和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

地涌(じゆ)の菩薩。

2015-04-14 | 道しるべ
だいぶ前の話です。
同じ町に、ひとり暮しのおばあさんが住んでおり
(部屋を陶芸家か何かの方に、貸していたようです)、
時々バスで山から下りて来て、寄られたことが
あります。その際に立正佼成会の新聞と雑誌を
とっていただきたいとお願いされ。
ごく自然体で語られる穏やかな笑顔に、
とりあえずと、講読させていただきました。
その佼成新聞に「会長随感」というコラムがあり、
惹きつけられる魅力がありました。
それから何年たったでしょう。
毎回バスに乗ってこられては、
雑誌に新聞をはさんで置いていかれます。
たまに、立正佼成会の東京の本部に行って、
庭野日敬氏のお話を聞いてきたのですと、
そんなような感じで、話されておりました。
それから、庭野日敬氏がお亡くなり。
しばらくしてから、おばあさんも養老院に
入られ、亡くなったとお聞きしました。
もどって、
おばあさんが寄られている際に
会長随感の文庫をまとめて読みたいのですが、
というと、法話の数冊を無料でいただき。
たしか、庭野日敬著「法華経の新しい解釈」と
会長随感の文庫10冊は
買わせていただいたように思います。
そのまま本棚でホコリをかぶっておりました。

今日になって、「地涌の菩薩」について
読みたいと「法華経」の本をさがしてもなく。
そういえばと、まるっきり忘れていた
「法華経の新しい解釈」をとりだしてきました。
「従地涌出品第十五」(p294)をひらくと
このように解釈されております。

「この品(ほん)には、とくに大切な点が二つあります。
第一は、他の国土からこの娑婆へこられたもろもろの
菩薩が、世尊にむかって、わたくしどもも娑婆の衆生の
教化に協力いたしましょうと申しあげたときに、
世尊はきっぱりとおことわりになったことです。
そして、地べたから涌き出してきた多くの菩薩たちに
その任務を与えられたことです。
地べたから涌き出した菩薩というのは、
苦しみや悩みの多い現実の生活を経験し、
その中で修行を積み、そして
世俗の生活をしていながら高い悟りの境地に
達した人びとのことをいうのです。
こうして、自ら苦しみや悩みを経験し、
そこをつきぬけてきた人は、
ほんとうの力をもっています。
そんな人こそ、人を教化(きょうけ)する
力を具えているのです。
そういう地涌の菩薩に
この娑婆世界を任せられたということは、
つまりこの世界はそこの住人であるわれわれ自身の
努力によって清浄(しょうじょう)にし、平和にし、
われわれ自身の手で幸福な生活をきずきあげ
なければならないのだ――という教えなのです。
自分たちの浄土は、自分たちの責任において
築きあげなければならない。自分たちの幸福は、
自分たちの努力によってつくり出さねばならない。
――なんという力強い、積極的な教えでしょう。」


庭野日敬の「法華経の新しい解釈」が
本棚に眠っておりました。いよいよ
私にも、読み頃を迎えたようです。


追記

以前のブログにですが、
2013年2月3日の
「吉田の『菩薩』の表現」に、
昨日コメントが入りました。
杉山勝行氏からのコメント。
そのおかげで、背中を押されて、
法華経へと読み進められそうです。
この展開。私には、ありがたい。
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『多情多恨』丸谷解説。

2015-04-13 | 古典
岩波文庫の尾崎紅葉作「多情多恨」。
この解説は丸谷才一でした。
14頁にわたります。
ということで、その解説を
適宜引用(笑)。

「『多情多恨』は日本小説史を代表する
長篇小説数篇のうちの一つだとわたしは
思つている。」(p420)

「『多情多恨』が『源氏物語』に由来する
ことは、断定して差支へないと思はれる。
ここで一つ言ひ添へて置かなければならない
ことがある。といふのは、当時『源氏物語』を
読むのはごく特殊な人のすることだつたので、
たとへば夏目漱石も森鴎外も読んでゐなかつた
らしいといふ事情である。正宗白鳥などは昭和
にはいつてからウェイリーの英訳で読んだ
くらゐで、これは二重の意味で
(つまり『源氏物語』などを読むのかといふのと、
日本語ではなく英語で読むのかといふのと)
人々を驚かせた。」

