和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「渡辺崋山」。

2007-05-26 | Weblog
ドナルド・キーン著「渡辺崋山」(新潮社)を読みました。
たのしかった。こういう場合は、きちんとした楽しみの由来を書くのが本筋なのでしょうが。この音楽を聴いたような楽しみを、どう書き留めておけばいいのかなあ。ということで搦め手からはじめるわけです。

「編集者 齋藤十一」(冬花社)は、多くの方の追悼・回想を集めて一冊にしてあります。そこに池田雅延氏の「微妙という事」と題した文が載っておりました。
池田氏が小林秀雄に聞いた話が載っております。
「『文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ』そのまましばらく口をとざされ、そして続けられた。『齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな』」(p160)

さて、ここで齋藤十一にもっていくと脱線するので、ドナルド・キーン著「音楽の出会いとよろこび」(中公文庫)をもってきます。
そのあとがきにキーンさんは、こう書いておりました。

「・・自分は文学よりも音楽の研究を目ざしていたほうがよかったのではないかと思うことがときどきある。いつもことばよりも音楽のほうに深い感動を覚えるからだ。しかし、音楽について書くということも、それが自分の主たる専門活動になってしまえば、たちまちそれほど楽しい仕事でなくなってしまうことは目に見えている。」
そのあとこんな箇所があるのです。
私はキーン著「渡辺崋山」についての解説を読むようにして、このあとがきを味わいました。
「・・専門の音楽批評家たちの文章を読んだり、FM放送などでの彼らの解説を聞いたりしたときに感じたいら立ちが直接の刺激になって書かれている。わたしは批評家たちが、過去の陳腐な意見を繰り返してばかりいるのが不思議でならない。例えば、ドイツ音楽をしかるべく演奏できるのはドイツ人だけである、ヴェルディをまともに歌えるのはイタリア人だけである、今世紀に作曲された弦楽四重奏は、音楽としてベルリーニのオペラにまさっていないわけがない等々。そうした意見は、実際には間違っていないのかもしれないが、わたしにはうんざりだ。そこで、ヘソ曲りの本性を発揮して、反論を楽しんできたというわけである。・・いうまでもなく、定説なるものには必ず根拠のあることは承知しているし、本物の音楽学者の深い学識には頭がさがる。しかし、四十年以上にわたって音楽を聴き続けてきたわたしには、少しくらいのワガママが許されてもいいという気持がする。それに、定説から逸脱したわたしの音楽観でも、読者の興味をそそるくらいの力はあってほしいと願っている。」


音楽はこのくらいにして、渡辺崋山の絵の話。
では、ドナルド・キーン氏の本文からの引用をしてみます。
2箇所。

「北斎漫画は、画学生の便宜のために作られたように見える。その特徴が最もよく現れているのは、たとえば『雀踊り』を描いたページである。後ろ姿の小さな人物たちが、激しい踊りの動きの中で腕、脚、胴体を旋回させている。思うにこれは、あらゆる動きの中で人間を捉える、その描き方を画学生に教えるためのものではないだろうか。『一掃百態』には、こうした教育的な意図は一切ない。代わりに崋山が描こうと努めたのは、多様性に富んだ江戸の人々の生活そのものだった。そうすることで江戸の読者を楽しませると同時に、何世紀か後にスケッチを見る人々の胸に崋山が生きていた江戸の日々を蘇えらせることを願ったのだった。・・・人々の新奇を求める気持が絶えず変化を生んでいる。おそらく崋山は、この変転極まりない江戸の生活の一日を捉え、それを永遠に保存したいという思いに駆られた。・・・」(p80~81)

「崋山に永遠の名声を与えたのは肖像画であって、他の様式の画でもなければその生涯に起きた数々の事件でもなかった。描かれた人物が誰であれ、また描かれた時代がいつであれ、崋山の肖像画には常に生気に満ちた説得力が漲っている。ところが、これらの傑作がどのような状況のもとで描かれたかを知ったら、あっと驚くことになるかもしれない。たとえば崋山が鷹見泉石と市河米庵の肖像画を描いた天保八年(1837)は、日本全国を苦しめた大飢饉の最も深刻な年である。藩の重職にあって痛切にその責任を自覚していた崋山は、藩民に食料が行き渡るように全力を尽くした。崋山は、見事に成功した。全国で多くの餓死者が出たにもかかわらず、田原で飢える者は一人もいなかった。・・・ともあれ崋山は逆境から立ち上がり、画を描き続ける気力を取り戻した。あるいは過酷な飢餓のさなか、家族を養うために崋山は描いた。」(p158~159)
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植木等。

