和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

週刊新潮で文学をつくっている。

2011-09-15 | 短文紹介
子規の本をすこし読み始めると、
小西甚一著「俳句の世界」(講談社学術文庫)が楽しめる。
うん。これで小西甚一が読める(笑)。
ありがたいなあ。
きちんとスジの通った、俳句の水先案内人と出会えたよろこび。

さてっと、その前に、
司馬遼太郎の講演録(朝日新聞社「司馬遼太郎全講演1964~1983」第1巻)。
そこに「週刊誌と日本語」があります。
その途中から引用。

「夏目漱石と正岡子規です。二人の天才は、あらゆることを表現できる文章日本語をつくりだした。・・・彼らがそんなことをしたとは、だれも気づかなかったのでしょうか。彼らの文章は伝承されず、相続されなかった。漱石はまだ相続されたと思うのですが、子規にいたっては、世間の評価は、あれは俳句詠みか歌詠みだろうといったものでした。」

うん。相続されなかった文章日本語の系譜を、たどる楽しみ。

この「週刊誌と日本語」の講演では
西堀栄三郎さんが登場しておりました。

「西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。・・西堀さんは優れた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。桑原さんはこう言った。『だから、おまえさんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない』
西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
『おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ』
『文章に理系も文系もあるか』
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
『おまえさんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
『「週刊朝日」でもなんでもいいから読め』
週刊誌の話になったのには理由があるんです。・・
この時代に共通の日本語ができつつあったのではないかと桑原さんに言ったところ、桑原さんは言いました。
『週刊誌時代がはじまってからと違うやろか』
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと言われるものですから、私も意外でした。・・・・
週刊誌はもともと大新聞社が発行していたものです。大新聞社ですから、記事が余ってもったいないじゃないかということになり、『週刊朝日』なり、『サンデー毎日』なりができたそうですね。戦争を経て、昭和30年代になりますと、出版社の新潮社が、よせばいいのに週刊誌を出した。これは大変にカネのかかる、危急存亡にかかわる道楽だったと思うのですが、それが成功しました。するとほかの文藝春秋なども週刊誌を出し始め、大変な乱戦状態になった。・・・・・
私もそのころ、週刊誌というのは不思議なものだなと思っていました。・・・
電車の中で大学の先生も読んでいれば、学生も読んでいる。
国語の先生も読んでいれば、左官の仕事を修業中の青年も読んでいる。
週刊誌を読むという、ひとつの共通の場ができあがったんだなあと思ったことがあります。・・・そのことを桑原さんもおっしゃった。
『週刊誌が共通の文章日本語をつくったことにいささかの貢献をしたのではないか』その次に桑原さんは少し語弊のあることをおっしゃった。
『週刊誌に載っている作家の文章と、週刊誌のトップ記事の文章とは、似てきましたね』・・・・・・」

ちなみにですが、
司馬遼太郎さんの講演に「文章日本語の成立」というのもありまして、
こちらに『週刊新潮』という言葉が出て来ます。

「昭和30年代になって、『週刊新潮』の発行その他で週刊誌というものが非常ににぎやかなものになりましたが、そこに書かれている文章と、作家の文章とが似てくる。それがいけないということじゃなくて、共通・共有のものになてくるということを申しあげたいわけです。」

「桑原さんは、
『「週刊新潮」その他の発行、つまり、割合、質のいい文章の大衆化ということと関係があるんではないか』とおっしゃった。それが冒頭の話とつがながります。いまの日本語の文章は、非常に参加しやすくなっています。これがいいか悪いかは別です。しかし、社会というものは、そういうようにして成熟していくものです。」


うん。ここで「週刊朝日」か「週刊新潮」か。
私は「週刊新潮」に軍配を上げます。
そこで思い浮かぶのは「編集者 齋藤十一」(冬花社)です。

そこに、坂本忠雄氏の「編集という天職」と題した文。
なかに、小林秀雄への言及があります。

「齋藤美和夫人は、小林さんが齋藤(十一)さんが先に亡くなったら、必ず書いてやると言うのを聞かれたそうだが、もはや夢と化した原稿は私など及びもつかぬ、得難い素描が描かれたことだろう。」(p101)