「光源氏はあんなによく泣くからこそあの物語の
中心人物となり得たのだといふことを学んだに
相違ない。泣いてばかりゐる男を明治日本の
長篇小説の主人公にして、喪失と別れといふ
人生最大のそして最も普遍的な悲しみを描かうと
する破天荒な発想は、光源氏とつきあふことに
よつて生じた。それは天外より来る奇想のごとく
にして、しかもじつに安定してゐた。
自国の古典から摂取したものゆゑ、深く伝統に
根ざしてゐたからである。」

「ごく部分的にしかユーモアを用ゐないのが
『源氏物語』の一貫した方法であつた。ところが
『多情多恨』においては、喜劇的な手法が持続的
に用ゐられ、それが作品の地肌の重要な成分となり、
さらにはそれによつて現実感が強められてゐるので
ある。抒情も、感傷も、すぐそばに滑稽が存在する
ことによつて、かへつて、具体的な人生の部分と
なつてゐる。この技法がなければ世界が成立しにくい
ほどだつたと言つてもよからう。」


「ユーモアの質の高さに貢献してゐるものが
二つある。第一は文体で、
口語文がまだはじまつたばかりなのに、流暢で
完成された文章を紅葉は書くことができた。
もしもこれが文語文で行つたのなら、
これだけの効果はあがらなかつたはずで、
必要に応じて文体を工夫してゆく才能は
驚嘆すべきものがあつた。
第二は主人公の友人である葉山が諧謔好きなことで、
このせいで総じて話が湿つぽくならない。
何しろ友達の気鬱を案じて自分の家に同居させよう
といふ男だから友情にあつく、ものの見方が優しい。
どうやら読者はこの優しさに感染してしまふらしく、
鷲見の非常識な行為に対しても、葉山の寛容さに
似たものをもつてつきあふことになるのである。・・・」


は~あ。私は、これで満腹(笑)。
私の不幸は、解説だけ読んで
小説を読まないこと。
この不幸をプラスに
ひっくり返せるような糸口を、
今日の雨の日に思ってみる(笑)。
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明治期の文章論、文章作法。

2015-04-12 | 道しるべ
向井敏著「本のなかの本」に
中野重治『本とつきあう法』を
とりあげた魅力の一文があり、
忘れがたい。題して
『読書遍歴の醍醐味を披露』。

この一文に誘われて、以前に
芳賀矢一・杉谷代水共著の
『作文講話及文範』
『書簡文講話及文範』
を古本で購入したのでした。
内容はもう忘れるほどの
パラパラ読みでしたけど(笑)。

さてっと、
向井敏著「机上の一群」に
「近代日本の文体を定めた『多情多恨』」
という一文があって、そのはじまりは、

「杉谷代水の『作文講話及文範』
(上下二巻。名義上は芳賀矢一との共編。
初刊明治45年、冨山房。のち、上巻のみ、
講談社学術文庫)は、
五十嵐力の『新文章講話』
(初刊明治42年、早稲田大学出版部)と並んで、
明治期の文章論、文章作法を代表する力作・・」


ハイ。ここに、さりげなく
五十嵐力著「新文章講話」が出てくる。
う~ん。「力作」とあります。
本棚の
『作文講話及文範』の隣に
まるで、レモンでもおくように
五十嵐力著「新文章講話」を
並べることにします(笑)。


ところで、
五十嵐力の「新文章講話」というのは
どういう位置付けなのかと

まずは
斎藤美奈子著「文章読本さん江」の
引用文献/参考文献を見ると、
「文章史・作文教育史関係」の
最初の一冊目にありました。
その道ではよく知られている
本なのかもしれませんね。

つぎに、とりだすのは
谷沢永一著「大人の国語」(PHP)の
「附録『文章読本』類書瞥見」
こちらは、年代順にならび、
二番目にありました。
数行の引用がありがたい。
その箇所は

「五十嵐力(ちから)『新文章講話』明治42年
〈広告文〉
本書出でて忽ち十版を重ね、
本書の用語は我が文章界の通用語となり、
本書の組織は我が教育界に於ける文章教育の基礎となった。
本書は実に我が文章界に於ける空前の著述である。」

