和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

どうしましょう。

2010-08-13 | 他生の縁
ドナルド・キーン氏には「日本文学の歴史」というシリーズがあります。
ありますけれども、私は読んでおりません(笑)。
私が読んだのは、「渡辺崋山」とか、あとは他のエッセイぐらいです。
さて、キーン氏のコロンビア大学の先生に、角田柳作(りゅうさく)先生がおりました。
「その後のコロンビア大学でも、日本語で『センセイ』と発音すれば角田先生のことにきまっていた。」(司馬遼太郎著「街道をゆく39・ニューヨーク散歩」)
その角田先生は、明治10(1877)年生まれ。群馬県出身。早稲田大学の前身の東京専門学校に学んだ。司馬遼太郎によるとこうあります「日本人にして【日本学の先覚】だったことを思うと、よほどの巨人のようにおもえるのだが、先生は講義に没頭しすぎ、著作があまりなかった。だから、日本社会では無名にちかい。私などは、キーンさんの諸著作を通してしか、この無名の巨人にふれる機会がない。」
そして「コロンビア大学で日本思想と日本歴史を教え、『まれにみる名講義』(キーン著「日本との出合い」)だったそうである。」

その角田柳作先生への興味は、ここまででしたが、私が次に興味をもったのは同じ明治10年生れの窪田空穂でした。それでもって、早合点で「窪田空穂全集」を購入して、いつものように寝かせてあったというわけです。
その月報では、明治10年生れの窪田空穂が触れていた空気をすくい取っておられます。
う~ん。たとえば、窪田空穂全集月報27での追悼座談会で大岡信氏はこう話しておりました。
「外国文学に対しても、身構えるといったことがなくて、悠然たる態度で対していられたと思います。詩の話もよくされましたが、あるとき、『おいおい、現代詩を書いている人でも、けっこうな年の人も多いんだろう』と言われるんです。『その中のひとりで、なかなか有名な人なんだが、文章を見たら散文がどうもだめだな』って言われました。散文の書けない詩人はだめだということでした。また別のとき、『君の書く詩を読むと、どうも言葉が多すぎる』って言われて、参ったことがありました。そういう批評を雑談の合間にちょこっと言われる。思いあたる節があるから、こちらはその短い批評がこたえる。」


さて、全集の月報8には、塩田良平氏が「生き証人としての窪田さん」と題して書いておられました。そこに
「私にとつて窪田空穂がかけがへのない存在に思へることは、窪田さんが明治文壇の生き証人であられることであらう。故佐佐木信綱も高齢まで記憶力が確かで、二十年前に聞いたこともその後十年たつてきいたことも、符節を合せる如く一致して狂ふことがなかつた。窪田さんも同様であつて、由来古老の言といふものは時によると曖昧になりがちの処もあるが、窪田さんの追憶談にはそれがない。新詩社時代、独歩社時代などの思出などは、私共にとつて非常に貴重なもので、資料的価値からいつても良質な資料、即ちすぐ使用できる信憑性を持つてゐるのである。・・・」

では全集月報の空穂談話から引用していきます。
月報2から

記者「先生は新体詩をだいぶお作りになっていますが、そのころのお話を。『抒情詩』という、独歩、花袋たちの合同詩集がありましたね。」
窪田「ああ、そうだ。一番古いのは『新体詩抄』、日本の短歌は短すぎてつまらない、もう少し長いものをというんで、外山正一、矢田部良吉など、大学の先生たちが集まって作った。これは素人だ。・・そこへ、きみのいまいった『抒情詩』、これが「国民之友」から出てきた。・・徳富蘇峰さんが意見が中心になってもの。・・だれが大将っていうことがなく、読んでみて一番うまかったのは柳田国男さん。不思議なものだ、島崎藤村の詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が柳田さんの詩にじつに酷似している。あの人はそういう人だ。とり入れることがじつに上手だ。それが詩の方面の話。・・・・
当時は、外国文学がじつにさかんで、文学といえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういう時代。
・ ・・・・・・
ついでのことだが、歌というものは、ヘンなもので、新しいか古いか、わからないところがある。・・・・だから、そういうところへいくと、国語の表現などというものの根底は深いもので、好き嫌いぐらいじゃちょっと動かせないと思う。そこに問題があるような気がする。・・・現在ほど歌(短歌のこと)が軽くみられる時代は、知っている範囲ではなかった。二十代からずっと見てきているわけだが、そのころは、歌というものは、もっと重く扱われていた。ところが、歌にはいまいった年代を越えるところがある。古い歌を読んでみておもしろい。万葉集の歌を見て、いまおもしろさを感じる。それとおなじことで、いまのいい歌は将来になっても消えない。いまはやっている小説よりも、おそらくもっと生命は長い。」(昭和39年8月)

この月報の中には西脇順三郎氏も書いておりました。
西脇順三郎というと、篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店)に、
西脇氏の詩「えてるにたす」が引用してありました。そこから引用

『   過去は現在を越えて
    未来につき出る
    「どうしましよう」

最後の「どうしましよう」なんて所は、思わず噴き出すというくらいの余裕がなければ、この詩の面白さは解らない。これは西脇流諧謔、ウィットというやつです。・・・
「過去は現在を越えて/未来につき出る」という所に、生命の生命たる所以があるというんです。つまりエテルニタス、永遠なんですね。そこで『どうしましよう』となるわけなんです。』


ついでに、「三田の詩人たち」から、もう一箇所引用。


「さて、大正文学というのは、小説家だけでなく、詩人、歌人、こういった人達も自由自在に同じ一つの文学的世界の中を出入りしていました。今の文壇、詩壇の在り方と随分違っていたんです。今はこの間の交流も殆ど無ければ、感受性の共通性といったものも認めにくい状態です。つまり小説と詩の乖離。これはきのう今日始まった事ではなく、昭和十年前後からすでに始まっていました。・・・」