その小林秀雄による齋藤十一氏の素描には、
司馬遼太郎と桑原武夫が指摘する文章日本語へのかかわりにも、触れる箇所があっただろうと、その得難い素描を想像するのでした。

ちなみに、坂本忠雄氏の文には
齋藤氏の言葉として、

「今やさまざまに流布している『「週刊新潮」で文学をつくっている』という言葉を私はじかに聞いたのだ・・・」(p98)
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明るい月が。

2011-09-14 | 詩歌
午後6時半に車に乗っていると月が鮮やか。
今日の月は、低くて大きく、明るく黄色がかってます。
そのためか、月のなかのウサギの餅つきが黄緑に見えるのでした。

高浜虚子著「回想 子規・漱石」(岩波文庫)。
高浜虚子著「柿二つ」(永田書房)。
関川夏央著「子規、最後の八年」(講談社)。


この三冊から、子規の亡くなった当日をたどります。

「旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治35年九月十九日になったばかりの午前12時50分頃であった。子規の生涯は満34年と11ヵ月余りであった。」(「子規、最後の八年」p379)


高浜虚子著「子規・漱石」(岩波文庫)では、亡くなる前後が書かれておりました。

「その十八日の夜は皆帰ってしまって、余一人座敷に床を展(の)べて寝ることになった。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。それは十二時頃であったろう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛っていた。・・・余も座敷の床の中に這入った。眠ったか眠らぬかと思ううちに、『清さん清さん。』という声が聞こえた。その声は狼狽した声であった。・・・妹君は泣きながら『兄さん兄さん』と呼ばれたが返事がなかった。はだしのままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。
余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門(かど)を出た。その時であった、さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかというような心持がした。
  子規逝くや十七日の月明に
そういう語呂が口のうちに呟かれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。」(p102~104)

高浜虚子著「柿二つ」では、その月夜をどう書いていたか。

「Kはものにはじかれたやうに下駄を突かけて表に出た。
十七夜の月は最前よりも一層冴え渡つてゐた。Kは其時大空を仰いで何物かが其処に動いてゐるやうな心持がした。今迄人間として形容の出来無い迄苦痛を嘗めてゐた彼がもう神とか仏とか名の附くものになつて風の如く軽く自在に今大空に騰(のぼ)りつつあるのではないかといふやうな心持がした。恐ろしいやうな尊いやうな心持がしてぢつと其のものの動くあたりを凝視した。そんな心持で、明る過ぎる許りに明るい道を歩いてゐると、自分の足迄が雲でも踏んでゐるやうにふわふわと取りとめの無いやうな心持がした。
彼の主な門下生の一人として・・・一俳人の家の表に立つた。寝静まつた門も明るい月の下に在つた。Kは・・其戸を叩いた。・・急を告げて又他の一俳人の家に向つた。
其俳人の家も明るい月の下に在つた。同じやうに叩き起して彼の家に取つて返した。・・・」

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三千の俳句を。

2011-09-13 | 短文紹介
小西甚一著「俳句の世界」(講談社学術文庫)の
子規の句を取り上げて印象深い箇所は


「  三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ   子規

がある。むかし、学期試験で千枚ほどの答案を調べたあと、よくこの句を想起したものである。若い頃のわたくし(注:甚一氏ご自身のこと)だって、千枚の答案は楽でなかった。三千の選句、それも寝たきりの重病人である。ぞっとせざるをえない。疲労の深さが、蒲団のなかに埋めきれない苦痛となる。その身で、やっと二つの柿に、疲れ乾いた口中をなぐさめるのである。大きい仕事をしたあとの身の熱(ほて)りが、柿の冷たさによって表現される。この『柿』に冷たさを感じない人があるなら、かれは俳句的音痴だといってよろしい。・・」(p263)

うん。私は俳句的音痴であります。
そういえば、高浜虚子の著作に「柿二つ」がある。
ちなみに、
子規が亡くなるのは、9月19日午前1時ころ。
その様子は、
虚子に語ってもらいましょう。
ということで、
明日のブログの、テーマはきまり。

