和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

鶴見俊輔と漫画。

2019-01-05 | 本棚並べ
ちくま学芸文庫に
「鶴見俊輔全漫画論」1・2が入って、
気になっていました(笑)。

うん。古本で値段が下がってから
買えばいいと思っていたのですが
新年の読み物として少し安くなった
古本を買うことにして注文しました。

それが届くまでの時間をつかって、
本棚から、関連本を出してくることに。

鶴見俊輔著「漫画の戦後思想」(文藝春秋・1973年)
こちらは、装幀=佐々木マキ。
函入で、函の絵が魅力(笑)。
色も絵も楽しいので、
その函絵を紹介することに。

バラック風の露地裏で
(はい。つげ義春の世界に踏み込んだような)
子どもが鬼ごっこをしている。
赤い長靴をはいた小さい男の子が
板塀にむかって両手で目隠し。
「もういーかい?」という吹き出しは
函の後ろにありました(これは、見てのお楽しみ)。
露地の奥から、ひょっこりと顔をだしているのは
ねずみ男じゃありませんか。
カラーで紫色が、背景の空と、男の子の上着とズボンと、
そして、ねずみ男の衣服も紫。
バラックの露地裏全体が黄色で、不思議としっくりしています。
男の子の顔とお腹に出ている下着と、ねずみ男の顔
そして吹き出し、それだけは着色なしの白色。
う~ん。絵の説明はこれくらいにしましょ(笑)。


本のはじめにをひらくと、
まず、宮尾しげを「日本の戯画」からの引用が
興味をひく。
うん。これもネット古本で注文することに。
はい。本の巻末の参考文献一覧をみると、
気分が萎えるので、そちらは見ないように注意(笑)。

ここには、「はじめに」に正倉院が登場するので
その個所を引用することに。

「正倉院におさめられている
写経の中にも、らくがきがあるそうだ。
お経をうつす仕事をした人のすべてが、
いつもはりつめた気持ちで字をかいていたわけではない。
あたえられた仕事の単調さにあきれることもあっただろう。
うつしている仏典のおしえそのものに、
うたがいのきざすこともあっただろう。
となりあわせてすわっている仲間の雑談に
心をうばわれることもあっただろう。
そこで、仲間の一人が大議論をして
何かわめいている姿がえがかれた。・・・」(p11)

はい。「はじめに」のあとは、
「あとがき」の始まりを引用。

「この本を、私は、漫画が好きだから書いた。
忘れてしまったころのことを別にして、
私が読みとおした最初の本は、
宮尾しげをの『団子串助漫遊記』で、
まだ小学校に行く前に読んだと思う。
何度も読んだので、本のとじめがばらばらになってしまった。
同じ本をこんなに数えきれぬくらい読んだことは、その後ない。
・・・・
自分でも漫画をかきたいと思っていた。
一年生のころから雑文をあつめた個人雑誌に、
宮尾しげをの模倣のような漫画をかき、
五年生のころから、小学校のクラスではじめた雑誌の
あなうめに、田河水泡の影響をうけた漫画をかいた。
同級生の中には、私よりずっとすぐれた漫画をかく
ものが数人いて、かれらはクラスの漫画家として
重きをなしていた。・・・・」(p264)

うん。ひさしぶりにひらくも
「はじめに」と「あとがき」と
函絵の紹介で、私は満腹(笑)。


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九十(ここのそぢ)なかば過ぎたる。

2019-01-04 | 詩歌
1月だけ、読売新聞も購読することに。

1月3日読売新聞の文化欄。
  岡野弘彦氏の短歌三首。


 九十 なかば過ぎたる老いの身は 
      なほぞはるけき 人を思へり

 ふるさとの朝鮮に身をのがれゆき
     行方しれざる 友を忘れず

 海峡をはるか去りゆく船の灯は
    こよひも明かし。 独り寝むとす


新年の挨拶状をいただけたようで、感謝して読みます。
私など岡野弘彦氏のいない読売歌壇を思い描けないなあ。

ちなみに、岡野弘彦氏は1924(大正13)年、三重県の
代々神主の家に長男として生まれる。

こういう方と直接つきあうことがあるならば、
きっと、私など黙して語れないかもしれない。
活字なら手もとも軽く引用したり、語れたり。


そうそう、その次には小池光氏の3首。
そこから、一首をここへ。

 正月の新聞広げ足の爪きりてをりたる父をおもへり

はい。ぐっと身近な感じになります(笑)。




 
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とっくに中年をすぎたころ。

2019-01-04 | 本棚並べ
外山滋比古著「忘れるが勝ち!」(春陽堂書店)。
外山滋比古氏の新刊は多く、買うか買うまいか、迷います(笑)。
外山氏の本には、ときどき、私の知らない出版社から出た本が
まじっているのが気になっておりました。
今回の「忘れるが勝ち!」は春陽堂書店が発行所となっている。
うん。それで興味をもちました(笑)。