気になりますが、これを読んだだけじゃ。
私に、読む気はおこらないなあ。

ついでですから、この「類書瞥見」から
ここも、引用しておきます。

「芳賀矢一・杉谷代水合編
『作文講話及文範』大正14年
〈中野重治評〉
ところで文章の書き方について学ぶには
何を読んだらいいか。僕は太鼓判をおして
この書を推す。ああ、学問と経験のある人が、
材料を豊富にあつめ、手間をかけて、
実用ということで心から親切に書いてくれた
通俗の本というものは何といいものだろう。」


さてっと、私事、
読む読まないは度外視して、
まず、本棚へ肩を並べて、
置いとくことに(笑)。
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書物随筆の醍醐味。

2015-04-11 | 道しるべ
谷沢永一著「紙つぶて
自作自注最終版」(文藝春秋)の
白い表紙カバーが汚れるので
私なりに解決することに(笑)。

毎年無料で頂く薄茶色紙の
月一枚ずつの切り取りカレンダー。
その一枚の端をカバーの内側へと
折って包みこむ。それだけで完了。
折れば、ちょうどいいサイズ。
カレンダーは、各日付下に
メモ用数行余白のシンプルなもの。
カレンダーの曜日を表に出して折る。
それが、私のこだわり(笑)。

さてっと、これで本カバーの汚れが
気にならなくなる。改めて「紙つぶて」
をめくるって気になったのは、
自作自注のこの箇所でした。

「昨今の書物に関する本がぼちぼち
出はじめて楽しみを増してくれる。
ただし書評や書物随筆の醍醐味は、
取り上げた一冊にこだわらず、
それに関連する読書の話題を、
適宜に繰り出す手法にある。
この要点を忘れたら
筆致が痩せ細って味気ない。・・・・
正反対なのは向井敏の
『残る本残る人』の周到な構成である。・・
また『読書遊記』では・・・・・
また『机上の一群』では、十二頁を費して、
近代日本の文体形成史を辿っている。
杉谷代水の『作文講話及文範』を
巧みに活用して、尾崎紅葉の貢献を確認した。
・・」(p421)


こうして読書地図を示されて、
本を広げない手はない。

向井敏の
「残る本 残る人」
「読書遊記」
「真夜中の喝采 新編読書遊記」
「机上の一群」
「贅沢な読書」

をかき集めてくる。
うん。「また楽しからずや」。

ついでに、
尾崎紅葉著「多情多恨」(岩波文庫)
小松太郎訳「人生処方詩集」(ちくま文庫)
和田誠訳「オフ・オフ・マザーグース」(ちくま文庫)


おもむろに、「読書遊記」の
「後記」をひらいてみると、

「総題を『読書遊記』とした・・
・・・こういう苦労は
古来『遊記』を名のる本の宿命らしい。
呉承恩の『西遊記』をごらんなさい、
橘南谿の『東西遊記』をごらんなさい。
題こそ『遊記』でも、じつは艱難辛苦の
物語なので、『難記』とするほうがむしろ
ふさわしいものばかりです。・・・」

え~と。橘南谿といえば、
「紙つぶて自作自注最終版」の右ページ。
p532に、こんな箇所がありました。

「『江戸時代の書物の中で、
一番面白くないものはと問われたら、
私は躊躇なく雅文の紀行類を挙げる』
と中村幸彦は断言、
雅文の紀行と区別して、
『俗文で見聞の実を記し、奇を伝えたもの』
を旅行記と称し、
『雅文の紀行より遥かに文学的と思われる』
この種の俗文の旅行記が、
『文学史上に採り上げられたのは全くない』
という、その不審を鋭く衝いている。
橘南谿や古川古松軒や
松浦武四郎や高山彦九郎や横井金谷を
すべて排除した近世文学史の、
なんと無知偏狭なことよ。」


うん。私自身の『無知偏狭』を、突き崩すべく、
ともかく、読む読まないは別として(笑)、
橘南谿著「東西遊記」を座右に
置きたく思う。
桜も散り始め、薄寒空の今日は4月11日。
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言語技術の王道。

