ドナルド・キーン著「渡辺崋山」(新潮社)を読みました。
たのしかった。こういう場合は、きちんとした楽しみの由来を書くのが本筋なのでしょうが。この音楽を聴いたような楽しみを、どう書き留めておけばいいのかなあ。ということで搦め手からはじめるわけです。
「編集者 齋藤十一」(冬花社)は、多くの方の追悼・回想を集めて一冊にしてあります。そこに池田雅延氏の「微妙という事」と題した文が載っておりました。
池田氏が小林秀雄に聞いた話が載っております。
「『文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ』そのまましばらく口をとざされ、そして続けられた。『齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな』」(p160)
さて、ここで齋藤十一にもっていくと脱線するので、ドナルド・キーン著「音楽の出会いとよろこび」(中公文庫)をもってきます。
そのあとがきにキーンさんは、こう書いておりました。
「・・自分は文学よりも音楽の研究を目ざしていたほうがよかったのではないかと思うことがときどきある。いつもことばよりも音楽のほうに深い感動を覚えるからだ。しかし、音楽について書くということも、それが自分の主たる専門活動になってしまえば、たちまちそれほど楽しい仕事でなくなってしまうことは目に見えている。」
そのあとこんな箇所があるのです。
私はキーン著「渡辺崋山」についての解説を読むようにして、このあとがきを味わいました。
「・・専門の音楽批評家たちの文章を読んだり、FM放送などでの彼らの解説を聞いたりしたときに感じたいら立ちが直接の刺激になって書かれている。わたしは批評家たちが、過去の陳腐な意見を繰り返してばかりいるのが不思議でならない。例えば、ドイツ音楽をしかるべく演奏できるのはドイツ人だけである、ヴェルディをまともに歌えるのはイタリア人だけである、今世紀に作曲された弦楽四重奏は、音楽としてベルリーニのオペラにまさっていないわけがない等々。そうした意見は、実際には間違っていないのかもしれないが、わたしにはうんざりだ。そこで、ヘソ曲りの本性を発揮して、反論を楽しんできたというわけである。・・いうまでもなく、定説なるものには必ず根拠のあることは承知しているし、本物の音楽学者の深い学識には頭がさがる。しかし、四十年以上にわたって音楽を聴き続けてきたわたしには、少しくらいのワガママが許されてもいいという気持がする。それに、定説から逸脱したわたしの音楽観でも、読者の興味をそそるくらいの力はあってほしいと願っている。」
音楽はこのくらいにして、渡辺崋山の絵の話。
では、ドナルド・キーン氏の本文からの引用をしてみます。
2箇所。
「北斎漫画は、画学生の便宜のために作られたように見える。その特徴が最もよく現れているのは、たとえば『雀踊り』を描いたページである。後ろ姿の小さな人物たちが、激しい踊りの動きの中で腕、脚、胴体を旋回させている。思うにこれは、あらゆる動きの中で人間を捉える、その描き方を画学生に教えるためのものではないだろうか。『一掃百態』には、こうした教育的な意図は一切ない。代わりに崋山が描こうと努めたのは、多様性に富んだ江戸の人々の生活そのものだった。そうすることで江戸の読者を楽しませると同時に、何世紀か後にスケッチを見る人々の胸に崋山が生きていた江戸の日々を蘇えらせることを願ったのだった。・・・人々の新奇を求める気持が絶えず変化を生んでいる。おそらく崋山は、この変転極まりない江戸の生活の一日を捉え、それを永遠に保存したいという思いに駆られた。・・・」(p80~81)
「崋山に永遠の名声を与えたのは肖像画であって、他の様式の画でもなければその生涯に起きた数々の事件でもなかった。描かれた人物が誰であれ、また描かれた時代がいつであれ、崋山の肖像画には常に生気に満ちた説得力が漲っている。ところが、これらの傑作がどのような状況のもとで描かれたかを知ったら、あっと驚くことになるかもしれない。たとえば崋山が鷹見泉石と市河米庵の肖像画を描いた天保八年(1837)は、日本全国を苦しめた大飢饉の最も深刻な年である。藩の重職にあって痛切にその責任を自覚していた崋山は、藩民に食料が行き渡るように全力を尽くした。崋山は、見事に成功した。全国で多くの餓死者が出たにもかかわらず、田原で飢える者は一人もいなかった。・・・ともあれ崋山は逆境から立ち上がり、画を描き続ける気力を取り戻した。あるいは過酷な飢餓のさなか、家族を養うために崋山は描いた。」(p158~159)