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初読「墨汁一滴」。

2011-09-12 | 詩歌
ワイド版岩波文庫「墨汁一滴」を読み始めました。
面白いのですが、私には一日では読み終えられません。

墨汁一滴を読んでいると
子規の数ということに興味がいきます。

 鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

「も」についても話がひろがるのですが、
ここでは、高浜虚子選の岩波文庫「子規句集」について
ここには、「鶏頭の・・」の句は選ばれておりません。

小西甚一著「俳句の世界」(講談社学術文庫)の
正岡子規の箇所をのぞいて見ますと、こうあります。

「『鶏頭の』は、加藤楸邨がひどくほめちぎった句で、子規の到りついた最高境を示す傑作だと、たぶん昭和十七八年ごろから、事あるごとに力説したものである。それが俳壇的問題とまで発展・・・斉藤茂吉も褒めた。それが昭和二十六年ごろ、ジャーナリズムの好餌になったわけ。ところが、虚子はこの句を黙殺し、碧梧桐と共編の『子規句集』でも採らなかった。ふしぎなことに、この句を絶讃した緒家は、なぜ名句なのかを全然説明しようとしない。たぶん宗教ふうインスピレイションのなせるわざらしく、文芸的経験に還元できる批評ではあるまい。・・」(p266)


そういえば、今日は、よい月夜。
ガラス窓を閉める時に満月にちらりと挨拶。
「仰臥漫録」には、こんな句がありました。

 十三四五六七夜月なかりけり

ここにも、数が並んでる。


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古風ですが。

2011-09-11 | 短文紹介
読まないで、買って置いてある本。
なあに、いつか読むだろう、という本。
ところで、
唐澤平吉氏のブログ「花森安治の装釘世界」で、
最近たのしみなのは、池島信平氏の登場。
そこに、買いたくなる古本が並んでいる。
でもガマン(笑)。
そこに、「池島信平文集」の写真。
これ、未読ですが、なぜか私の本棚にもありました。
というので、読み齧ろうと、ひらく。

そこに「『杉村楚人冠』を愛読して」と題して、
昭和44年放送の「NHK・FM教養講座」での文がありました。

今回はそこから、引用。

「・・わたしは戦争中でしたか、全集(注:楚人冠)を京都の古本屋でたしか定価五円ぐらいで買ったんです。それにしてもずいぶん安いなア、と思ったんですが、戦争中、一種の閑文学とみられて安かった、ほんとはそうではない、鋭い皮肉で、時弊、時のわるいところを突いた文章がたくさんあるんですが、当時としては、わりに顧みられなかったために、たいへん安く買えたんです。
これに似たような例ですが、そのころわたくしは『新井白石全集』『田口鼎軒全集』をタダみたいな安い値で古本屋で買い、今日でも大切に読んでいます。時流に乗らない本当の古典というものを、どうか見つけていただきたい。今日といえども、この原則は通じます。いわゆるベスト・セラーもいいが、本当にいい本は実はこの中に少ない。古本屋の片隅にホコリをかぶって真の読者を待っている良書が、今日でもどのくらいたくさんあるか分からない。そのように、わたくしは思います。・・」(p238)

また、こんな箇所もありました。

「楚人冠の中に『死児の齢(よわい)』という随筆がありまして、病気で亡くなった息子さんの気持になって、その中に親の気持をこめた名文があります。愛読に堪える文章でありますが、しかし、わたくし、それを読みながらも感ずるのは、その中で震災で一度に亡くなった二人の坊ちゃんのことは殆んど書いていない。書くにしのびないのです。その打撃がいかに深刻なものであったか、文章を書く人が、これを記すに堪えないという点に思い至ると、何とも申し上げようのない気持になるのです。これはなみなみならぬ楚人冠という人の克己の精神、自分にうち克つという気持の現れだと思います。これはものを書く人として、まことにわたくしは景仰すべきことであると、こういうふうに考えるわけなんです。」(p242)


つい、テレビとか映像でいつでも見れる、と思ってしまいがちな昨今ですが、「思い至る」ことの大切さ。

さて、この文章の最後のほうには、こうありました。

「・・一読者として、楚人冠という人を非常になつかしく、その文章をもっともっといまの若い人に読んでいただきたい。文章はすこし古風ですが、非常にわかりやすい、しかものびのびとしたリズムのある文章であります。いわゆるジャーナリストの文章の一つの典型だと思います・・・」(p243)