ちなみに、この篠田氏の講義は、1984年に全九回にわたっておこなわれ、1987年(昭和62)に単行本となっておりました。そのあと2006年になって講談社文芸文庫に「三田の詩人たち」という題で入っております。
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愛だよ。愛。

2010-08-12 | 他生の縁
篠田一士著「三田の詩人たち」。
その講談社文芸文庫の解説は、池内紀氏で題は「大読書人の読書術」。
その最後の方にこんな箇所がありました。

「プロフェッショナルな批評家として三十年を過ごした人だが、その反面でたえずアマチュア性を大切にした。中心になって編集した『世界批評大系』(筑摩書房)の解説を、『批評は作品への愛に始まり、作品への愛で終わる』といった意味の言葉で書き出しているが、愛なり感動を批評の根底に置くという姿勢は、誇らかなアマチュア宣言にもひとしいだろう。『三田の詩人たち』の語り手は『僕』である。人前で話したからこうなったわけではなく、篠田一士はつねに『僕』あるいは『ぼく』で書いた。『私』あるいは『わたし』の中性的な主語のほうがふさわしいような場合でも、やはり『僕』で通した。・・・つまりは、終始ゆずらなかったアマチュアリズムとひびき合う。」(p208)


ところで、プロフェッショナルな批評家でなくとも、
作品への愛を語るのを、読めるのは嬉しいものです。
と、こうして暑い8月のさなかに、思ったりします。
常盤新平著「池波正太郎を読む」(潮出版社)を読んでいるときに、そんなことを感じておりました。ということで、「池波正太郎を読む」から引用していきます。

「私は数年前まである大学で時間講師で新入生に英語を教えていたとき、夏休みには『鬼平犯科帳』を読むことをすすめた。本を読まない学生諸君に『鬼平犯科帳』でもって、読書の楽しみを知ってもらいたかった。夏休みが終って、教室にもどってきた学生の何人かから、『「鬼平」はおもしろいですねえ』といわれたときは、私もうれしかった。読書が楽しいものであることを彼等ははじめて知ったのである。
また、あるとき、『鬼平』や『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』を病気見舞に持参して、たいへんよろこばれたことがある。入院中のその友人は、食欲もなく、前途を悲観していたのだが、先生の小説に出てくる、数々の素朴な、おいしそうな食べもののシーンを読んで、早くなおって、退院したくなった、と私に語ってくれた。『鬼平』は読者に慰めと元気をあたえてくれるのである。
それは、血なまぐさい事件のあいだに、江戸の町をぶらぶらしたり、酒を飲んだり、朝飯を食べたりという平凡な日常生活が描かれているからだ。日常生活がいかに大切であるかを先生はなにげなく説かれているのだ。」(p26~27)

「『鬼平』を愛読する読者に私は親近感をおぼえる。そういう人となら、話をしても、酒を飲んでも、食事をしても、楽しいのではないかと思う。・・」(p28)


「私はたいてい疲れているときに、池波さんを読んでいる。私の躰が求めていて、鬼平や梅安や小兵衛で、私はたぶん疲れを癒しているのだろう。」(p137)


そして、「晴れた昼さがりの先生」(p182)では、
めずらしく、池波先生から「会いたい」という伝言をもらう話なのでした。
それは、常盤氏の四面楚歌を聞き及んだ先生の伝言だったようなのです。
それは、まあ、読んでのお楽しみ。
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文間の余白。

2010-08-11 | 他生の縁
暑いですね。こういうときは余白を思います。
ここでは、文間の余白ということで。思い浮かぶこと。

外山滋比古著「エディターシップ」を読めば、自然、編集者へと注意が向くのでした。さて編集といえば、菊池寛・池島信平・齋藤十一・花森安治・古田晃・扇谷正造・・・と思い浮かんでくるのですが、そうかといって、それらの方を読むつもりも湧かないなあ。などと思っていると、そういえば、山本七平・山本夏彦のどちらも出版や雑誌と関係があります。などと連想がひろがります。さて、マンガ雑誌の編集者というのが、ちょうど気になってるのでした。

 鶴見俊輔著「大切にしたいものは何?」(晶文社)に、マンガの編集者の感想が書かれておりました。そこでは、「コマ割り」ということに話がつながっております。

「マンガ専門の出版社の、もう亡くなってしまったんですが、『ガロ』という出版社の長井勝一さんという社長がいっていたんですが、素人の人が会社にマンガをもちこんでくるとね、絵がうまいかどうかでは判定しないんです。コマ割りなんだという。30年間仕事をやってきての感想なんですね。ほら、マンガのコマ割りって、楽々といってる感じ、音楽にとても似ているでしょう。長井さんは、『コマ割りの巧みさをみて、これはのびるだろう』と。そういうことで、マンガ家とずっとやってきたんですね。・・・」(p94)

これって、詩でいえば、行あけのようなものでしょうか?
そうそう、鶴見俊輔著「文章心得帖」(潮出版社)に
マンガのコマ割りに似た言葉が拾えます。

「これは文間文法の問題です。一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶかその筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。その人のもっている特色です。この文間文法の技法は、ぜひおぼえてほしい。・・・・
一つの文と文との間は、気にすればいくらでも文章を押し込めるものなのです。だからAという文章とBという文章の間に、いくつも文章を押し込めていくと、書けなくなってしまう。とまってしまって、完結できなくなる。そこで一挙に飛ばなくてはならない。」