2007-05-26 | Weblog
2007年3月27日植木等亡くなる(80歳)。
3月29日朝刊一面は、各紙がそのテーマでのコラムを書いておりました。
そのコラムで、興味深かったのが、毎日新聞「余禄」と朝日「天声人語」。
同じように、植木等の小学生の頃を取り上げており、コラム比較にはうってつけ。
さっそく、4月12日号の「週刊新潮」「週刊文春」を買って読みました。
4月27日は植木等さんをしのぶ「さよならの会」。
それを機会に28日から、産経新聞では5日連続「植木等伝説」を社会面で連載しておりました。さて、こうなると、たとえば文芸春秋の6月号は、と期待していたわけです。残念期待はずれ。植木等の特集は「文芸春秋」にはありませんでした。ちなみに、文芸春秋の「蓋棺録(がいかんろく)」では取り上げた最後に「・・再び脚光を浴びるのは90年秋、植木等メドレーの『スーダラ伝説』を発表したときだった。この年の暮れ、20数年ぶりでNHKの紅白歌合戦に登場して『スーダラ伝説』を歌った数分、視聴率は56・6パーセントのピークを示した。」としめくくっておりました。せめて亡くなった時ぐらいは「文芸春秋」で特集組んでれば、この雑誌の購読数がピークになるかもしれなかったのになあ。と、期待はずれの残念無念。なんと文芸春秋では「誕生70年女王・ひばりが号泣した夜」なんてのが載っていて、ちょいと読む気になりません。

取り上げてくれたらなあ。と私は思ったわけです。
読めなきゃ。私なりに書いちゃえばいいわけです。そのためにブログがある。
というわけで、植木等。

 3月28日「よみうり寸評」は、植木さんを「この歌この歌手」(読売新聞文化部編・現代教養文庫)から取り上げていたかと思うと、次の日「よみうり寸評」では、小林信彦著「テレビの黄金時代」をあらてめて読み直してみた。とあります。
3月29日「編集手帳」では「渥美清さんの映画『拝啓天皇陛下様』を見た植木さんの感想を、作家の小林信彦さんが著書に書き留めている『渥美ちゃんのは芸術ですよ。ぼくのは映画のマンガですね』(新潮文庫「日本の喜劇」)。とあります。

小林信彦さんといえば、岡崎武志著「読書の腕前」(光文社新書)には、第七章「蔵書のなかから『蔵出し』おすすめ本」で、小林信彦著「本は寝ころんで」(文春文庫)を取り上げて、こう書き始めておりました「これを無類のおもしろさ、と言うのだろう。読書エッセイに限らず、『日本の喜劇人』を頂点とする小林信彦の著作は・・・」(p280)とあるじゃありませんか。

ふむふむ。と小林信彦著「日本の喜劇人」を覗いてみると。
その文庫あとがきには、こんな箇所がひろえます。
「全体を読みかえして痛感するのは、私がもっとも詳しいはずの、クレージー・キャッツや渥美清に関する章が、ごくあっさりとした記述で終っていることだ。・・・ずいぶん、気をつかった挙句、そうなったのである。」という言葉。

それでは、3月29日朝日新聞文化総合欄に載っていた小林信彦の「植木等さんを悼む」から

「時は昭和33年秋、映画『三丁目の夕日』で描かれた時代である。失業した私は、ジャズ喫茶で時間をつぶしていた。ふつうより値段の高いコーヒー一杯で、ハナ肇とクレイジー・キャッツがくりひろげる珍妙なコントと音楽の世界にひたっていた。どうせ、仕事なんかないのだ。グループの中心はMCを兼ねたハナ肇、歌とギャグが植木等、音楽ギャグが谷啓で、その時点での人気者は(なんと!)オヤマ姿の石橋暎太郎(ピアノ)だった。植木等はアイヴィールックに身を包み、色白でリーゼントの髪の一部がパラリとひたいにかかり、いつも悠然としていた。」
「この二枚目が、突然、日本中の人気者になるB級映画が作られた。昭和37年夏の『ニッポン無責任時代』。当時、東宝本社に出入りしていた無責任な快人物をモデルにしたもので、脚本家の話では、はじめフランキー堺が演じる予定だったという。・・・七月末に封切られた『ニッポン無責任時代』を活字で評価したのは佐藤忠男氏と私だったと思うが、同年十二月に『ニッポン無責任野郎』が封切られ、これまたヒットすると、うるさいインテリがリクツを述べ始めた。<無責任>の社会的意味づけである。」

小林さんの追悼文の最後はというと、
「今年の正月すぎに、思いついたことがあって、年賀状を出した。几帳面な植木さんから年賀状がこなかったのを気にしてもいたのである。入院しているとは思わなかったのだ。」

映画については
「『ニッポン無責任時代』(なんとズバリのタイトルであろう!)と『ニッポン無責任野郎』の二作で、植木は無責任人間役の頂点をきわめた。めったに邦画を褒めぬ大島渚が、この二本立てを一回半(つまり、三本分)見た、どうしてあんなに面白いんだろう、と私に語ったが、昭和37年には青島の発想と植木の演技(というより体技)の蜜月時代であった。・・・」(p172・「日本の喜劇人」新潮文庫)


「『ニッポン無責任時代』はともかく衝撃的だった。・・・
しかし、『無責任』シリーズで面白いのは2作目の『ニッポン無責任野郎』まで。それ以降は植木等の陽性のキャラクターでごまかしているが、『無責任』とは名ばかりで個の快楽より公に尽くす昔ながらの主人公に変質してしまっていったのが残念でならない。」(「快楽亭ブラックのヒーロー回復のこの1本」毎日新聞2004年6月13日「日曜くらぶ」から)


ちなみに、小林信彦著「日本の喜劇人」は文庫で今も買えますが、
植木等「夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記」(朝日文庫)は古本でしか読めないのでした。
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