ドナルド・キーン氏には「日本文学の歴史」というシリーズがあります。
ありますけれども、私は読んでおりません(笑)。
私が読んだのは、「渡辺崋山」とか、あとは他のエッセイぐらいです。
さて、キーン氏のコロンビア大学の先生に、角田柳作(りゅうさく)先生がおりました。
「その後のコロンビア大学でも、日本語で『センセイ』と発音すれば角田先生のことにきまっていた。」(司馬遼太郎著「街道をゆく39・ニューヨーク散歩」)
その角田先生は、明治10(1877)年生まれ。群馬県出身。早稲田大学の前身の東京専門学校に学んだ。司馬遼太郎によるとこうあります「日本人にして【日本学の先覚】だったことを思うと、よほどの巨人のようにおもえるのだが、先生は講義に没頭しすぎ、著作があまりなかった。だから、日本社会では無名にちかい。私などは、キーンさんの諸著作を通してしか、この無名の巨人にふれる機会がない。」
そして「コロンビア大学で日本思想と日本歴史を教え、『まれにみる名講義』(キーン著「日本との出合い」)だったそうである。」
その角田柳作先生への興味は、ここまででしたが、私が次に興味をもったのは同じ明治10年生れの窪田空穂でした。それでもって、早合点で「窪田空穂全集」を購入して、いつものように寝かせてあったというわけです。
その月報では、明治10年生れの窪田空穂が触れていた空気をすくい取っておられます。
う~ん。たとえば、窪田空穂全集月報27での追悼座談会で大岡信氏はこう話しておりました。
「外国文学に対しても、身構えるといったことがなくて、悠然たる態度で対していられたと思います。詩の話もよくされましたが、あるとき、『おいおい、現代詩を書いている人でも、けっこうな年の人も多いんだろう』と言われるんです。『その中のひとりで、なかなか有名な人なんだが、文章を見たら散文がどうもだめだな』って言われました。散文の書けない詩人はだめだということでした。また別のとき、『君の書く詩を読むと、どうも言葉が多すぎる』って言われて、参ったことがありました。そういう批評を雑談の合間にちょこっと言われる。思いあたる節があるから、こちらはその短い批評がこたえる。」
さて、全集の月報8には、塩田良平氏が「生き証人としての窪田さん」と題して書いておられました。そこに
「私にとつて窪田空穂がかけがへのない存在に思へることは、窪田さんが明治文壇の生き証人であられることであらう。故佐佐木信綱も高齢まで記憶力が確かで、二十年前に聞いたこともその後十年たつてきいたことも、符節を合せる如く一致して狂ふことがなかつた。窪田さんも同様であつて、由来古老の言といふものは時によると曖昧になりがちの処もあるが、窪田さんの追憶談にはそれがない。新詩社時代、独歩社時代などの思出などは、私共にとつて非常に貴重なもので、資料的価値からいつても良質な資料、即ちすぐ使用できる信憑性を持つてゐるのである。・・・」
では全集月報の空穂談話から引用していきます。
月報2から
記者「先生は新体詩をだいぶお作りになっていますが、そのころのお話を。『抒情詩』という、独歩、花袋たちの合同詩集がありましたね。」
窪田「ああ、そうだ。一番古いのは『新体詩抄』、日本の短歌は短すぎてつまらない、もう少し長いものをというんで、外山正一、矢田部良吉など、大学の先生たちが集まって作った。これは素人だ。・・そこへ、きみのいまいった『抒情詩』、これが「国民之友」から出てきた。・・徳富蘇峰さんが意見が中心になってもの。・・だれが大将っていうことがなく、読んでみて一番うまかったのは柳田国男さん。不思議なものだ、島崎藤村の詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が柳田さんの詩にじつに酷似している。あの人はそういう人だ。とり入れることがじつに上手だ。それが詩の方面の話。・・・・
当時は、外国文学がじつにさかんで、文学といえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういう時代。
・ ・・・・・・