ここを拾い上げているのが、
井上ひさし著「自家製文章読本」(新潮文庫)にある「文間の問題」でした。
ちゃんと、鶴見俊輔氏の文間に関する箇所を引用しておりまして、

「読み手は、与えられた文間の余白を、自分で埋める。読み手は意味と意味とを自分で繋ぎ、そして新しい意味をつくり、ついには意味に向って行動する主体となる。そここそがたのしい。文間の余白の深く広い、だからこそ叙事性や物語性に富んだ作品を読むたのしみは、くどいようだがここにある。
児童用に書き直された民話の再話ものがおしなべてつまらないのは、文間の余白を埋めることばかりに作業が集中しているせいではないだろうか。再話作業にたずさわる人たちの善意と親切心にはつくづく頭がさがるけれども、原(ウル)民話の文間の余白を書き手は埋めてはならぬ。その文間の余白は『無形文化財』なのだから。」(p97)
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読者の手紙。

2010-08-10 | 他生の縁
「読者からの手紙」ということで、
3冊から引用してみます。

ちょうど吉武輝子著「女人吉屋信子」(文芸春秋)を開いていたら、最初の方にこうありました。

「明治41年、信子は栃木高女に入学した。・・・
信子を元気づけてくれたのは、全国にちらばっている少女投稿家同士の友情だった。少女投稿家全盛時代の『少女世界』の読書欄には『○○高女の×子様、お振い遊ばせ』といったたぐいの文字が目だって多い。何度も賞をとるいわば少女投稿家のスターには、それぞれ投稿家の仲間の応援団がついていて、声をかぎりに『お振い遊ばせ』とはげまし合っていたのである。信子もスターのひとりだった。『栃木高女の信子様、お振い遊ばせ』。こうした文字を見つけるたびに、ともすればマサの仕打ちに、女のよさを見失いがちになる信子にも、女の友情を信ずる思いが蘇ってくる。」(~p61)

この「お振い遊ばせ」というのが、印象に残ります。
ということで、あと2冊。
常盤新平著「池波正太郎を読む」(潮出版社)に
池波正太郎氏との対談が掲載されておりました。
そのひとつは、「『秘伝の声』をめぐって」というもの。
それは、新聞連載された小説「秘伝の声」を常盤さんが読んでの対談でした。

池波「中年以上の、年配の方たちから随分とお手紙をいただきました。夕刊が配達されるのを、玄関先で足ぶみをしながら待っている、こういう気分は久しぶりだ、という手紙を地方のおばあさんからいただいたりした。ありがたいことです。」
常盤「やっぱり、そうでしたか。正直のところ、私の場合は先へ進むのが惜しいような、もったいないような気持で読み進みました。新聞の読者は、一回一回が短いので、逆に早く先を読みたいと思っていたのですね。」
池波「新聞小説を書いても、近ごろの読者は、めったに手紙をくれませんからね。あれだけ全国各地の方がたからお手紙をいただいたのは、初めてのことじゃないかな。」(p107)

なんだか、池波正太郎著「秘伝の声」を読みたくなるのでした。いつかね(笑)。


もう一冊は、水木しげる著「ねぼけ人生」。

その前に、ちょっと脇道。
そういえば、探していた本
曽野綾子著「日本財団9年半の日々」(徳間書店)が出てきました。
そこに、こんな箇所。

「97年から年に一度、日本財団が若手官僚やマスコミ関係者と共にアフリカを訪ねる『世界の貧困を学ぶ旅』の始まりでした。・・・世界には、生きられない、食べられない、動物に近いような生活をしている、という人たちがどれほどいることか。それに比べると、今の日本人はほんとうに甘いんです。貧しさを知らないと、日本は間違った方向へ行ってしまうような気がして、将来の日本を動かしていく若者たちを連れていって見せようと思ったのです。」(p177)


さて水木しげるです。その本の第3章「貧乏」に、こんな箇所がありました。
それは、水木さんが貸本時代の頃のことでした。

「・・・『妖怪伝』は、第一回はまだよかったが、第二回が極端に売れなかった。兎月書房は、『妖怪伝』を廃刊することに決めた。僕は失職である。
報われない努力というものもいろいろあるが、僕が苦労した『妖怪伝』二冊で手に入れたものは、二万円ばかりの金と失職だったのだ。世の中の仕組みに対するイカリが燃えあがったが、どうすることもできない。イカリは自分を苦しめるだけのことだった。仕事もなくモンモンとしていると、兎月書房からハガキが来た。出向いてみると、熱心な読者が長文の手紙をよこし、『妖怪伝』はなくなっても、『鬼太郎』だけは傑作だから何とか続けてくれ、と強く訴えてきたという。兎月のオヤジは、その熱意にうたれ、『妖怪伝』の後釜として『墓場鬼太郎』という怪奇もの短編集を出すことにしたと言うのだ。短編集の中心になるのは、もちろん、僕の『墓場鬼太郎』である。人間の運命というものは、本当にさまざまな回路から成り立っているらしい。この熱心な読者の手紙によって、鬼太郎はよみがえることになり、後の僕の代表作の一つともなるのである。
しかし、鬼太郎が継続できたからといって、僕の生活がよくなったというわけではなかった。『妖怪伝』そして『墓場鬼太郎』の頃は、昭和34年で、貸本界は全体的に見れば、ぼつぼつかげりが見えだした程度だったが、兎月書房は、もともと小さい貸本界の中でも小出版社だったから、既に全面的に不景気になっていた。そんな兎月でも、僕としては、他の出版社では仕事をもらえないからやるわけだが、『墓場鬼太郎』第一巻で三十頁、続いて第二巻で百頁、第三巻で百頁と描いても、兎月書房は、ビタ一文払ってくれない。原稿料は、二十万円近くたまっていた。・・・」(~p196)
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穏やかな武器。

