和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

石川忠雄。

2008-06-13 | Weblog
谷沢永一著「モノの道理」(講談社インターナショナル)に、名前で登場しており、論旨にそった具体例で、印象鮮やかでした。その引用。


「たとえば、慶応義塾の塾長を16年間もつとめて先ごろ無くなった石川忠雄という人の場合は、どうも行動を抑制していたとは思えません。彼は『中国共産党史研究』『現代中国の諸問題』という本を書いて平成12年(2000年)に文化勲章をもらっておりますが、実を言えば、これがどうしようもない本なのです。私は上に挙げた二冊の本を両方とも読みましたが、最初から最後まで中国共産党の言いなり、北京政府の受け売り、です。チャイナの【大本営発表】を鵜呑みにして鸚鵡返しするだけ。ただひたすら北京のご機嫌をとりまくっている本なのです。
①チャイナのチベット侵略については『統一の完成』と書いている。チャイニーズの多民族侵略を祝賀しているのです。
②百家争鳴運動と呼ばれた自国民粛清についても、『成功』と讃えるばかりで、批判しない。
③『民主集中制』という独裁政治を恭しく肯定する。
④そうかと思えば、農業集団化は『順調に進行した』と断言して、その間の犠牲者にはいっさい触れない。
⑤悪名高き文化大革命についても、社会主義建設に『必要だった』と是認する・・・。
チャイナ讃美の阿ホ陀羅経は枚挙に遑ありません。しかも、その論拠というのが、中国共産党の公開した資料だけ。それでいながら、己の主張は『一応妥当な見解とみて差支えないように思われるのである』と臆面もなく言い募る。終始一貫現代チャイナに阿諛追従した、まことにもってデタラメな本です。私に言わせれば無意味な紙くずにすぎない。どうしてこんな杜撰な本を書いた男が文化勲章をもらうのか。私にはそれが疑問でした。・・・」(p169~170)

私はこれで、石川忠雄氏の本を読まないわけですが。
これに、反対意見がございましたら、コメントどうぞ。
参考意見とさせていただきたいのでした。


つけ加えます。
谷沢永一・渡部昇一著「上に立つ者の心得・『貞観政要』に学ぶ」(到知出版社)の第五章に「・・どんな君主であっても、諫言を呈する家臣に従えば聖なる君主になれるものです」という箇所があります(p154)。
そこを引用。

【谷沢】本当のリーダーは専門家の言うことをよく聴きますよ。ただし、その専門家というのにもピンからキリがあるから、本物の専門家であるかどうかを見定めなければならない。その判断の基準は、実績があるかどうかでしょう。たとえばエコノミストならば、予言をして当たったことがあるかどうかを見ればいいわけです。
【渡部】そのためには現場をよく知っていなければならないわけですね。いくら頭が良くても、現場体験のない人たちだけで考えていると誤ることになりかねません。
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モノの道理。

2008-06-13 | Weblog
谷沢永一著「モノの道理」(講談社インターナショナル)にこんな箇所。

「私は若いときから論文や評論、エッセイを書きつづけてきましたが。文章というものも孜々営々(ししえいえい)と書きつづけなければモノにはなりません。五十歳になってから急に本を書こうと思い立ったとしても、そんなことはまったくの無理。書けやしません。・・・・ごく簡単な例を挙げておけば――モノを書いたことのない人は日本語の正書法とか語彙の統一といった強迫観念にとらわれてしまうから、『その後彼は出て行った』というような文章を書いてしまいます。しかしこれでは『後』と『彼』が密着して読みにくい。だったら『そのあと彼は出て行った』と書けばいいのです。何でもない文章ですが、こうした揺れ動く表記法を体得するにも持続・継続が必要なのです。」(p119~200)
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昭憲皇太后。

2008-06-11 | 安房
最初は、山村修著「狐が選んだ入門書」の紹介本を読もうと思ったのです。
それが、いつのまにか、窪田空穂全集を買うことにして。
いまは、ドナルド・キーン著「明治天皇」を古本で買ったのでした。
つまり、どれもこれも気分屋で、食い散らかしタイプの積読でして。
こりゃ、簡単には直らない癖でしょうから、と思うことにして。
肝心の、読書興味の分かれ目には、とにかくも目印を立てて、
気分の、交差点での踏み外すポイントに矢印をつけておこうと。
あとで、どこで逸れていったか、もどりなおすよすがにと。
さてと、ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)です。
そこに、こんな箇所がありました。

「美子皇后は後に昭憲皇太后の名で知られることになります。明治天皇との間に子供は出来ませんでしたが、
国民から広く慕われる存在となったのです。次の歌は、華族女学校に皇后が賜った歌二首のうち、一首の冒頭です。