そういえば、桑原武夫・司馬遼太郎の対談の、どこかで杉村楚人冠への言及があったような気がしたのですが、残念見つからない。
ここから、杉村楚人冠の文章を読んでゆければよいけれど、
今日はここらで撤退。

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菊・木魚・寺。

2011-09-10 | 詩歌
お隣りの葬儀に列席させて頂きました。
葬儀社が経営する会場で、通夜と葬儀。
私は、その日時間をあけて、参列するだけです。
火葬の前に、皆さんで棺に菊を入れていくのでした。

 棺(ひつぎ)には菊抛(な)げ入れよあらんほど

 あるほどの菊抛げ入れよ棺(かん)の中

これは、夏目漱石の俳句。
岩波文庫には、俳句の下に注があり、この句には
「大塚楠緒子のための手向けの句・・・」(p175)とあります。

ちなみに菊といえば

 いたづらに菊咲きつらん故郷(ふるさと)は (明治28年)

 菊の香や故郷遠き国ながら  (明治28年)



そういえば、漱石の俳句には、
お寺にかんする句が印象に残ります。それを列挙。
ちなみに、通夜の句というのがありました。(p11)

 仮位牌(いはい)焚く線香に黒むまで

 こうろげの飛ぶや木魚(もくぎょ)の声の下

   注:こうろげ――虫のこおろぎ。

 通夜僧の経の絶間やきりぎりす

 骸骨やこれも美人のなれの果

次に、初七日の句(p12)というのもあります。

 何事ぞ手向(たむけ)し花に狂ふ蝶

 鏡台の主の行衛(ゆくえ)や塵埃(ちりほこり)


ちなみに、木魚というと有名な、この句

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉


あとは、お寺が登場する句をみていきます。


 秋の山南を向いて寺二つ

 凩(こがらし)に裸で御はす仁王(におう)哉

 凩や真赤になつて仁王尊

 冬枯や夕陽(せきよう)多き黄檗寺(おうばくじ)

 本堂は十八間の寒き哉

 愚陀仏は主人の名なり冬籠(ふゆごもり)

 冬木立寺に蛇骨(じゃこつ)を伝へけり

 半鐘とならんで高き冬木哉

 凩に早鐘つくや増上寺

 うき世いかに坊主となりて昼寝する

 仏壇に尻を向けたる団扇(うちわ)かな

 涼しさや奈良の大仏腹の中

 行秋(ゆくあき)を踏張てゐる仁王哉

 謡ふべきほどは時雨つ羅生門

 なあるほどこれは大きな涅槃像

 虚無僧(こむそう)に犬吠えかかる桐の花

 若葉して手のひらほどの山の寺

 冷やかな鐘をつきけり円覚寺(えんがくじ) (明治30年)

 仏性は白き桔梗にこそあらめ

 寺借りて二十日なりぬ鶏頭花 (明治31年)

 凩や岩に取りつく羅漢路(らかんみち) (明治32年)

 巌窟の羅漢どもこそ寒からめ

 釣鐘に雲氷るべく山高し

 巌頭に本堂くらき寒かな

 雛僧のただ風呂吹と答へけり

 詩僧死してただ凩の里なりき

 梅の寺麓の人語聞ゆなり

 ごんと鳴る鐘をつきけり春の暮

 秋風や梵字(ぼんじ)を刻す五輪塔



「倫敦にて子規の訃を聞きて」との前書。
そこにつづく句は

 筒袖や秋の柩にしたがわず   (明治35年)
 
 手向(たむ)くべき線香もなくて暮の秋

 霧黄なる市(まち)に動くや影法師

 きりぎりすの昔を忍び帰るべし

 招かざる薄(すすき)に帰り来る人ぞ



と、ここいらまでにしましょう。
ちなみに、以上をパソコンに打ち込んでいると
私の顔や手に、一匹の蠅がなれなれしく擦り寄ってくる

 
 ゑいやつと蠅叩きけり書生部屋  (明治29年)