2010-08-09 | 他生の縁
私は新聞の切り抜きは、いつもめんどうで、1ページまるごとやぶく。
こうすると、細かく鋏で切り抜くのが、もうできなくなります。
すると、その切り抜き1ページが充実してたりすることがあるです。
まあ、偶然なのですが。
たとえば2010年4月14日の産経新聞。
その切り抜きページに3人の文がありました。
1、曽野綾子氏の「透明な歳月の光」で「恐ろしき70代」。
2、「話の肖像画」は、渡部昇一氏で「虹を紡ぐ」中。インタビュー記事。
3、「正論」は佐々淳行氏で「首相は普天間に政治生命賭けよ」。

さて、気になる箇所をまず引用。
曽野綾子氏の文に

「・・・私も若い時は人並みに単純で、文化とか正義とか数字とかで、ものごとを割り切るところがあった。60代半ばから約10年間務めた日本財団でやったことは、最初の日から今をはやりの『事業仕分け』、普通の言葉で言えば合理化だった。・・・・
同時に私は『全体を観る』ことを若い職員からも教わった。組織の不可思議といいたいほどの全体的な機能、人の心の複雑さ、他者はどう見るかという客観性と他人の眼を振り払って意志を通す一種の『蛮勇』とのバランス、言葉は穏やかな武器であること、などを自覚した。
そして人は70代で、それらの体験と迷い、成功と失敗、現実と哲学が、もっとも豊かに融合し合う目利きになれる。70代はバカにするどころか、恐ろしい年代だ。・・・」

ここの箇所が気になっておりまして、そうだ、
曽野綾子著「日本財団9年半の日々」という本を読んだなあ、
とあらためて読み直そうとしたのまではよかったのですが、
みあたらない。数日段ボールをひらいても見あたらない。
こういうときは、忘れた頃に出てくることになっておりますから、
とりあえず、忘れることにして、ここには、
忘れずに、曽野さんの新聞から、書き込んでおくことにしました。

さてっと、同じ新聞のページに、佐々淳行氏の文があり、こう始まります。

「先日の党首討論で谷垣禎一自民党総裁の追及に、鳩山由紀夫総理は突然、『普天間は5月末までに命賭けで体当たりで行動します』と大見得を切った。『命を賭した』ことなど多分一度もなく、普天間問題で覚悟らしきものが見えない鳩山総理が軽々しく口にすべき言葉ではない。・・・なんとも言葉が軽すぎる。」

最後の方には、こうありました。

「昨秋、初対面のオバマ米大統領への『トラスト・ミー(私を信じて)』に始まり、3月末までに普天間移転政府案とした公約をあっさり撤回し、『別に法律で決まったことではない』と言い放つ。どうも内閣総理大臣としては不適格な人物を選んでしまったようだ。・・・」

うん。できれば佐々氏の全文を引用したくなるのですが、これくらいにして、

『日暮硯』では、恩田大工が、百姓代表の面前で語り始める言葉が思い出されます。

「先づ手前儀、第一、向後(きょうご)虚言(うそ)一切言はざるつもり故、申したる儀再び変替(へんがえ)致さず候間、この段兼て堅く左様相心得居り申すべく候。・・・」
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ゲゲゲのゲーテ。

2010-08-08 | 他生の縁
以前に雑誌などで、「無人島に行くとしたら、どういう一冊をもっていきますか?」などという質問で本を語ってもらうという特集があったのでした。そういえば、水木しげる著「ねぼけ人生」(ちくま文庫)に軍隊に入る際に雑嚢(ざつのう)に入れて南方まで持っていった本が語られておりました。
うん。ということは、さしあたり「あなたが戦争に行く際に持参する本とは?」というテーマにもなりそうです。もし、平和憲法があるにもかかわらず、相手から攻撃されいやおうなしに戦争にまきこまれてしまう惨事に見舞われた際に、あなたが戦地へと雑嚢に入れてゆく本は何ですか?水木氏はこうでした。

「そのうち、年齢も二十歳に近づき、戦争もきびしくなってきた。いつ召集になるかもしれない。そんな時、河合栄治郎編『学生と読書』という本に、エッケルマンの『ゲエテとの対話』という本が必読書としてあげられているのを知った。岩波文庫のこの本を買って読んでみると、はなはだ親しみやすく、人間とはこういうものであろうという感じがする。これで、ゲエテに関心を持ち、『ファウスト』や『ウィルヘルム・マイステル』や『イタリ―紀行』を読んだが、『ファウスト』は何回くりかえしみてもわからなかった。
僕には、むしろ、ゲエテ本人が面白く、だから『ゲエテとの対話』が好きなのだ。この本では、いろいろな人がゲエテ家に出入りし、それについてのゲエテの感想や生活ぶりがまるで劇でも見るようにうかがわれて楽しかった。後に軍隊に入る時も、岩波文庫で上中下三冊を雑嚢に入れて南方まで持っていった。
・ ・・・僕は、ゲエテのような生活がしてみたかったのである。・・・・
近所には、シラーという意見の合う友人がおり、家には、ヨーロッパ中の文化人が訪問してくる。時たま、ナポレオンなんかも戸をたたく。こんな生活を僕は空想して楽しんでいた。・・・ゲエテは、自然に関心があり、動物や植物の研究をしていたというので、僕も植物学の本を買って読んだし、また、ゲエテは、スピノザを尊敬していたので、僕も古本屋で『エティカ』を買ってきて読んだ。その他にも、『ゲエテとの対話』の中に出てくる詩人や作家のものは、気をつけていて読むようにした。ゲエテがシェイクスピアやモリエールを賞めるので、これも読み、ずっと後には、全集まで買った。『若きウェルテルの悩み』は、二回か三回読み、住んでいた甲子園口あたりの景色を勝手になぞらえてあてはめ、空想の中でゲエテになって散歩して楽しんでいた。・・・空想の散歩は楽しく、近くの別荘を見ると、これはシュタイン夫人の家、甲子園ホテルを見ると、これはワイマール公国大公夫人の家、などと考え、もはや、ワイマールが甲子園だか、甲子園がワイマールだかわからないほどだった。僕自身も小川を散歩する時は、完全にゲエテで、自分でも、僕なのかゲエテなのか定かでなかった。」(p76~78)