2015-04-10 | 道しるべ
本棚から
猪瀬直樹著「言葉の力」(中公新書ラクレ)
を取り出してくる。
その「おわりに」は
こうはじまっておりました。

「2011年3月11日。あの震災深夜、
僕の緊張はふたたび高まっていた。
ツイッターにつぎのような書き込み
を見つけたのは夜12時過ぎだった。

障害児童施設の園長である私の母が、
その子供たちと10数人と一緒に、
避難先の宮城県気仙沼市中央公民館
の3階にまだ取り残されています。
子供達だけでも助けて

テレビの映像で映し出された気仙沼
は燃えていた。
すぐに僕は、防災部長に
『大至急、副知事室にきてくれ』と
電話した。9階の防災センターから
6階まで走ってきた。
『これ、どう思いますか』
プリントアウトした上記の文面を
防災部長に渡しながら言った。
・・・・」(p198~)

真中を端折って、
恐縮ですが、p204には
こうあるのでした。


「同じことを僕の言葉で言い換えると、
ツイッターの140字は『本の帯』で
あると言える。URLのリンクをたどれば、
あちこちの情報源にアクセスできる。
短いツイッターは、長い本を読む
きっかけにもなっている。
ツイッターは過大評価するよりも、
機能の特質をつかむべきだと
考えたほうが正しい。つぎつぎと
現れ、つぎつぎと消えていく
タイムラインを見ながら僕は
思わずつぶやいた。『ツイッターよ、
お前はただの現在にすぎない』
ツイッターをきっかけに
言語技術を高めることが王道だと思う。」


新書は、すぐちらかり、忘れる。
猪瀬直樹著「言葉の力」を、
先頃でた新刊の
猪瀬直樹著「救出」(河出書房新社)
と並べて本棚へ。

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読書の趣味が嵩じると。

2015-04-09 | 本棚並べ
谷沢永一著「紙つぶて
自作自注最終版」(文藝春秋)は
カバーも表紙も白いので、
ぞんざいな私にかかると、
手垢で薄汚くなっている(笑)。
カバーをとろうとすると、
表紙はもっと白く、
もう黄ばみもポツリポツリ発見。

とりあえず、本棚から出したついでに、
パラパラひらくと、
うん。これは本の帯にでも使えそうな
言葉がありました。

「読書の趣味が嵩じると、
書物について書いた書物を
渇望するようになる。
いわゆる書物随筆の滋味を
かみしめるようになれば
・・」(p374)


う~ん。小説は読まない私ですが、
「書物について書いた書物」は、
どうして、こうも面白いのでしょうね。
これも、趣味の範疇。
きちんと、本を読まない癖して、
本についての本は読む。
食卓に、ありったけの
料理を並べての迷い箸。
ちょいと、食い散らしては
仕舞いこむ困ったさん。

うん。それにつけても、
この本のカバーの汚れ。
カバーにカバーをかけるか。
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けふは桜花の輝きを。

2015-04-08 | 詩歌
地方紙の記事に
「歌集は希望者に贈呈」
とあり、お願いすると、
本が届きました。

池田禮著「歌集 二つの道」
(禮の偏はネ)

素敵な本です。
ありがたい。
さっそく、すこし引用させていただきます。

ご本人の「あとがき」の
はじまりは

「百歳記念に『二つの道』と題して
吟道と歌道を文字に表した歌集を編みました。」

「あとがき」のおわりは

「この歌集上梓に際しましては、
歌友の前原武氏には心からのお力添えをいただき
ました。・・・今この日本に詩吟と短歌を愛する
人を合わせれば、何十万人もいることでしょう。
その一人として、百歳を凝縮した小歌集を世に
著すことのできた倖せを胸に満たしつつ、
万感の思いで筆を擱きます。
        平成27年3月1日     」



