だいぶ前の話です。
同じ町に、ひとり暮しのおばあさんが住んでおり
(部屋を陶芸家か何かの方に、貸していたようです)、
時々バスで山から下りて来て、寄られたことが
あります。その際に立正佼成会の新聞と雑誌を
とっていただきたいとお願いされ。
ごく自然体で語られる穏やかな笑顔に、
とりあえずと、講読させていただきました。
その佼成新聞に「会長随感」というコラムがあり、
惹きつけられる魅力がありました。
それから何年たったでしょう。
毎回バスに乗ってこられては、
雑誌に新聞をはさんで置いていかれます。
たまに、立正佼成会の東京の本部に行って、
庭野日敬氏のお話を聞いてきたのですと、
そんなような感じで、話されておりました。
それから、庭野日敬氏がお亡くなり。
しばらくしてから、おばあさんも養老院に
入られ、亡くなったとお聞きしました。
もどって、
おばあさんが寄られている際に
会長随感の文庫をまとめて読みたいのですが、
というと、法話の数冊を無料でいただき。
たしか、庭野日敬著「法華経の新しい解釈」と
会長随感の文庫10冊は
買わせていただいたように思います。
そのまま本棚でホコリをかぶっておりました。
今日になって、「地涌の菩薩」について
読みたいと「法華経」の本をさがしてもなく。
そういえばと、まるっきり忘れていた
「法華経の新しい解釈」をとりだしてきました。
「従地涌出品第十五」(p294)をひらくと
このように解釈されております。
「この品(ほん)には、とくに大切な点が二つあります。
第一は、他の国土からこの娑婆へこられたもろもろの
菩薩が、世尊にむかって、わたくしどもも娑婆の衆生の
教化に協力いたしましょうと申しあげたときに、
世尊はきっぱりとおことわりになったことです。
そして、地べたから涌き出してきた多くの菩薩たちに
その任務を与えられたことです。
地べたから涌き出した菩薩というのは、
苦しみや悩みの多い現実の生活を経験し、
その中で修行を積み、そして
世俗の生活をしていながら高い悟りの境地に
達した人びとのことをいうのです。
こうして、自ら苦しみや悩みを経験し、
そこをつきぬけてきた人は、
ほんとうの力をもっています。
そんな人こそ、人を教化(きょうけ)する
力を具えているのです。
そういう地涌の菩薩に
この娑婆世界を任せられたということは、
つまりこの世界はそこの住人であるわれわれ自身の
努力によって清浄(しょうじょう)にし、平和にし、
われわれ自身の手で幸福な生活をきずきあげ
なければならないのだ――という教えなのです。
自分たちの浄土は、自分たちの責任において
築きあげなければならない。自分たちの幸福は、
自分たちの努力によってつくり出さねばならない。
――なんという力強い、積極的な教えでしょう。」
庭野日敬の「法華経の新しい解釈」が
本棚に眠っておりました。いよいよ
私にも、読み頃を迎えたようです。
追記
以前のブログにですが、
2013年2月3日の
「吉田の『菩薩』の表現」に、
昨日コメントが入りました。
杉山勝行氏からのコメント。
そのおかげで、背中を押されて、
法華経へと読み進められそうです。
この展開。私には、ありがたい。
同じ町に、ひとり暮しのおばあさんが住んでおり
(部屋を陶芸家か何かの方に、貸していたようです)、
時々バスで山から下りて来て、寄られたことが
あります。その際に立正佼成会の新聞と雑誌を
とっていただきたいとお願いされ。
ごく自然体で語られる穏やかな笑顔に、
とりあえずと、講読させていただきました。
その佼成新聞に「会長随感」というコラムがあり、
惹きつけられる魅力がありました。
それから何年たったでしょう。
毎回バスに乗ってこられては、
雑誌に新聞をはさんで置いていかれます。
たまに、立正佼成会の東京の本部に行って、
庭野日敬氏のお話を聞いてきたのですと、
そんなような感じで、話されておりました。
それから、庭野日敬氏がお亡くなり。
しばらくしてから、おばあさんも養老院に
入られ、亡くなったとお聞きしました。
もどって、
おばあさんが寄られている際に
会長随感の文庫をまとめて読みたいのですが、
というと、法話の数冊を無料でいただき。
たしか、庭野日敬著「法華経の新しい解釈」と
会長随感の文庫10冊は
買わせていただいたように思います。
そのまま本棚でホコリをかぶっておりました。
今日になって、「地涌の菩薩」について
読みたいと「法華経」の本をさがしてもなく。
そういえばと、まるっきり忘れていた
「法華経の新しい解釈」をとりだしてきました。
「従地涌出品第十五」(p294)をひらくと
このように解釈されております。
「この品(ほん)には、とくに大切な点が二つあります。
第一は、他の国土からこの娑婆へこられたもろもろの
菩薩が、世尊にむかって、わたくしどもも娑婆の衆生の
教化に協力いたしましょうと申しあげたときに、
世尊はきっぱりとおことわりになったことです。
そして、地べたから涌き出してきた多くの菩薩たちに
その任務を与えられたことです。
地べたから涌き出した菩薩というのは、
苦しみや悩みの多い現実の生活を経験し、
その中で修行を積み、そして
世俗の生活をしていながら高い悟りの境地に
達した人びとのことをいうのです。
こうして、自ら苦しみや悩みを経験し、
そこをつきぬけてきた人は、
ほんとうの力をもっています。
そんな人こそ、人を教化(きょうけ)する
力を具えているのです。
そういう地涌の菩薩に
この娑婆世界を任せられたということは、
つまりこの世界はそこの住人であるわれわれ自身の
努力によって清浄(しょうじょう)にし、平和にし、
われわれ自身の手で幸福な生活をきずきあげ
なければならないのだ――という教えなのです。
自分たちの浄土は、自分たちの責任において
築きあげなければならない。自分たちの幸福は、
自分たちの努力によってつくり出さねばならない。
――なんという力強い、積極的な教えでしょう。」
庭野日敬の「法華経の新しい解釈」が
本棚に眠っておりました。いよいよ
私にも、読み頃を迎えたようです。
追記
以前のブログにですが、
2013年2月3日の
「吉田の『菩薩』の表現」に、
昨日コメントが入りました。
杉山勝行氏からのコメント。
そのおかげで、背中を押されて、
法華経へと読み進められそうです。
この展開。私には、ありがたい。