    金剛石も みがかずば
    珠のひかりは そはざらむ
    人もまなびて のちにこそ
    まことの徳は あらはるれ

歌二首には後に旋律がつけられて、華族女学校の校歌となりました。
皇后の歌集はごくわずかしかなく、もちろん全集のようなものもない。
彼女の詠んだ歌はとても優れているので本になってもいい、
いやむしろ本にすべきだと思います。
彼女には文学的な才能もあった。
どうして今まで無視されているのか、私にはわかりません。」(p46~47)


ネット上の検索すると、昭和憲皇太后の歌集が、簡単に読めるのでした。
そこに「明治9年2月東京女子師範学校に下したまへる」という歌があります。


   みがかずば玉も鏡も何かせむ学の道もかくこそありけれ



ところで、今年、私の地元の高校の合併がありました。一高と二高とが合併。二高は南高と呼ばれており、こちらは女子高でした。合併にまにあわせるようにして「創立百年史」が出てまして、うれしいことに近所の白井さんから、その御本をいただいちゃいました。ありがたい。そこに高等女学校の校歌制定が大正五年なのだと書いてあります。「作詞は万里小路通房(までのこうじみちふさ)で・・作詞者の万里小路は嘉永元年(1848)五月に京都の公家に生まれ明治維新の戊辰戦争に従軍した。宮内省侍従や貴族院議員を歴任した後、明治31年(1898)三月北条町に転住した。」(p14)とあります。その安房高等女学校校歌は、こうです。


    朝な夕なに打ち向ふ 鏡が浦に照し見て
    誠の徳を磨けよと  この学び舎はたてられぬ

    西にそびゆる富士の嶺ぞ 高き心の姿なる
    沖の島根の老松ぞ    清き操のしるしなる

    栄ゆる御代の教へ草 朝な夕なに手につみて
    誠の道を進みつつ  たのしく学べ少女子よ



「安房高等女学校校歌の制定経過については、『校友会雑誌』第二号に『先づ東京、大阪、京都、仙台、福島等の主なる高等女学校より校歌を乞ひ受け之を参考して歌詞の草案を作り、要旨の大体を具して其作歌を万里小路伯爵に懇願したるに快諾を与へられ、大正5年5月に至り作歌して附与せられぬ。是に於て直ちに作曲を東京音楽学校教官弘田竜太郎先生に乞ひしに、7月上旬に至り曲譜を附して返送せられたり』と記載されている。」(p16)


もう一度、昭憲皇太后の唱歌「金剛石」を、あらてめて引用しておきましょう。


   金剛石も みがかずば
   珠のひかりは そはざらむ
   人もまなびて のちにこそ
   まことの徳は あらはるれ
   時計のはりの たえまなく  
   めぐるがごとく 時のまの
   日かげをしみて はげみなば
   いかなるわざか ならざらむ


ちなみに、昭憲皇太后は、御唱歌をもう一篇つくられております。
「唱歌二篇は明治23年華族女学校へ賜へるなり」とあります。
そのもう一方の唱歌「水は器」も、ここに引用しておきます。


   水はうつはに  したがひて
   そのさまさまに なりぬなり
   人はまじはる  友により
   よきにあしきに うつるなり
   おのれにまさる よき友を
   えらびもとめて もろともに   
   こころの駒に  むちうちて
   学びの道に   すすめかし
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石井桃子さんが。

2008-06-09 | Weblog
書迷博客ブログで内藤濯著「未知の人への返書」を取り上げていたことがあって、気になっておりました。それでもって、古本で単行本のその本を買ってみました。
そこに関東大震災の際に、フランスにいた内藤濯氏のことが書かれておりまして、こんな箇所があります。

「故国の出来事が伝わりだしてからまだ三日にしかならないのに、もう十日も経ったような気がする。支那からの電報で、日本の本州がまるつぶれになって、その避難民が、続々上海へやってきているというのがある。つくり事だということが、すぐばれるのにと思う。」
戦後、チャイナは日本に支那という言葉を使うなといい。敗戦のドサクサで日本がそれを受けいれておりました。それをタテにしてあとでアアデモナイと、とどのつまりは、石井桃子訳「シナの五にんきょうだい」という絵本が絶版になってしまっているのでした。まことに残念。
 