故里の生家の長押にかかる額
    温故知新は父の座右銘

慶応の世に生(あ)れし父
寺子屋に子女導きしと語りつがるる

久々に生家に来たり父書きし
温故知新の額に触れたり

ひたすらに漢詩きはめしわが父の
八十五歳たりて逝きたり

十頭の牛の飼葉を切りたりし
押切さびて厩に残る

来年は人に委ねん枇杷山に
一本ごとに礼肥(れいごえ)入るる

塹壕に見し満月になきたりと
夫のかきし文の残れる

短歌詠み漢詩吟ずるこの道は
われのいのちの支へとなれり

山陽の詩を吟ずればわが命
腹式呼吸に癒されてゆく

齢かさね短歌に挑むわが至福
枇杷実る日も稲穂垂るる日も

哀歓をかさねし吾の九十余年
けふは桜花の輝きを浴む

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池田禮さんの返歌。

2015-04-06 | 詩歌
地元地域に、4頁ほどの新聞があります。
その4月2日の記事が印象に残ります。

その記事の一部を引用。


「歌集上梓のきっかけは、
入所した特養ホームでの邂逅だった。
パートでホームに働く、
詩の『黒豹』同人、前原武さん(76)が
2年前、池田さんが若い男性介護員に
控えめな声で詩吟を吟じていたのを
耳にする。前原さんは翌日、
『びわの郷(さと)老ひの施設(いへ)
訪ふ白寿の婦詠み吟ずる聲の艶の若さよ』
の歌を贈る。池田さんの返歌は
『わが吟にこころそそぎて呉し君
雅の絆育みゆかな』。・・・」


さて、この歌集が手に入るかもしれない。
もし、手にしたら、このブログにて紹介
させていただきます。
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泣菫の一篇。

2015-04-05 | 道しるべ
あっ。
ひょっとしたら薄田泣菫を
読めるかもしれないと、
昨日思いました(笑)。

厚さ4・5センチで
国語辞典なみなのが、
書評コラムの谷沢永一著
「紙つぶて自作自注最終版」。

数年かぶり、そこに挟んでおいた、
新聞の切り抜き2枚をひらく。

一枚は
2006年1月8日毎日新聞の
毎日書評賞発表の記事。そこの
「受賞者に聞く」では、こんな箇所

「実は僕が手本にしているのは、
『大阪毎日新聞』に連載された泣菫の
『茶話』というコラムなんです。
子どものころ読んで夢中になった
天下の絶品で、これの現代版を作りたい
という思いで始めたのが『紙つぶて』です。」

二枚目は、2006年1月31日
読売新聞夕刊の浪川知子の記事。
そこにも、
「谷沢さんは『詩人の薄田泣菫が新聞に
書いた学芸コラム「茶話」が念頭にあった』
と明かす。古今東西の人物の知られざる逸話
をユーモアにつづった『茶話』は、大正時代
の人気随筆。・・・」


さてっと、私の知識はここまでで、
ちっとも、薄田泣菫への興味はわかず、
冨山房百科文庫も、歯が立たないで
おりました。

もどって、今回ひらいた
「紙つぶて自作自注最終版」。
その最後の書名索引に、
一箇所だけ載る「現代文章宝鑑」。
その頁をひらくとこうでした。

「『現代文章宝鑑』(柏書房)へ安藤鶴夫を
入れる際に私は躊躇せず『落語鑑賞』(旺文社
文庫)「寝床」の前文を採った。・・・」
という箇所。

それではと、これも古本で購入してあった
「現代文章宝鑑」を取り出してくる。
そこにある「寝床」前文を読んだのですが、
いまだピントこない(笑)。

この「宝鑑」は、共編となっており、
小田切秀雄・多田道太郎・谷沢永一の3人の
名前が載っておりました。
1979年9月と日付がある「はじめに」。
その「はじめに」の最後の4行を引用。

「いま、一般に文章離れ、読書離れなどという
ことがいわれ、たしかにそういう面も生じているが、
文章にはこんなにおもしろいものがある、こんなに
も手ごたえの確かなものがある、ということを本書に
よって知ってもらうことができれば、――
あるいは知ってもらうきっかけにでもなれば、
わたしたちは本望である。」

「宝鑑」の目次をパラパラとめくっていると、
芸談に、安藤鶴夫の文が一篇。そして
逸話に、薄田泣菫の文が一篇。
お二人とも、その一篇しか「宝鑑」に
登場しておりませんでした。
それではと、夜寝る前に、載っている
薄田泣菫の「大食と小食」の一篇をひらく。