たのしかった。こういう場合は、きちんとした楽しみの由来を書くのが本筋なのでしょうが。この音楽を聴いたような楽しみを、どう書き留めておけばいいのかなあ。ということで搦め手からはじめるわけです。
「編集者 齋藤十一」(冬花社)は、多くの方の追悼・回想を集めて一冊にしてあります。そこに池田雅延氏の「微妙という事」と題した文が載っておりました。
池田氏が小林秀雄に聞いた話が載っております。
「『文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ』そのまましばらく口をとざされ、そして続けられた。『齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな』」(p160)
さて、ここで齋藤十一にもっていくと脱線するので、ドナルド・キーン著「音楽の出会いとよろこび」(中公文庫)をもってきます。
そのあとがきにキーンさんは、こう書いておりました。
「・・自分は文学よりも音楽の研究を目ざしていたほうがよかったのではないかと思うことがときどきある。いつもことばよりも音楽のほうに深い感動を覚えるからだ。しかし、音楽について書くということも、それが自分の主たる専門活動になってしまえば、たちまちそれほど楽しい仕事でなくなってしまうことは目に見えている。」
そのあとこんな箇所があるのです。
私はキーン著「渡辺崋山」についての解説を読むようにして、このあとがきを味わいました。
「・・専門の音楽批評家たちの文章を読んだり、FM放送などでの彼らの解説を聞いたりしたときに感じたいら立ちが直接の刺激になって書かれている。わたしは批評家たちが、過去の陳腐な意見を繰り返してばかりいるのが不思議でならない。例えば、ドイツ音楽をしかるべく演奏できるのはドイツ人だけである、ヴェルディをまともに歌えるのはイタリア人だけである、今世紀に作曲された弦楽四重奏は、音楽としてベルリーニのオペラにまさっていないわけがない等々。そうした意見は、実際には間違っていないのかもしれないが、わたしにはうんざりだ。そこで、ヘソ曲りの本性を発揮して、反論を楽しんできたというわけである。・・いうまでもなく、定説なるものには必ず根拠のあることは承知しているし、本物の音楽学者の深い学識には頭がさがる。しかし、四十年以上にわたって音楽を聴き続けてきたわたしには、少しくらいのワガママが許されてもいいという気持がする。それに、定説から逸脱したわたしの音楽観でも、読者の興味をそそるくらいの力はあってほしいと願っている。」
音楽はこのくらいにして、渡辺崋山の絵の話。
では、ドナルド・キーン氏の本文からの引用をしてみます。
2箇所。
「北斎漫画は、画学生の便宜のために作られたように見える。その特徴が最もよく現れているのは、たとえば『雀踊り』を描いたページである。後ろ姿の小さな人物たちが、激しい踊りの動きの中で腕、脚、胴体を旋回させている。思うにこれは、あらゆる動きの中で人間を捉える、その描き方を画学生に教えるためのものではないだろうか。『一掃百態』には、こうした教育的な意図は一切ない。代わりに崋山が描こうと努めたのは、多様性に富んだ江戸の人々の生活そのものだった。そうすることで江戸の読者を楽しませると同時に、何世紀か後にスケッチを見る人々の胸に崋山が生きていた江戸の日々を蘇えらせることを願ったのだった。・・・人々の新奇を求める気持が絶えず変化を生んでいる。おそらく崋山は、この変転極まりない江戸の生活の一日を捉え、それを永遠に保存したいという思いに駆られた。・・・」(p80~81)
「崋山に永遠の名声を与えたのは肖像画であって、他の様式の画でもなければその生涯に起きた数々の事件でもなかった。描かれた人物が誰であれ、また描かれた時代がいつであれ、崋山の肖像画には常に生気に満ちた説得力が漲っている。ところが、これらの傑作がどのような状況のもとで描かれたかを知ったら、あっと驚くことになるかもしれない。たとえば崋山が鷹見泉石と市河米庵の肖像画を描いた天保八年(1837)は、日本全国を苦しめた大飢饉の最も深刻な年である。藩の重職にあって痛切にその責任を自覚していた崋山は、藩民に食料が行き渡るように全力を尽くした。崋山は、見事に成功した。全国で多くの餓死者が出たにもかかわらず、田原で飢える者は一人もいなかった。・・・ともあれ崋山は逆境から立ち上がり、画を描き続ける気力を取り戻した。あるいは過酷な飢餓のさなか、家族を養うために崋山は描いた。」(p158~159)