うん。そういえば、と足立倫行著「妖怪と歩く」(文藝春秋)をひらいてみました。
その第六章「さらなる探索」は、
「・・ゲーテ観はぜひとも聞いておきたかった。『私には師匠はいない』と公言している水木が、折に触れて引用するのがゲーテの言葉だった。戦争に行く前に岩波文庫の『ゲェテとの対話』(亀尾英四郎訳)を何回も読んで暗記してのだという。ゲーテの言葉だけではなく、その思想や生活を批判したり讃美したりすることも少なくなかった。・・・ゲーテはひょっとすると、水木にとって『人生の師』に近い存在ではあるまいかと思ったのである。」
こう足立倫行氏は書いております。
足立氏の本で、興味深い箇所を以下引用。

「『戦争が起こると自分の息子だけ戦場に出させまいとして、あれこれ工作したりね。晩年になって、詩作だけやっとればよかったとむやみに悔やんだりね。第一、エッカーマンに対して過酷でしょ?あれだけの仕事やらせときながら、給料も払わんのです。そのためにエッカーマンは、十何年も婚約者と結婚できんかったわけですからね』ゲーテがエッカーマンに対して冷淡だったことは多くのゲーテ研究書が指摘している。
エッカーマンは無給の助手だった。ゲーテは、連日訪れるエッカーマンが貧困の中で自分との対話録をつづっていることを知っており、しかもそれが自分にとって最後の記念碑的な傑作になるのを予想していながら、正規の秘書として採用しようとはしなかった。・・・『だから、ゲーテの生き方をそっくり真似する必要はないわけです。面白そうはところだけ参考にすればいい』水木は再び声を上げて笑った。・・・・文豪ゲーテの生涯のモットーは【急がず、しかし休まず】だった。」
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ねぼけ人生。

2010-08-07 | 短文紹介
水木しげる著「ねぼけ人生」(ちくま文庫)。
これを読んでると、私は水木作品のどの漫画を読むよりもわかりやすい。と思うんです。そこが他の漫画家との違いなのかもしれませんね。
すこし引用しておきます。

「僕と山下清は、同年同月生まれだったから、非常に親しみを感じている。山下清は、僕の少年時代から既に有名で、僕の母は、彼が新聞に出るたびに『お前によく似た子供がいる』と言っていたから、山下清式の行き方をほほえましく見ていた。だから、無意識のうちに、山下清の影響をうけていたのかもしれない。」(p137~138)

なんていうのは、水木漫画を読んでいては、気がつかない(笑)。

この本の章立てが、おもしろい。
第一章 落第
第二章 戦争
第三章 貧乏
第四章 多忙
それでもって、第三章の最後の方にさりげなく、こんな箇所

「とにかく、長年の貧乏は、あの半死半生の目にあった戦争よりも苦しいほどで、一山100円の腐ったバナナを買って食うのが無上の楽しみという、人には話せないような思いをさせる貧乏を、せめてマンガの中だけでも、魔法の力によって撃破できたらと、ペンを握る手にも思わず力が入るほどの意気込みだった。」(p199)

というのが「悪魔くん」を書き始めた頃の様子だったのでした。
これもマンガの読者であった私には、ただただ分からない世界でした。

ちょうど、NHK朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」では、
アシスタントの池上遼一・つげ義春らしき面々が、アシスタントから巣立ってゆくところです。それじゃ、この本では、アシスタントはどう書かれていたか。

水木氏とアシスタントの攻防も読みどころでした。

「ヤリ手のマンガ家の中には、アシスタントをうまく訓練して、チーフというのを育て、チーフに陣頭指揮をとらせているらしいが、我が水木プロは、オヤカタ自らが陣頭指揮をとらねばならない。オヤカタがアシスタントの何倍も仕事をして、その上、アシスタントがなまけたがるのを監視し、さらに、時には、アシスタントをおこらなけらばならない。おこるというのは楽しいことではないから、これがまたこたえるのである。
そのうち、最も戦力になっていたつげさんが奇妙な手紙のようなものを残して蒸発した。・・つげさんの事件は、それでよかったが、池上君が、才能を認められて週刊誌の連載の話が来たので独立することになった。池上君がぬければ水木プロはさらに戦力が低下するので、またアシスタントを補充しなければならない。ところが、入社テストが面接して十秒以内に即決するという採用のしかただから、失敗が多い。
新しく入ったのは、YとHという二人だった。これがまた奇人だった。Yは、アシスタントのくせに絵を描くのをいやがるという性格で、仕事をさせるのにひと苦労。Hは、あわてもので、やたら階段でつまずいてはころんでいた・・・
アシスタントの歩き方にまで気を配らなければならないから、たいへんなのである。僕と対照的な立場にいるのが、つげ義春氏だ。つげさんは、例の蒸発旅行から帰ってから水木プロをやめていたのだが、時々仕事を手伝いに来た。それ以外にも、気がむくと、ふらりと遊びに来ることがよくあった。つげさんの脱俗ぶりは、まるで仙人のようなオモムキがあった。」(p225)