あっ。これならわかる。
ちなみに、冨山房百科文庫の「完本 茶話 下」
をひらき、その同じ文をさがして読んでも
これが、同じ文なのに、つまらない(笑)。

「現代文章宝鑑」の一篇のおかげで、
薄田泣菫へのとっかかりがつかめました。
ありがたい。薄田泣菫へ参入できます。

そうでした。ちなみに、ここは
指摘しておかなきゃいけません。
「紙つぶて自作自注最終版」の
人名索引に、薄田泣菫の名はありません。
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見もせぬ人や花の友。

2015-04-04 | 詩歌
隣の家に桜の木があり、
今日みたいな雨の日は、
風に吹かれた花びらが、
うちの前の道路脇にも、
ペタリ貼りついてます。

桜を見にいけば、
咲いております。


他の本といっしょにいつのまにか、
しまいこんで、埃をかぶっていた
謡曲集を出してくる。
パラリとひらいた頁に
こんな箇所。

上歌地謡とあり

『見もせぬ人や花の友、
見もせぬ人や花の友、
知るも知らぬも花の陰に、
相宿りして諸人の、
いつしか馴れて花車の、
榻(しぢ)立てて木のもとに、
下(お)りゐていざや眺めん。
げにや花の下(もと)に、
帰らん事を忘るるは、
美景によりて花心、
馴れ馴れそめて眺めん。
いざいざ馴れて眺めん。
百千鳥、花になれゆくあだし身は、
はかなき程に羨まれて、
うはの空の心なれや。
うはの空の心なれ。』
( 右近 )
有朋堂文庫「謡曲集 上」p537より
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歌を忘れたカナリア。

2015-04-03 | 短文紹介
伊藤正雄氏に
「作文の鬼」という短文があり、
副題は「神戸女子大学就任の辞」でした。

「私の講義には一切大学ノートを用ひず、
四百字原稿用紙に筆記すべしといふことである。
絶えず原稿用紙に親しみ、その正しい使ひ方を
知ることが、文章の創作に向ふ第一歩だと思ふ
からだ。また毎時間必ず小型の国語辞典を持参
して、分らぬ字や言葉は、即座に辞書を引くこと
を励行する。字引に馴染むことが、正しい文章を
書く不可欠の前提だからである。・・・」
(「引かれ者の小唄」p57~58)

この本には、「詩を書く」という短文もあります。
そちらも引用。
はじまりは

「いつも二月になると憂鬱になるのは、
卒業論文の審査といふやつだ。・・
ことに苦手なのは現代詩の論文である。
・ ・質問のネタに困る。ただ幸ひなことに
(?)今の学生は例外なく文章がまづい。
到る所に誤字があり、筋の通らぬことを書く。」

こうはじまる4頁ほどの文を
カットして最後を引用。

「卒業論文に現代詩を選んだ学生の
口頭試問には、次のような訓辞を垂れるのを
常としてゐる。『詩を書くという言葉は
使はぬ方がよろしい。詩を作ると言ひなさい』。
彼らは半ば納得したかの如く、半ば不満を
禁じ得ぬものの如く、悄然として去って行く。
どうも現代詩人は、歌を忘れたカナリアの如き
奇形児に思はれてならない。だが、これほど
現代詩アレルギーの自分の体質の方が変態なの
ではないかと、いささか心細いのも事実である。」
(p46~49)

ちなみに、両方とも昭和48年頃の文でした。
さてっと
大学の国文の教師であった
伊藤正雄氏の文なので、それらしい箇所も引用。


「若い者には若い者の言葉があるべきだが、
過去の伝統を理解し、先人の知恵に学ぶだけの
用意がなければ、健全な国民文化の発達は
望めまい。そこに国語教育の重要な使命がある。
今の大学生は、不幸にしてそれだけの言葉や文字
の基礎訓練を受けぬままで入学して来る。かうした
学生をつかまへて、われわれ教師は何を講義したら
いいのか。・・・・
一面からいへば教師天国である。・・・今はノレンに
腕押しだから、格別勉強しなくても、結構お座敷の
勤まる有難い御時世となった。だが客種が悪いと、
こちらの芸も廃る恐れを免れない。」
(p41~42)