ここから、石井桃子さんの話。
内藤濯氏のその本の最初は「『星の王子さま』とのめぐり合い」という題の文章からはじまっております。その書き出し箇所。

「もはや二十年近くも昔のことである。児童文学に堪能な石井桃子さんが、美しいフランス本を私のところにお持ちになった。英訳本で読んでみたのだが、ふつうの童話あつかいするわけにいかないほど秀れた作だと思うので、いま私の関係している書店で本にしてみたい、で、もしお気が向くようだったら、日本語訳を試みて下さらないか、とおっしゃる。おっしゃり方に、なみ大抵でない熱がこもっているのにひかされて、石井さんがお帰りになるとさっそく、ページを繰りはじめた。そして何よりもまず、短い序文の結びとなっている一句『おとなはだれもはじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいる大人はいくらもない』というのにぶつかって、私はまったく身のすくむ思いがした。おとなの悪さを、やんわりと言っている志の高さに、頭があがらなかったからである。・・・・・正直のところ、私は石井桃子さんをとおして、はじめてこの作の存在を知った。そして・・まったく矢も楯もたまらず、昼となく夜となく、日本語化することを楽しんだ。というよりは、むしろ夢中になった。・・・フランス文学に首をつっ込んでもう六十なん年にもなるが、童心のいたいけさを取り扱ったこの小さな作のために、こうものぼせ返ることになろうとは、まったく思いもよらぬことだった。・・」

ちなみに内藤濯著「星の王子とわたし」(文春文庫)の「はしがき」は、この文を少し書きなおして、書いているようです。はじまりは「もはや二十三年ほどの昔のことである。」となっておりました。

内藤初穂著「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房)に、この石井桃子さんとの経緯について、もう少し詳しく調べてあるのでした。

「本書の英語版を読んでその無類の内容に注目したのは、当時『岩波少年文庫』の編集顧問をされていた児童文学者の石井桃子さんである。父の没後二年に『ロングセラーの秘密』を連載した『山梨日日新聞』の取材に応えて、父の仕事になるまでの経緯をこう述べておられる。『あのときのことはよく覚えております。どんな本かしら、と思って読んでみましたら、最初の一行目からとても面白いんです。それで若い人に、読んでごらんなさい、ってすすめてみたんです。しばらくして、どう?と聞いたら、まだ面白いとこまで行ってない、っていうんですね。それならこの本は万人向けではないのかもしれないなあ、と思いましたけど、作者の物の考え方は、わかる人にはわかるんじゃないかなあ、文学というものはこういう風に個性的でなければいけないんだと思って、フランスから原本を取り寄せ、内藤さんに相談にうかがったのです』正確にいえば、石井さんは父に相談する前に、山内義雄先生に打診されている。マルタン・デュ・ガールの大作『チボー家の人々』を、14年がかりでみごとな訳本にされたばかりのところだったが、手渡された原本にざっと目を通すなり、首を大きくふられた。『この本の雰囲気は私の体質ではありません。この美しいリズムを訳文に活かせるのは、内藤先生のほかにはありません。なんといっても、この本は内藤先生のものです』かねがね父の持ち味を尊んでおられた山内先生は、惜しげもなく晩年の父に晴れの舞台を提供された。・・」(p13)


石井桃子さんが亡くなって週刊新潮の「墓碑銘」で、追悼文が載りました。
その文の最後には、こういう引用でしめくくられておりました。


「平成13年、石井さんはこんな言葉を書いていた。
【 子どもたちよ
  子ども時代を
  しっかりと
  たのしんでください。
  おとなになってから
  老人になってから
  あなたを支えてくれるのは
  子ども時代の『あなた』です  】      」

        (「週刊新潮」2008年4月17日号)
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再読WiLL。

2008-06-08 | Weblog
月刊雑誌「WiLL」について語りたいのでした。
図書館へは行かないのでわからないのですが、
普通に、月刊雑誌等は置かれているのでしょうか。
そして、そのバックナンバーなどは保管されているのでしょうか。
そこで、月刊雑誌があるなら、そこにWiLLはあるかどうか。
なんて、気になるのは、今年になってWILLが気になるのです。

WiLLの、私が再読したい文一覧。
2007年12月号 
皆本義博「渡嘉敷島、中隊長が語る『集団自決』の現場」

2008年1月号特集「『集団自決』を悪用する者」
曽野綾子「強制された死か、個人の尊厳か」

2月号「新春特別対談」
渡部昇一・日垣隆「史上最強の知的生活の方法」

6月号「光市母子殺人に死刑判決」
「本村洋さん独占手記」

どうしても雑誌というのは、ぞんざいに扱ってしまって、
いざ読み返そうとしても、肝心の雑誌が見つからなかったりします。
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どんな小説より。