ついでのことだが、歌というものは、ヘンなもので、新しいか古いか、わからないところがある。・・・・だから、そういうところへいくと、国語の表現などというものの根底は深いもので、好き嫌いぐらいじゃちょっと動かせないと思う。そこに問題があるような気がする。・・・現在ほど歌(短歌のこと)が軽くみられる時代は、知っている範囲ではなかった。二十代からずっと見てきているわけだが、そのころは、歌というものは、もっと重く扱われていた。ところが、歌にはいまいった年代を越えるところがある。古い歌を読んでみておもしろい。万葉集の歌を見て、いまおもしろさを感じる。それとおなじことで、いまのいい歌は将来になっても消えない。いまはやっている小説よりも、おそらくもっと生命は長い。」(昭和39年8月)
この月報の中には西脇順三郎氏も書いておりました。
西脇順三郎というと、篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店)に、
西脇氏の詩「えてるにたす」が引用してありました。そこから引用
『 過去は現在を越えて
未来につき出る
「どうしましよう」
最後の「どうしましよう」なんて所は、思わず噴き出すというくらいの余裕がなければ、この詩の面白さは解らない。これは西脇流諧謔、ウィットというやつです。・・・
「過去は現在を越えて/未来につき出る」という所に、生命の生命たる所以があるというんです。つまりエテルニタス、永遠なんですね。そこで『どうしましよう』となるわけなんです。』
ついでに、「三田の詩人たち」から、もう一箇所引用。
「さて、大正文学というのは、小説家だけでなく、詩人、歌人、こういった人達も自由自在に同じ一つの文学的世界の中を出入りしていました。今の文壇、詩壇の在り方と随分違っていたんです。今はこの間の交流も殆ど無ければ、感受性の共通性といったものも認めにくい状態です。つまり小説と詩の乖離。これはきのう今日始まった事ではなく、昭和十年前後からすでに始まっていました。・・・」
ちなみに、この篠田氏の講義は、1984年に全九回にわたっておこなわれ、1987年(昭和62)に単行本となっておりました。そのあと2006年になって講談社文芸文庫に「三田の詩人たち」という題で入っております。
ありますけれども、私は読んでおりません(笑)。
私が読んだのは、「渡辺崋山」とか、あとは他のエッセイぐらいです。
さて、キーン氏のコロンビア大学の先生に、角田柳作(りゅうさく)先生がおりました。
「その後のコロンビア大学でも、日本語で『センセイ』と発音すれば角田先生のことにきまっていた。」(司馬遼太郎著「街道をゆく39・ニューヨーク散歩」)
その角田先生は、明治10(1877)年生まれ。群馬県出身。早稲田大学の前身の東京専門学校に学んだ。司馬遼太郎によるとこうあります「日本人にして【日本学の先覚】だったことを思うと、よほどの巨人のようにおもえるのだが、先生は講義に没頭しすぎ、著作があまりなかった。だから、日本社会では無名にちかい。私などは、キーンさんの諸著作を通してしか、この無名の巨人にふれる機会がない。」
そして「コロンビア大学で日本思想と日本歴史を教え、『まれにみる名講義』(キーン著「日本との出合い」)だったそうである。」
その角田柳作先生への興味は、ここまででしたが、私が次に興味をもったのは同じ明治10年生れの窪田空穂でした。それでもって、早合点で「窪田空穂全集」を購入して、いつものように寝かせてあったというわけです。
その月報では、明治10年生れの窪田空穂が触れていた空気をすくい取っておられます。
う~ん。たとえば、窪田空穂全集月報27での追悼座談会で大岡信氏はこう話しておりました。
「外国文学に対しても、身構えるといったことがなくて、悠然たる態度で対していられたと思います。詩の話もよくされましたが、あるとき、『おいおい、現代詩を書いている人でも、けっこうな年の人も多いんだろう』と言われるんです。『その中のひとりで、なかなか有名な人なんだが、文章を見たら散文がどうもだめだな』って言われました。散文の書けない詩人はだめだということでした。また別のとき、『君の書く詩を読むと、どうも言葉が多すぎる』って言われて、参ったことがありました。そういう批評を雑談の合間にちょこっと言われる。思いあたる節があるから、こちらはその短い批評がこたえる。」