残念、こちらのハエは、逃げ足がはやく、叩けずにいます。









 
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石巻の赤十字病院。

2011-09-08 | 地域
本屋でkotobaという季刊誌2011年夏号を買いました。
はじめて買った雑誌です。中に6ページほどの佐野眞一・森達也対談があり読みました。そこにこんな箇所


森】 石巻の赤十字病院には地震直後、他の施設や病院から多くの老人や重傷者が搬送されてきました。でも寝たきりや重篤な患者はロビーに置き去りにして食事を与えず、一切の治療をしなかった。なぜならそうしないことには助かる人が助からない。トリアージ(災害において治療の優先順位をつけること)です。その決断を下した石橋悟救急科部長は、「手が回せなかったのですね」と訊くと僕に、「回せなかったのではなく回さなかったのです」と即答しました。「無力感は感じましたか」と訊いたら、「当たり前です。人は自然の前では無力です。抗おうと思っていません」との言葉が返ってきた。
佐野】 究極のトリアージだね。 (p28)


新刊本を検索していると、
「 石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命 」アスペクト¥1550
新刊予告本としては
「石巻赤十字病院の100日間」小学館¥1575

あと、海堂尊監修「東日本大震災、医師たちの奮闘 」新潮社¥1575
も気になります。


また、新刊を買おうかなあ。
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俳句も散文も生涯も。

2011-09-07 | 詩歌
司馬遼太郎著「坂の上の雲」の第一巻の巻末あとがきに、
有名なあの言葉があるのでした。

「・・・そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」

この次の一行を司馬さんは、どう書いていたか、
というと、


「子規について、ふるくから関心があった。」

とつながっているのでした。

さてっと、朝日新聞社から
司馬遼太郎の未公開講演録が出ております
(私は、写真がふんだんに掲載された最初の週刊朝日増刊号の雑誌版ががぜん気に入っております)。そこに「いま子規をわれらに」という題で、鼎談が載っておりました。


「日本の文学のなかで大事な俳句・短歌というものを、新しい美学で変えてしまった子規ですが、国文科に進んだときには、そんな自分の将来は思ってもみなかったでしょう。おそらくは英語の力がないために国文科を選んだと思うのですが、それも中途でやめてしまう。
まあ、子規の青春を時代とのかかわりでいえばこうなるのですが、わりあいズッコケた青春ですね。
ですから夜店に行ったり、縁日の古本屋で読本や句集を買ったんでしょうね。タダ同然だったでしょう。俳句をやる人といえば、当時、敗北者だったり、隠居をした人だったりですね。生きのいい青年の、明治書生がやるようなものではない。それを一生懸命集めたんですが、最初から志があったのかどうか。やがて強烈な志となって古い俳句を集め、それを見つめ直して新しい道を提示する方向へと進むのですが、そのころにはすでに病気になっています。」

まあ、こう司馬さんが話しております。
そのあとに、山本健吉氏が

「子規という人はあいまいなことが嫌いで、はっきりものを言う人でしたから、達意の文章を目指した。俳句や短歌も非常にはっきりしていますね。あの人のイメージははっきりしすぎていて、日本の詩人たちのなかには物足りないという批判もあるぐらいですが、とにかく志ですね。私はそれが子規の文学の心棒、中心点だと思いますね。」

このあと、司馬さんでした。

「原典は忘れましたが、中国の古い本で読んだことがありまして、女の人というのは恨みを述べるためにあって、男の人というのは志を述べるためにあるんだと。なるほど子規の俳句も散文も生涯も、志のためにあるんですね。明治人ですね。私は子規の散文が好きなんですよ。暇があるとよく読み、すぐ忘れてしまうからいつでも新鮮なんです。『墨汁一滴』もいいし、『仰臥漫録』も、『病牀六尺』もおもしろい。ときどき、へぇー、こんなことを書いていたのかと思います。」


それはそれとして、
司馬さんの指摘する
「夜店に行ったり、縁日の古本屋で読本や句集を買ったんでしょうね。タダ同然だったでしょう。」というのが印象に残ります。
タダ同然の読本や句集。
タダ同然の子規の時間。
そういえば、清水一嘉著「自転車に乗る漱石 百年前のロンドン」(朝日選書)のなかの「古本屋めぐり」などを思い浮かべたりします。
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空の遠くを指してください。