2008-06-06 | Weblog
産経新聞の文化欄に連載されているコラム『断』は楽しみに読んでおります。
署名コラムでかわり番に、書き継がれております。2008年6月1日は文芸評論家・富岡幸一郎氏。はじまりはこうでした。「4月に本欄でチベット人の蜂起について書いた。中国の半世紀にもわたる『文化的虐殺』であり、日本の宗教界の反応の鈍さにも触れた」。そしておもむろに「気になったのは、いわゆる文芸誌がほとんど無反応であることだ。・・・・文芸誌としては『新潮』『文学界』『群像』『すばる』という大手出版社の伝統ある月刊誌が、今も健在である。・・・論壇誌や総合誌との棲み分けはあるにせよ、今回のチベット問題のように文化・宗教・言葉に深く関わった出来事にもっと鋭敏に反応してもよいのではないのか。」
さらに、最後はこうしめくくっておりました。
「同じく3月に大阪地裁で判決のあった大江健三郎の『沖縄ノート』の記述をめぐる問題なども、論壇誌は取り上げたが、文芸誌は頬かぶりしている。この裁判は過度に『政治』的に報道されているが、同時に文学者の『言葉』の問題でもある。『政治と文学』の季節が過ぎ去ったにせよ、文芸誌こそが果敢に『参加』すべきなのではないか。」


たまたまドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)をひらいたら、はじめにこうありました。

「『明治天皇のことを書こうと決心した』と人に話すと、多くの人たちは大変驚きました。専門は日本文学なのに、どうして歴史を書くのか、まったく違う世界のものじゃないのか。そう思われたのです。ですが、私自身はもともと歴史と文学はそれほど違うものだとは考えていません。すぐれた歴史の本は、どんな小説よりも面白い。」
「ためしに私は、当時の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』を開いてみました。明治天皇のために割かれていたのは、驚くべきことにわずか八行。三船敏郎の三十八行、三島由紀夫の七十九行に比べて、これは著しくバランスを欠いていると言うほかありません。そこで、私は思い切って明治天皇のことを書くことにしたのです。」



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読売歌壇。

2008-06-05 | Weblog
今年に入って(四月ごろからか)読売新聞の読売歌壇・俳壇のページが刷新されております。
題字デザインイラストが福田美蘭さん。季節ごとに絵をかえるのでしょうか。
6月になったら、題字の読売歌壇・読売俳壇の文字の枠にある絵がかわっております。それに選者の名前の上にも絵があり、まるで幼稚園の名札の上に絵がつけられてでもいるような感じです。それぞれ朝顔だったり、スイカの一切れだったり、風鈴・サヤエンドウの豆・生ビール・照る照る坊主・ヨット・ムシメガネとさまざま(くろぬきで工夫を凝らしてあったりするので、思わず楽しめます)。
さてっと、読売新聞2008年5月16日に清水房雄氏が「歌壇選者を終えて」という文を載せておりました。そこで土屋文明氏の「読売歌壇秀作選」のあとがきを適宜引用しておりました。そして最後のほうにこうあります。
「文明先生の『生活即短歌』説は、様々軽薄な誤解までを産んで有名だが、それは、人を感動せしめるような真剣な生活態度を作歌の根底とする事、と私は信じて居る。或る時先生が『君達は歌になるような生活をして居るのかね』と言ったのは、右所説の裏側からの証明と言っていい。先生のその問いに答える如き作品群が、私の本欄選歌を支えて居ったのである。・・」

清水房雄氏の略歴も書かれておりました
「1915年、千葉県生まれ。38年、「アララギ」に入会して土屋文明に師事。90年から読売歌壇選者を務めた。・・・」

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マスオさん。

2008-06-04 | Weblog
渡部昇一著「父の哲学」(幻冬舎)を読んでいたせいか、
男性像を思うのでした。
最近、川本三郎著「向田邦子と昭和の東京」(新潮新書)
と長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社)とを読みました。

そこで、気になったことを書きます。
まずは、向田邦子からはじめます。
「向田邦子ふたたび」で、山口瞳氏が「向田邦子は戦友だった」という文を書いております。直木賞選考委員の新参者山口瞳氏は、そこで向田邦子を推薦する側におりました。そして、向田さんが直木賞を受賞する様子をリアルに書いているのでした。私が興味をもったのはそれとは別で、この箇所なのです。