さて、全集の月報8には、塩田良平氏が「生き証人としての窪田さん」と題して書いておられました。そこに
「私にとつて窪田空穂がかけがへのない存在に思へることは、窪田さんが明治文壇の生き証人であられることであらう。故佐佐木信綱も高齢まで記憶力が確かで、二十年前に聞いたこともその後十年たつてきいたことも、符節を合せる如く一致して狂ふことがなかつた。窪田さんも同様であつて、由来古老の言といふものは時によると曖昧になりがちの処もあるが、窪田さんの追憶談にはそれがない。新詩社時代、独歩社時代などの思出などは、私共にとつて非常に貴重なもので、資料的価値からいつても良質な資料、即ちすぐ使用できる信憑性を持つてゐるのである。・・・」
では全集月報の空穂談話から引用していきます。
月報2から
記者「先生は新体詩をだいぶお作りになっていますが、そのころのお話を。『抒情詩』という、独歩、花袋たちの合同詩集がありましたね。」
窪田「ああ、そうだ。一番古いのは『新体詩抄』、日本の短歌は短すぎてつまらない、もう少し長いものをというんで、外山正一、矢田部良吉など、大学の先生たちが集まって作った。これは素人だ。・・そこへ、きみのいまいった『抒情詩』、これが「国民之友」から出てきた。・・徳富蘇峰さんが意見が中心になってもの。・・だれが大将っていうことがなく、読んでみて一番うまかったのは柳田国男さん。不思議なものだ、島崎藤村の詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が柳田さんの詩にじつに酷似している。あの人はそういう人だ。とり入れることがじつに上手だ。それが詩の方面の話。・・・・
当時は、外国文学がじつにさかんで、文学といえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういう時代。
・ ・・・・・・
ついでのことだが、歌というものは、ヘンなもので、新しいか古いか、わからないところがある。・・・・だから、そういうところへいくと、国語の表現などというものの根底は深いもので、好き嫌いぐらいじゃちょっと動かせないと思う。そこに問題があるような気がする。・・・現在ほど歌(短歌のこと)が軽くみられる時代は、知っている範囲ではなかった。二十代からずっと見てきているわけだが、そのころは、歌というものは、もっと重く扱われていた。ところが、歌にはいまいった年代を越えるところがある。古い歌を読んでみておもしろい。万葉集の歌を見て、いまおもしろさを感じる。それとおなじことで、いまのいい歌は将来になっても消えない。いまはやっている小説よりも、おそらくもっと生命は長い。」(昭和39年8月)
この月報の中には西脇順三郎氏も書いておりました。
西脇順三郎というと、篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店)に、
西脇氏の詩「えてるにたす」が引用してありました。そこから引用
『 過去は現在を越えて
未来につき出る
「どうしましよう」
最後の「どうしましよう」なんて所は、思わず噴き出すというくらいの余裕がなければ、この詩の面白さは解らない。これは西脇流諧謔、ウィットというやつです。・・・
「過去は現在を越えて/未来につき出る」という所に、生命の生命たる所以があるというんです。つまりエテルニタス、永遠なんですね。そこで『どうしましよう』となるわけなんです。』
ついでに、「三田の詩人たち」から、もう一箇所引用。
「さて、大正文学というのは、小説家だけでなく、詩人、歌人、こういった人達も自由自在に同じ一つの文学的世界の中を出入りしていました。今の文壇、詩壇の在り方と随分違っていたんです。今はこの間の交流も殆ど無ければ、感受性の共通性といったものも認めにくい状態です。つまり小説と詩の乖離。これはきのう今日始まった事ではなく、昭和十年前後からすでに始まっていました。・・・」
ちなみに、この篠田氏の講義は、1984年に全九回にわたっておこなわれ、1987年(昭和62)に単行本となっておりました。そのあと2006年になって講談社文芸文庫に「三田の詩人たち」という題で入っております。