さて、朝ドラマでのアシスタントたちは、これからどうなってゆくのでしょう。
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勘とセンス。

2010-08-06 | 他生の縁
「正論」2010年8月号の巻頭言は金美齢氏でした。
題して「自助精神なき『民意』に寄り添う政治家を疑え」。
たとえば、
「自助精神もなく、共助の気持ちもない者に人間としての信頼関係や絆は生まれない。国家と国民、親と子供、教師と生徒、あらゆる関係はそうした相互の『黙契』で成り立つものである。政治が社会に対して行う制度設計はそれを補うものでしかない。」(p37)

ところで、金美齢氏の巻頭言に魅力があったので、
それでは、と金美齢氏の本を何か読んでみようと思いました。
どれから、読んでよいのやら分からないので、とりあえず一冊。
「『おひとりさま』で幸せですか」(PHP)を購入してみました。
読みやすい。家族のことは難しいのでしょうが、竹を割ったような
明快さで書いておられるのでした。
以前の題名は「三家族11人で暮らしてみたら」を改題・改訂したものだそうです。
こんな箇所がありました。

「普段、家族の中で和気藹々と過ごすのはもちろんいいことだが、公私の区別がきちんとできなければ、その子が将来思わぬところで損をすることになる。
祖父母というのは、孫たちにとって荒波から保護してくれる入り江のようなもの。人生経験を積んでいるし、年齢も離れているので、困った事態に直面したときや大切な判断が必要なときに、身内でありながら事態を客観的に判断できる存在でもある。」(p146)

そういう祖父母にあたる金美齢さんは、この本をこうはじめておりました。

「私が、トランクを両手に持って、初めて羽田に降り立ったのは昭和34(1959)年春のことだった。以来、四十四年の年月が流れた。たった一人で台湾からやってきて、周英明と結婚して二人に、さらに娘と息子が生まれ、彼らがそれぞれ一家をなして、いまや五人目の孫が生まれようとしている。」(p18)

最後には、その娘さんとの対談も掲載されておりました。
そこからもちょっと引用。

母「中学生のときの家庭訪問で、私がいかにうるさくて厳しくて、自分がいかに調教されているか、延々と話してたわね。それを聞いていた先生が、『これだけ言えるなら、いいんじゃないですか?』って(笑)。・・・」

そして

子「・・でもいずれ、ママは何らかのかたちで世間に知られるようになったと思う。古今東西変わらない普遍的なことや、本質的なことを言えるのは、なかなかできないことだし、ものを知っているし、美人だし、とにかく勘とセンスがいい!」(p221)
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「日暮硯」まで。

2010-08-05 | 他生の縁
「日暮硯」(岩波文庫)
山本七平著「日本人とユダヤ人」(角川oneテーマ21)
徳川夢声著「話術」(白揚社)
「司馬遼太郎が考えたこと14」(新潮社・新潮文庫)
歴史読本編「池波正太郎を読む」(新人物往来社)


ということで、私の興味も5冊まで(笑)。

最初に興味をもったのは、『話術』の第四部附説に書かれていた「日暮硯」の要約でした。
次に、そういえば、イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」で「日暮硯」が登場していたことを思い出して、ベンダサンのその本をひろげてみると、ちゃんと原文を引用しております。ちなみに、そのときも引用文を飛ばして読まずにすませたのですが、今回も読まずに眺めただけ。岩波文庫「日暮硯」では、笠谷和比古氏が、解説のなかでイザヤ・ベンダサンに触れております。うん。この機会にと思って、「日暮硯」をワイド版岩波文庫で読んでみますと、はじまりの箇所が要約や紹介の引用では(「話術」や「日本人とユダヤ人」)どうも省かれているとわかります。その最初の箇所に『鳥籠』が登場しているのでした。それが何なのかという私の疑問も、そこまでと、一人合点。すると司馬遼太郎の池波正太郎追悼文に、なにやらその『鳥籠』に関連する言葉が拾えた。そうして次に池波正太郎著『真田騒動 恩田木工』(「池波正太郎を読む」に全文掲載)を読んでみたというわけです。

どうも、いつもなら、私の興味はここまで(笑)。
せめて、備忘録がてら、経緯のみ残しておきます。
いつか、思い出し、続きを読み始めるかもしれない。
確かに、その際、経緯をすっかり忘れてるのがワンパターン。
そこで、ここでは、備忘録。
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忘れないでね。

2010-08-05 | 短文紹介
梯久美子著「昭和二十年夏、女たちの戦争」(角川書店)の5人の最後に登場していたのが吉武輝子氏。吉武氏は1931年兵庫県出身。作家・評論家とあります。
その語られたなかに、終戦後の岡本先生のことがありました。

「終戦からひと月かふた月もしたらもう、すっかり豹変して、平気で民主主義の素晴らしさを説いている先生が山ほどいる中で、『私には教える資格がない』と言って去っていった。それはやっぱり、誠実なことだったと思うんです。
私たちは、まだ精神のやわらかい、人間形成のまっただ中の時期に、新しい価値観を学ぶことができた。戦後民主主義の恩恵を、たっぷり享受できた世代で、それはとても幸運だったと思います。
戦争が負けて大きな価値観の変化があったけれど、岡本先生のように、同じ目線で私たちに向き合って、苦しみ悩む姿を見せてくれた人もいる。平和とは何か、民主主義とは何か、人間が生きるとはどういうことかを、真面目に学ぼうとする姿勢を、日本人が共有していた時代だったんです。
そういう時代は、実はあまり長くはなかった。朝鮮戦争が始まると、戦前とはまた違った形の管理教育に変わっていったの。レッドパージがあったりしてね。アメリカがもたらした自由を、またアメリカの都合で奪われたというか。ほんとうの民主主義教育がなされたのは、敗戦から朝鮮戦争までなんです。私はありがたいことに、そこの教育を受けているわけ。」(p211)