「向田邦子は何でも知っていた。特に昭和初期から十年代にかけての東京の下町、山の手の家庭内での独特の言い廻しについてよく記憶していることは驚くべきものがあった。それが彼女のtvドラマ、小説、随筆における武器になり魅力になっていた。戦中派の男性が、たちまちにしてイカレテしまうのはそのためだった。
しかし、向田邦子にはわかっていないこともたくさんあった。彼女は、家庭内の機微、夫婦生活のそれについて、わかっているようで、まるでわかっていない。特に夫婦生活については、皆目駄目だった。たとえば、『夏服、冬服の始末も自分で出来ない鈍感な夫』というような描写があった。家庭内では、通常、夏服、冬服の出し入れは妻の役目である。『宅次は勤めが終ると真直ぐうちへ帰り、縁側に坐って一服やりながら庭を眺めるのが毎日のきまりになっていた』(かわうそ)というのもおかしい。会社から家まで一時間半。田舎の町役場に勤めているならいざしらず、ふつう、小心者の文書課長である夫は暗くなってから帰宅するはずである。『あら、そう・・・』どのときでも彼女は笑って聞き流していた。向田邦子は、都心部の高層マンションに、ずっと長く一人で暮していた。未婚である。夫婦のことに暗いのは無理もない。私は、向田邦子にいろいろ教えてもらいたいことがあった。私もまた、向田邦子に、たくさんのことを教えてあげられると思った。」


川本三郎のその新書では、向田邦子のほめ言葉を並べていて、この山口瞳氏の視点がみごとに欠如しておりました。
つぎに行きます。長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」に
町子さんと父親についてのエピソードが出てきます。

「父は町子姉が女学校二年の春、亡くなったのだが、父への思い入れもまた、深かった。『とてもハンサムなの。中折れ帽をかぶって金縁の眼鏡をかけて、鼻の下にヒゲをはやして、素敵な紳士だったわ』と度々聞かされた。夕方になると、その素敵な父親を眺めるために、二階に上がって窓際に頬杖をついて座り込み、父の姿が道の向うに現れるのを毎日待っていたのだそうだ。」(p10)

そして、そのあとにこう書かれております。

「町子姉は家の中だけが彼女にとって本当に居心地のいい世界だったから、喜怒哀楽はすべて家庭の中で発散していた。・・・私が、『少し我儘が過ぎるんじゃない』と意見すると、『我儘というのは、我のままということでしょう。それはつまり裏表のナイ、ウソのない人ということよ。わかったか、ボケナス!』とうそぶいて改める気色もなかった。三つ子の魂百までと言うが、かつての悪童は閉鎖的な家庭の中で、そのまま大人になってしまったようだ。」
「結婚についても、いくつか縁談があり、中には婚約までいきながら土壇場で断った例もあった。『やっぱり私は結婚には向かない。ご亭主や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない。お嫁さんがほしいのは私のほうだわ』・・・」


うんうん。長谷川町子さんの「マスオさん」とか、
向田邦子さんがつくった夫像(読んだことないのです。スミマセン)とか、
そんな夫像に、簡単に刷り込まれてしまう危険性を思うのでした。
それよりも、あたらしい「父の哲学」が映像として求められる時代に
これからは、なってゆくのでしょう。
もうひとつ引用しておきます。
「サザエさんの〈昭和〉」(柏書房)の最初は、草森紳一氏の「不幸なサザエさん」という文からはじまっておりました。

そこで独身を通した草森氏はこう書いておりました。

「『サザエさん』のもつ活力と笑いというものは敗戦の暗さの中に笑の灯をといった精神的なものではなく、時代が変換すれば、すぐ対応していくことのできる女性特有の鈍さ強さ現金さに負うところが多い。戦後、男女平等の思想が、アメリカ側によって強力にもちこまれた。女性はこういった社会変革を、なんの抵抗もなく、抵抗していては生きていられないとして、ムシャクシャと食べつくしてしまう。日本にとっては、急激な変革のはずだ。その『男女平等の思想』をすぐにあわてて食べても、下痢するのに決っており、滑稽だからゆっくり食べろといっても、女性はふりむきもしないで食べてしまうのである。過去において抑えられていた女性よりも、むしろ若い女性が順応していった。おふくろのお舟は、古風な女性の節度を守っていて、次代の変動によっても、かわることはないのだが、サザエさんは、まったく『時代の子』ぶりを発揮する。」(p8)

まとまりませんが、まとまってから書こうとしたら、こういうブログはいつまでも書けそうもありません(笑)ので、とにかくも書き込んでおきます。


そういえば、「サザエさん旅あるき」(姉妹社)に
外国旅行をしている町子さんたちが「車はインバネスにむかいます」という次のコマに「幼いころ、紳士はインバネスをよく着ました。子供心に『父ちゃんは上品だなア』と、みとれたものです」とあり、玄関で町子さんの父親がインバネスを羽織り、お母さんが背後から着せ掛けているようなしぐさをしているのを、膝小僧をかかえながら、小さな町子さんが眺めているカットが描かれておりました(p104)。
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