2011-09-05 | 詩歌
竹中郁の詩「遠足」。
それは

  先生 杉山先生!
  山はまだですか

とはじまり、
最後はこうでした。

 その杖(すてつき)を高くあげて
 先生 杉山先生!
 空の遠くを指してください
 僕はそこまで歩くでせう


高浜虚子著「俳句はどんなものか」(角川ソフィア文庫)の
最後に、こうありました。

「俳句とは芭蕉によって縄張りせられ、芭蕉、蕪村、子規によって耕耘(こううん)せられたところの我文芸の一領土であります」

うん。虚子先生の単純さが好きです。
ということで、岩波文庫の

 芭蕉俳句集
 蕪村俳句集
 子規句集
 漱石俳句集
 虚子五句集(上下)
 橘曙覧全歌集

これらを、机上に並べて、
僕はそれを読むでしょう。
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柿ぴたり。

2011-09-04 | 詩歌
読み齧(かじ)りの岩波文庫「子規句集」を、またパラパラ。
この文庫は、高浜虚子選。
俳句は、まとめて眺めるほうが、面白い。
と、最近、思えてきます。
今回、気づいた句は、
やっぱりこの時季にふさわしい句。

  秋立てば淋(さび)し立たねばあつくるし (明治28年)

  こほろぎや物音絶えし台所        (明治34年)
 
  秋の蚊のよろよろと来て人を刺す     (明治34年)


この高浜虚子選「子規句集」の解説は坪内捻典。
そこに

「『子規句集』の作品は明治28年分が格別に多いが、それはその年から子規の『純粋俳諧生活』が始まったと虚子が見ていたからである。この年、日清戦争に新聞記者として従軍した子規は、重態に陥って帰国し、『死はますます近きぬ、文学はやうやく佳境に入りぬ』という悲壮な覚悟で俳句に打ち込む。」(p344)

とあります。その明治28年の俳句に
「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書があるところの

   柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

がある。
井上泰至氏は、この句について、

「余りに有名なこの句の詩情は、『柿』の味にかなりの部分を負っている。甘味が当たり前に手に入り、それがために成人病が頻発するまでになっている今日では、この味覚の有り難味そのものが薄れてしまっている。筆者(井上氏のこと)の母方は遡れば、鹿児島なのだが、かの地の薩摩揚げが甘いのは砂糖黍の産地を抱えていたと同時に、甘味が贅沢であり、薬でもあり、もてなしでもあった証拠である。甘味に飢えた時代、『柿』の淡くて柔らかい甘さは、ある懐かしさを持っていた。この句が、旅人の目で日本の原郷の風景を詠んだ故に愛唱されたことは・・書いておいたが、郷愁を呼び起こす味覚として『柿』はぴたりとはまったのである。・・」(p144・「子規の内なる江戸」)

うん。この指摘には、深みがありますよね。
甘さがひろがるというか、
俳句の味わいということに思い至ります。


ちなみに、明治29年には

 柿くふや道灌山の婆(ばば)が茶屋

 渋柿は馬鹿の薬になるまいか


もどって、明治28年

 漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)

  「漱石来るべき約あり」という前書きで

 梅活けて君待つ庵(いお)の大三十日
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俳句とは。

2011-09-03 | 詩歌
高浜虚子著「俳句とはどんなものか」(角川ソフィア文庫)を読みました。
緒言には「ずっと程度を低くした小学生に教えるくらいの程度の俳話をしてもらいたいというような注文・・この俳句講義は今度それらの要求に応ぜんがために思い立ったものであります。」とあります。

これが、単なる程度の低い話に終わらないのが虚子という人の凄さ。
それはまるで、柔道の取り組みを観戦しているようでもあります。

「私は俳句の文法というようなものはどこまでも軽蔑します。・・・
俳句の文法を検(しら)べたければまず普通に話す我等の言葉の文法からしてお検べなさいと申し上げたいのであります。文法は軽蔑しませんが特に俳句の文法といってことごとしく論をやる人を軽蔑するのであります。・・・」(p66~67)

