルド・キーン著「明治天皇」でした。
今、新潮文庫で「明治天皇」が何冊かにわかれて出ておりますね。
以前の、キーンさんの連載「私と20世紀のクロニクル」の
「42・二つの伝記『明治天皇』と『足利義政』」(2006年11月4日読売新聞)に、興味深い言葉があります。キーンの『明治天皇』は新潮社から出版されました。それについて書かれている箇所にあるのでした。

「私の伝記『明治天皇』の成功は、勿論喜ばしいことだった。・・・
特に嬉しかったのは、韓国語訳とロシア語訳が出た時だった。しかし一つの点で、この成功は私に気まずい思いをさせた。『明治天皇』を書いたのは、新潮社に勧められたからだった。長い連載執筆のあらゆる段階で、私は編集者たちの貴重な助言を受けた。著者に対して、これ以上のことをしてくれる出版社があるとは、ちょっと考えられない。」

そして、こう続くのです。

「ところが、ある日、嶋中雅子と話した時、この本を中央公論社から出さなかったことに私は罪の意識のようなものを感じた。亡くなった彼女の夫の元中央公論社社長嶋中鵬二は、親友であったばかりでなく、私を日本の文学界にデビューさせてくれた恩人なのだった。彼の会社の内部で私に対する優遇に反対があった時でも、彼の親切は変わることがなかった。彼は私の『日本文学の歴史』全十八巻を出版してくれたが、たぶん赤字だったのではないだろうか。にもかかわらず私は、初めて奇跡的によく売れた自分の本を、別の出版社から出したのだった。私は嶋中夫人に、次の本は彼女のところから出すと約束した(夫の死後、彼女は中央公論社社長に就任していた)。」

それにしても、ドナルド・キーン氏が、なぜ新潮社から本を出したのか?
という疑問は、当然に思いうかぶわけです。
また、「編集者 齋藤十一」にもどると、何人かの追悼で同じ言葉が、拾えるのでした。
その箇所を引用してみたいと思います。
それは、伊藤幸人氏の文にもあります。

「『新潮45』の第一回編集会議というべき、創刊にあたっての初顔合わせで、編集者以下編集スタッフ四名を自室に呼んで、齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。昭和59年(1984年)12月28日のことである。
『他人(ひと)のことを考えていては雑誌はできない。いつも自分のことを考えている。俺は何を欲しいか、読みたいか、何をやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要がない』」

うん。この箇所。
名指揮者が、明快で鮮やかな解釈を打ち出した瞬間ですね。
こうも、つづくのでした。

「『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。したいんだけど、素人だから、手に負えない。そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ』強烈なアジテーションに、われわれ編集部員は圧倒された。・・・実は、こうした齋藤さんの『演説』は、その後の編集会議でもずっと続いていたのだ。」(p168~169)。

ちなみに参考文献として、読めたのは
「諸君!」2001年7月号の、齋藤美和著「夫・齋藤十一」。
誕生百年記念『新潮』四月号臨時増刊「小林秀雄 百年のヒント」(平成13年)の、坂本忠雄著「小林秀雄と齋藤十一」。


あと、たいへんに興味深いのは、齋藤十一と音楽。
私はおかげで、一度はゆっくりと味わいたかったバッハを、
グレン・グールドで聞けばいいのだと知恵をつけてもらいました。感謝。
コメント (4)
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