はい。こういう古本は、人気がないのか、
あんまり出回っていないようです。
うん。私みたいに、お小言を頂戴したい方、
そんな方には、うってつけの本(笑)。
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西高東低。関西のこども。

2015-04-02 | 地域
外山滋比古著「思考力の方法 聴く力篇」
にこんな箇所が。

「私はまた、小中学生の作文コンクールの類いの
審査員をした経験がある。前後、十年くらいは
その仕事をした。以前のことだから、いまもそう
であるかどうかわからないが、かつて経験したこと
で忘れられないことがある。何かというと、
関西のこどものほうが首都圏、その他の地方の
こどもたちより、作文がうまいということである。
・ ・そうして何人かの審査員の評価を集計すると、
上位入賞者は関西圏に集中するのである。たいへん
おもしろい結果だが、コンクールを主催するのは
全国紙だったりして、こういう地域的偏りは
学業上も好ましくない、と考えるのも無理からぬ
ことである。事務局の希望を汲んで、東京、関東を
中心に何名かを入賞者に入れるということが、
毎年のようにおこなわれた。
そういうことは、小学校低学年においていちじるしい。
学校で国語の勉強を重ねて、高学年になると、先の
ような西高東低はそれほどはっきりしなくなる。
低学年の関西の小学生は、生き生きした話しことば
で生き生きした文章にする。その点で、東のほうの
こどもは及ばない。
しかし、学校で話すことばは棚上げにして、
文章を読ませることだけを教育していると、
関西のこどもも関東のこどもと同じように、
知識のことばで文章を書くようになって、
おもしろくない作文を書くようになる、
というわけであろう。
学校のことばの教育は大いに反省しなくては
ならないが、そんなことに頭のまわる人は、
学校の先生などしていないだろう。」
(p182~183)


この前、NHKのBSだったか
林修の予備校の先生になる時期の、再現ドラマを
録画しておいて、見たら、これがおもしろかった(笑)。
数学専門なのに、現代国語の予備校の先生になり、
お金に困っていた時期に、さらに関西の女学校の
国語の講師も受持つことになるというお話でした。

それはそれとして、私の場合、
ネットで拝見しているブログは、
数人ほどの範囲なのですが、
そういえば、関西の方だなあ。
関西で育ち、東京に住んでいる方とか
だったりします(笑)。

ちなみに、
外山滋比古氏は愛知県出身。



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白墨の板書。

2015-04-01 | 短文紹介
名古屋のチョーク「フルタッチ」の製造会社
羽衣文具さんが廃業なのだそうです。
検索すると、3月31日付で廃業のご案内が
載っておりました。

ということで、
学校の白墨にまつわるエピソードを
外山滋比古著「思考力の方法 聞く力篇」
(さくら舎)より引用。

「かつては習字、書道が重視されていたから、
師範学校でみっちり書道の勉強をさせられた。
手本は文部省関係の書家(昭和ヒトケタの
ころは鈴木翠軒という書家であった)の書い
たもので、全国統一されていた。
卒業するころには、みんなそろって手本
そっくりの、美しい楷書の字が書けるように
なっていた。こどもたちは、先生の書く字を
見て、先生を尊敬した。うちの親たちが我流
で書く字などと比べて、天と地の違いがある。
習字の時間には、先生が大筆に墨をふくませ
て字を書く。その美しさは、何もわからない
一年生にもちゃんと伝わる。
そのころはひどい就職難で、大学を出ても
つとめるところがなくて、小学校の代用
教員をする人がいた。そういう先生は
楷書の書き方を知らない。
白墨の板書もだらしなく、すわりがわるい。
うっかりすると、行書のくずれた字を書く。
こども心にも、これはダメだと思ったり
するのである。
こどもたちは、水茎の跡(筆跡)うるわしい
正教員の先生の字とひき比べて、バカにした。
いまはほとんどなくなったが、すこし前まで、
戦前の師範学校教育を受けた人がいた。
まったく未知の人でも、字を見ただけで、
『この人は師範学校出身』とわかるのである。
美しく風格のある律儀な文字は、師範学校を
出ていないと書けない。
字を書くことにかけては、昔の師範学校は
世界的にも比を見ない教育をしたのだが、
話すことばにはまったく関心がなかった。」
(p105~106)



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