そういえば、曽野綾子さんも昭和6年生まれ。

「・・私から見れば、石原慎太郎さんも年下だし・・・」
というのは、産経新聞連載の「透明な歳月の光」(2010年4月14日)。
そこに
「・・私が70代で一番冴えたのは、人間観察の度合いだという気がする。・・・『事業仕分け』は他人にやってもらうことではない。あれはごく普通の健全な精神ならば誰でもが行う自浄作用である。・・・そして人は70代で、それらの体験と迷い、成功と失敗、現実と哲学が、もっとも豊かに融合し合う目利きになれる。70代はバカにするどころか、恐ろしい年代だ。私はまだ80代を生きていないので、とりあえず70代までの報告をする。」

うん、1931年生れの曽野綾子さんのことはこのくらいにして、
70代の人間観察ということで、
もう一度、吉武輝子さんの岡本先生へともどります。
歴史と修身を教えられていた岡本先生のことを吉武さんはこう語っております。
「50代くらいの、それはそれは厳しい女の先生で、『女の子は女らしくあそばせ』『みなさんには、よい妻、よい母になっていただかなければなりません』が口癖。・・・いつも自信満々で授業をしていた岡本先生だったけれど、教科書の墨塗りを指示する声は、消え入るように小さかった。『ごめんなさい、○行目から○行目まで消してください』『すみません、○ページは全部消してください』こんな調子がずっと続きました。先生の『ごめんなさい』『すみません』を何度聞いたことでしょう。ふと声が途切れたと思ったら、先生が顔をおおっているのね。教室中がしーんとなった中に、忍び泣く声が聞えてきて・・・
それから10日ほどして、岡本先生は学校を辞めて故郷に帰っていきました。私は、数人の友人たちと一緒に、東京駅に先生の見送りに行ったんです。・・・・人波をかき分けて駆け寄った私の手を握って、先生は『吉武さん、批判のない真面目さは、悪をなします。そのことを忘れないでね』と言いました。私、あの言葉を生涯忘れない。いい先生に出会ったと思います。」
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群盲撫象。

2010-08-03 | 短文紹介
群盲撫象(ぐんもうぶぞう)と読むのだそうです。

たまりにたまった産経新聞の古新聞を整理。
こういう時は、気になる連載とか、なんとなくとっておきたいような箇所は遠慮なく捨ててかえりみない。なんせ、古新聞の山を、とにかく処理する、処分することを第一にします。気分はイヤイヤですから、はなっから捨てることが念頭。うん。貴重なご意見をあれよあれよと迷わずに切り捨てるのは、これはこれで気持ちがよいものです。
暑くて何もしたくない時は、こういうのが案外よいかもしれませんね。
情報を片っ端から捨てていくような、振り分け人になった気分。
と、思わなければつまらないばかり。

ところで、4月13日のオピニオン「話の肖像画」は「虹を紡ぐ」と題して渡部昇一氏のインタビュー記事。「日本の歴史」を刊行中の渡部氏に伺っておりました。
そこにオーウェン・バーフィールドの言葉として
「国史というものは、その国の人たちが見る虹のようなものではないだろうか」という一節を引用しておりまして、そのあとにこうありました。
「もう一つ、比喩で支えになっているのは『群盲撫象』というお経の言葉です。昔ある王様が、大勢の目の見えない人に象をなでさせて答えさせた。牙をなでた人は角のようなものだと言い、尾をなでた人は鞭(むち)のようなものだと言い、腹をなでた人は太鼓みたいなものだと言ったという話ですね。これは全部事実なんですけれど、象とはいえない。
―――なでた人には確信があります(質問者の声)
しかし、その確信を主張すれば主張するほど、象自体からは遠ざかるということがあるんじゃないでしょうか。それよりは、象に触れたことはなくても、遠くから見て大まかなスケッチでも描けば、象の形はわかります。傍らに象使いでも描けば、象の大きさまでわかる。そういう話ならば素人の出る幕はあるし、通史も語れると思うんです。」

そうか。『群盲撫象』はお経の言葉なんだ。
というので、鈴木棠三編著「新編故事ことわざ辞典」(創拓社)をひらくと
出典からの引用があり最後に六度経とありました。
うん。渡部昇一氏の「日本の歴史」なのですか、
なんだか、いままで読んできた主張の反復かもしれず、わざわざ買うまでもないかと
ついつい思ってしまっていたのですが、こりゃ二冊ほど買ってみて開いてみたくなりました。なんだか、本も開かずして、決めつけてしまう愚かな自分がありありと見えます。
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空穂談話。

2010-08-02 | 短文紹介
窪田空穂全集の月報6(第20巻付録)に
「空穂談話Ⅵ」が掲載されておりまして、印象に残ります。
そこに「小説を書いたころ」というインタビュー記事。

記者が、ごく一般的な質問をしております。
「・・はじめは新体詩をお書きになっていて、歌から小説へといかれたわけですね」
それに、答えて空穂氏は
「いまそんなことをいうとね、なにか意識的に、変わった飛躍でもするように聞えるけれども、そのころは、広い意味の文学青年はね、なんだってみんなやったよ。だれだってね。短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの文学青年、みんなそうだった。」

・ ・・・・・・・
記者「先生には、『小品』といった性格のものがだいぶおありになるんですね。
窪田「いまの随筆だよ、一種の詩的な随筆。小品文という一つのジャンルができてた。そいつを少し延長すりゃ小説になる。」
記者「この全集でも、小説・小品が二冊分もあるわけですが・・・。」

