和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

パリで聞く震災。

2007-05-10 | 地震
関東大震災をフランスで聞いた人たちがいたわけです。
内藤初穂著「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房)を読んで、私に忘れられない箇所があります(ちなみに著者の初穂氏は内藤濯氏の息子)。それは内藤濯(あろう)氏がパリに留学している最中に起こりました。その箇所を、引用してみようと思うのでした。

9月5日
「大災害の報、日を追うて確かになつて行く。大島及び江ノ島の消失が伝へられる。新聞をよむと、涙がこぼれてならない。気が落ちつかないので、何にも手につかぬ」
9月6日
「東京の恐ろしい出来事が伝はりだしてからまだ凡そ三日ほどにしかならないが、もう十日も経つたやうな気がする。支那からの電報で、日本の避難民が続々と上海へやつてくるといふのがある。支那人の偽善が見えすいてゐて、さもしく思ふ」(p226~227)

少し端折って引用します。以下は(p228~229)の記述。


フランス人からの同情を受ければ受けるほど、父(内藤濯)の不安はふくらんだ。パリ在留の日本人仲間には、家族全滅の不幸に遭った向きが少なくなかった。アメリカのニューヨークでは、妻をなくして自殺した日本人がいるとのことであった。暗い想像をかき立てる情報だけが耳につき、やりきれない日がつづいた。留守宅に打った電報については、バリ・東京間の私用電は配付不能とのことであった。・・・そんな状況の父のもとに、パリで親しくなった日本人仲間の一人で画家の高畠達四郎があらわれ、壊滅の日本などに帰る気はなくなったと口走る。宿の女主人から慰めの言葉をかけられても、投げやりの口調で、「僕の家は東京のまん中にありますから、きれいに焼けてしまったことでしょう。身内の連中もあの世に行ったに決まってまさあ」というなり、は、は、は、と笑った。あとで父は女主人につかまり、くだんの笑いは不謹慎きわまると決めつけられ、然るべき説明を迫られた。けっきょく女主人を納得させるに足る説明はできなかったが、父にとっては身につまされる笑いで、女主人の非難には賛同できないものがあった。
それからまもなく『エクセルシオル』紙が「黄いろい笑い」と題して、偶然にも高畠流の笑いを論じた。同紙の記者がその笑いを聞いた相手というのは、かつて石本が能を演じたペリー氏記念会の設営に当たった町田梓楼その人であった。
「日本の変災を取材しようとして、朝日新聞社が当地に派遣している町田氏を訪問した。祖国に残してきた身内の安否に心乱れているのは当然と思っていたが、彼の表情は意外に明るかった。会話しながら微笑さえ浮かばせるのである。自分は一瞬、異様な感じを抱いた。何という冷淡な人間だろうとさえ思った。しかし、そう思うこちらがいけないのではないかと気がついた。考えると、日本人は何らかの悲しみにあるとき、その悲しみの反映(コントルクー)を相手に与えるのを避けようとするのである。彼らの祖先から受けついできた道義心がそうさせるのであろう。・・・」この解釈は日本人への一種に慰めといったほうがよさそうに思えたが、解釈の是非はともかく、父の現実は「黄いろい笑い」で不安をまぎらわすような日々の連続だったというほかない。



以上。引用の箇所が、鮮やかな印象を残すのでした。ここには、パリで聞く(あるいは外地で聞く)「関東大震災」という貴重な日本人の心の動揺が、語られているのでした。
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