こうして「切字」の話になります。まるで、グイッとひきよせ、きれいに一本背負いを決めにかかるような単純さ。
きっちりと、こうも語っております。

「私は十七、八歳のころはじめて俳句というものを学んでみる気になったのでありました。それはほかでもありません、一に子規居士の刺激を受けたがためであります。が、そのときですらなお和歌と俳句とを較べますと堂上人(どうじょうびと)と町人のような区別があって和歌は優にやさしきもの、俳句は下卑(げび)た賤(いや)しきものとそう考えておりました。・・・」(p12)

うん。スポーツ観戦のように、たのしく読みました。
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句と絵の組み合わせ。

2011-09-02 | 詩歌
高浜虚子の初期の俳句(明治36年)に

  秋風や眼中のもの皆俳句   

というのがありました。
よし。秋は俳句だ。なんてね。
それでもって、岩波文庫・横井也有著「鶉衣」上下を買ったのに、
ちっとも、歯がたたないのでした。
ところで、半藤一利著「漱石俳句を愉しむ」(PHP新書)をダンボール箱に探していたら、磯辺勝著「江戸俳画紀行」(中公新書・2008年)がありました。これ未読。
その「江戸俳画紀行」の最初に登場しているのが横井也有。
ああ、そうか。私みたいな素人が俳句を理解するには、俳画なんだ。
なんてね。

磯辺勝氏の新書まえがきをすこし引用。
はじまりは「江戸時代の俳画は、おもしろい。」とはじまっております。

「著者は、十七、八年前に江戸時代の俳画と出合い、たちまち引き込まれた。なぜこんなに魅力があるのか、と考えても、わからないのである。・・・名のある俳人のほとんどが俳画を描いていた。芭蕉なども、熱心に俳画に取り組んでいる。そのわりには、俳諧研究家からも美術研究家からも俳画は軽視されてきた。・・・江戸期の、句と絵の組み合わせによるこの特異な作品群・・・これだけおもしろい創作物が、忘れられているのは、いかにももったいない気がするのだ。」


うん。

「鶉衣」を寝かせ、
「江戸俳画紀行」をひろう秋の風。

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詩人・歌人・俳人。

2011-09-01 | 地域
井上泰至著「子規の内なる江戸」(角川学芸出版)を読んだせいで、何だか、子規の作品にチャレンジできるような気がしてきました。ということで、今日は土屋文明編「子規歌集」(岩波文庫)。以前付箋を貼ってある箇所がありました。


 詩をつくる友一人来て青柳に燕飛ぶ画をかきていけり

 歌をよみにつどひし人の帰る夜半(よは)を花を催す雨滝の如し

 詩人去れば歌人座にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ


       以上明治33年 (p71~72)

こうして、引用していると、窪田空穂全集月報2を引用したくなります。
そこに「空穂談話Ⅱ」(詩の青春、短歌の青春)があるのでした。

「・・・まえに、ちょっと触れた正岡子規、これは俳句の写生の説で成功した人だから、それを短歌のほうにも移そうとした。短歌には、いかにも写生がなさすぎる、写生ということは、ものを配合させるおもしろさだ、そんな説明でもって、写生が始まった。実景、実感ということには相違ないけれども、その実景、実感にくふうを入れて、ものを配合し、それでおもしろさを出そうとした。それが、実相観入にだんだん移っていった。移らざるを得なかった。万葉調の写生の歌をくり返しているうちに、じつに単純になっていった。
そこへいくと、与謝野鉄幹なんかも、同情できるところがあった。初めは『自我の詩』といった。これは禅宗のことばだ。ところが、当時は、外国文学がじつにさかんで、文学でいえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういった時代。・・・」


子規の歌集をひらくと、
東日本大震災の際に、俳人・長谷川櫂が「震災歌集」を出していたなあ。
などと思ったりします。

窪田空穂全集月報6は「小説を書いたころ」という空穂の談話が載っておりました。
そこを引用。

記者】 小説を書かれてたころのお話をお聞かせいただけませんか。はじめは新体詩をお書きになっていて、歌から小説へといかれたわけですね。
窪田】 いまそんなこというとね、なにか意識的に、変わった飛躍でもするように聞こえるけれども、そのころは、広い意味の文学青年はね、なんだってみんなやったよ。だれだってね。短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの文学青年、みんなそうだった。
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