   ・・・・・・・・・・・
 いろいろと興味深いので、全部引用したくなるのですが、あとは最後の方。

窪田「・・編集者のごきげんをとって、必ず使ってくれるということにしなくちゃ、やっていかれない。ちょうど芸人が手拭いをくばるような具合に、編集者のごきげんをとって、ひどいことになると、待合のお伴までしなくちゃいけない。おれはそれをした覚えはないけれど、みんなの話を聞くと、それが実情だったらしい。そのころでも、売れっ子というのは二、三人しかいない。あとはみんな売りっ子になる。編集者に、まずいけれど使ってもらう、それには売りっ子にならなくてはいけない。それじゃほかのことでもって飯を食おうと、考えこんじゃった。原稿売って飯を食おうというのはあきらめようと。まあまあ、小説を書き出して、またあきらめようと思ったのも、こんなことだった。」


さてっと、ここで、話はかわりますが、
ちょいっと読み終わってから、どこかにまぎれていた松岡正剛著「多読術」(ちくまプリマー新書)が、本棚を整理していたら出てきました。あらためて、パラリとひらくと、そこは全集について語っている箇所なのでした。ということで、そこを引用。

「新聞、雑誌、単行本、マンガ、楽譜集、どんなものでも全部が『読書する』なんですが、そこには優劣も貴賎も区別がないと思うべきなんですが、やっぱり読書の頂点は『全集読書』なんですよ。これは別格です。個人全集もあるし、シリーズ全集もありますね。まず、その威容に圧倒される。大半は頑丈な函入りですから、なかなか手にとる気にならない。飾ってあるだけで満足です(笑)。しかし、眺めているだけではもったいない。それを齧るんですね。ロック・クライミングですよ。当然、すぐに振り落とされる。二合目と三合目でね。それがまた、たまらない(笑)。・・・
はい、マゾですね(笑)。いや読書というのはね、そもそもがマゾヒスティックなんです。だから、『参った』とか『空振り三振』するのも、とても大事なことです。わかったふりをして読むよりも、完封されたり脱帽したりするのが、まわりまわって読書力をつけていくことになる。だいたいプロ野球の最高のバッターだって三割五分くらいの打率でしょう。まったく打てない相手もいる。読書もそういうもので、凄いピッチャーに内角低目をえぐられたら手も足もでない。・・・」(p61~)


そうそう、月報のこともでてきました。

「『月報』ですね。全集にはたいてい著者の縁が深かった関係者や研究者が、巻ごとに二、三人ずつ原稿を寄せている。それが月報ですが、ぼくはどんな芥川龍之介論よりも、芥川全集の月報を読んだときのほうが芥川のことが見えた記憶があります。・・・・

そのうち、マゾばかりでもなくなるんですよ(笑)。それは『攻める読書』というものです。いわば『攻読』。ただし冒瀆するわけじゃない。批判するわけでもない。一言でいえば、こちらの考え方をまとめていったりするための読書法です。おそらく読書には、守りの読書と攻めの読書があるんでしょう。それが『守読』と『攻読』です。」(~64)
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味噌汁を一口。

2010-08-01 | Weblog
「日暮硯」の「鳥籠」から、
司馬遼太郎の池波正太郎追悼へ。
そこから、「池波正太郎を読む」を注文。
そしたら、常盤新平著「池波正太郎を読む」と
もう一冊、歴史読本編集部の「池波正太郎を読む」とがあったのを、
間違えて、常盤新平氏の方を古本で注文してしまいました。
今日届いた、常盤新平著「池波正太郎を読む」をパラパラとめくっておりました。
歴史読本編集部の「池波正太郎を読む」は2010年7月発売となっているので、
こりゃまだ、古本にはなっておりません。
つい、こうして間違って注文をします。
でも、常盤さんの本、楽しめました。
こういう間違いも、ブログに書いていけばよいのだなあ。
と、思うこの頃。
そう、間違いがすなわち私。
うん、私を書き込めば、それでいい(笑)。


では、常盤さんが池波さんを引用した箇所。

「『人間という生きものは、苦悩・悲嘆・絶望の最中にあっても、そこへ、熱い味噌汁が出て来て一口すすりこみ、(あ、うまい)と感じるとき、われ知らず微笑が浮かび、生き甲斐をおぼえるようにできている。大事なのは、人間の躰にそなわった、その感覚を存続させて行くことだと私はおもう』(「私の正月」)これもまた、私のような読者を力づけ、はげましてくれる文章である。私は教えられるところが無数にあるから、池波さんを読んできた。それが楽しみにもなっているので、もったいない気がしている。」(p142)

常盤さんと池波さんとの対談も掲載されておりました。
そこんとこも、引用。


池波「戦争にいってきたからね、ぼくは。お国のためだと思って行った軍隊で失望して、それから、終戦のときに、ありとあらゆるジャーナリズムが手の平かえしたように変節しちゃったでしょ。これにはおどろいたね。このことが、よきにつけ、悪しきにつけ、ぼくの一生を決めてしまったようなものですね。世の中、もう何が起こっても不思議はない、ということを二十一歳のときから、身にしみてたたきこまれてしまったからね。ぼくの年代の人、みんな、そうじゃないかしら・・・。だから、ぼくは骨董とか絵とかそういうものを収集する趣味はないんですよ。やはりね、収集の空しさというものを、わかっちゃてるから。」(p126)

ちなみに、池波正太郎氏と司馬遼太郎氏とは、どちらも1923年生まれ。
どちらも、関東大震災の大正12年に生まれていたのでした。


さて、明日。
歴史読本編集部の「池波正太郎を読む」が新刊で届くはず。
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