帯には「95歳、わたしは忘れることで生きてきた。」
とあり、帯には顔写真掲載されています。最近のお顔なのでしょうね。
はい。「待望の書下ろし」と赤枠。

あとがきの最後を引用。

「・・・
とっくに中年をすぎたころ、
何がきっかけであったか覚えていないが、
新しい生き方があるらしいことに気づいた。
・・・
もの覚えがわるくても、
頭がわるいとは言えない。
忘れっぽくても、
よくはたらく頭というものが
あるのではないか。
そう考えたのである。
ひょっとすれば、
そういう人間になれるかもしれない。
記憶がよくないからといって、
あきらめることはないのではないか。
そんな風に考えていると、
不思議と元気が出る。

本が読まれなくなった、
となげく声がなお続いているが、
発明、発見、独創を生むには、
あまり本など読まない方がよい
という考えが広まらないのは、
ひとつの問題であるとしてよい。
本をあまり読まなくても、
われわれは賢くあることができる。
本書は、その入り口である、
と考えてもらうとありがたい。

 2018年11月20日 外山滋比古 」


はい。本文からも一箇所引用。
「伝記と風化の関係」と題した5頁ほどの文。

ヘミングウェイの自殺について、
専門家が判断を誤った。ということから書き出して

「すこし風を入れないといけない。
まったくの第三者があらわれるのを
待ってもおそくないのが伝記である。

風化をおこす時間と距離がないと、
しっかりした伝記は生まれないことになり、
せっかちの多い日本に、
見るべき伝記がはなはだ少ない。」(P62)

「伝記にはやはり、
風化、忘却の期間が必要である。
よく知っている人より、
あまりよく知らない人の方が、
よい伝記を書くことができるのは、
おもしろい。」(P64)


うん。外山滋比古氏の本を読んでいると、
つい。思い浮かべる岸田衿子の詩があります。


  一生おなじ歌を 歌い続けるのは
  だいじなことです むずかしいことです
  あの季節がやってくるたびに
  おなじ歌しかうたわない 鳥のように

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千代に八千代にさざれ。

2019-01-01 | 本棚並べ
一歳過ぎと、一歳未満の二人の男の子。
まだ、言葉は話さないけれど、声は発する。

その声を聞いていたら、
思い出して、本棚から山口仲美編の
「暮らしのことば擬音語・擬態語辞典」(講談社)を
とりだしてくる。
うん。こちらは、文庫も出ているのですが、
文庫が出たおかげで、単行本の古本値が下がり、
605ページのきれいな単行本辞典が、
函入でもって安く購入でき。
そのまま、本棚に収まっておりました。

かといって、辞典を読むというのは面倒です。
そのところどころにコラムが挟まっている
ありがたさ。「山口仲美の擬音語・擬態語コラム」
と題して20のコラムが辞書の途中途中にあるのでした。
それに、各ページの下の段に注があり、
その注に擬音語・擬態語の漫画の一コマが引用されていたり。
凡例のなかに、こうあります。

「単に調べる辞典としてだけでなく、
読んで楽しめる辞典となるように工夫した。
コラム欄の設定、参考覧の充実。
コミック・挿絵の挿入は、そのための工夫である。」

ここでは、ひとつのコラムから引用。

「擬音語・擬態語は、生まれてはすぐに
消える語だと思われている。しかし、検討してみると、
意外に長寿。普通の言葉の寿命と何ら変わりがない。

900年前の『今昔物語集』という説話集・・・・
『季武(すえたけ)、河をざぶりざぶりと渡るなり』。
これは、『今昔物語集』に見られる擬音語の例。
『ざぶりざぶり』は、季武が幽霊の出るという河を
豪快に渡っていく時の水の音。現在でも、
こういう場合には『ざぶりざぶり』を用いる。
『日のきらきらと指し入りたるに』は、
『今昔物語集』の擬態語の例。
『きらきら』は、日が差し込む様子や
日に反射して物の光る様子に用いられており、
現在と同じである。また、『今昔物語集』では、
相手に気づかれないようにひそかに物の入ってくる音を
『こそこそ』。湯漬けを口にかきこむ音を『ざぶざぶ』
・・鉢が回転しながら飛ぶ様子を『くるくる』、
物の萎えるさまを『くたくた』と表現しており、
現在と同様である。・・・」

そして、コラムの最後は、こう締めくくっておりました。

「擬音語・擬態語は、決して流行語ではない。
日本語の歴史を脈々と生き続ける日本人の心なのである。」
(p257)

ちなみに、このコラムの題はというと
『一千年も生き延びる 擬音語・擬態語の寿命』
となっておりました。

はい。一歳前後のお子さんのお母さんは、
語りかけるように話しかけているのですが、
私などは、ついつい擬音語・擬態語のオンパレードで
赤ちゃんと話しているのに気づかされます(笑)。
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