和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

朗読と詩。

2022-08-13 | 本棚並べ
『教科書でおぼえた名詩』という本があって、
発行所は文春ネスコとなっておりました。
1997年第一刷で、私が持ってるのは第11刷(2001年)。

このカバー表紙の写真が印象に残ります。
昔の臨海学校の様子を切り取ったような一枚。

海岸の浅瀬で、大きな黒い浮袋に9人の子供たちと
一人の大人が写っています。陸の方からカメラをむけているようで、
短くした坊主頭の子どもらはカメラ目線で笑っています。
背景では、子供たちが水のかけっこをしたり、沖には船。
 ( カバー写真・田沼武能:江ノ島海岸で遊ぶ子ら1950年 )

それはそうと、この本は
「昭和20年から平成8年までに日本の学校でつかわれた
 中学・高校の国語の教科書・1500冊あまりから、
 だれでも一度は耳にしたことのあるなつかしの
 詩歌をよりすぐった愛唱詩歌集です。・・」

詩・俳句・短歌・漢詩・翻訳詩と並んで、237ページ。
詩のはじまりは、高村光太郎・宮沢賢治・島崎藤村とはじまり
現代詩の最後が、茨木のり子でした。

最初をめくると、こんな言葉ではじまっていました。

「すぐれた人の書いた文章は、それを黙読翫(がん)味するばかりでなく、
 ときには心ゆくばかり声をあげて読んでみたい。

 われわれはあまりに黙読になれすぎた。
 文章を音読することは、愛なくてはかなわぬことだ。

                    島崎藤村      」

ちなみに、島崎藤村の詩は4篇掲載されている。
「小諸なる古城のほとり」「椰子の実」「初恋」「潮音」。

島崎氏のこの詩は、残念私は音読する気になれませんでした

ちなみに、茨木のり子の掲載された詩は2篇。
「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」。

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控え目な『ね』。

2022-08-12 | 詩歌
茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」。
その終りの方を引用してみることに。

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしはとてもふしあわせ
  わたしはとてもとんちんかん
  わたしはめっぽうさびしかった

  だから決めた できれば長生きすることに
  年とってから凄く美しい絵を描いた
  フランスのルオー爺さんのように
                ね


この詩を、西原大輔さんはこう指摘しているのでした。

「戦中の愛国主義にも、戦後の自由放逸にも
 満足できない詩人は、第三の道を模索する。

 それこそが、もう若くはない茨木のり子が
 ルオーから学んだことだった。深い精神性を
 湛えた作品を最晩年に生み出したこの画家のように、
 詩人は『長生き』し、美しい詩を残そうと決心した。

 最終行の控え目な『ね』は、
 決意表明の気恥ずかしさを打ち消す効果を生んでいる。
 1953年東京国立博物館開催のルオー展が、詩の背景となっている。」

 ( p99 西原大輔『日本名詩選3 昭和戦後篇」笠間書院・2015年 )

うん。私は茨木のり子の詩を、どのように読めばよいのか迷っておりました。
詩「わたしが一番きれいだったとき」は、つかまえどころがわからなかった。
何だか、西原さんの言葉で、やっと尻尾を見つけたようなそんな気がします。



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詩人が語る他人の詩。

2022-08-11 | 詩歌
石垣りん著「詩の中の風景くらしの中によみがえる」(婦人之友社・1992年)
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書・1979年)

はい。この2冊を思い浮かべる。そういえば、2冊とも女性の本。
なんでだろうと思ったら、そうだ男性は詩の守備範囲が広すぎる。
現代詩に限らずに、短歌から俳句からなにからなにまで呑みこむ。
それとくらべるなら、2冊の女性の本はすっきりとしてるのでした。

まずは、「詩の中の風景」をひらくと、アレレ、
金子光晴の詩「森の若葉」が引用されてます。
その解説の石垣りんさん。

「初孫への愛を存分に傾けた一冊の詩集『若葉のうた』は、
 昭和42年(1967)発行。『森の若葉』はその巻頭に。
 因に『森』は戸籍上の姓、森家に芽生えた小さないのち、
 という含みもある題名とききました。 」(p38)

うん。せっかくですから、詩『森の若葉』から断片引用。

 小さなあくびと 小さなくさめ
 それに小さなしゃっくりもする
 
 ・・・・ 
 
 しょうひちりきで泣きわめいて
 それから 小さなおならもする

 森の若葉よ 小さなまごむすめ
 生れたからはのびずばなるまい


『小さなおならもする』とありました。
はい。私はこの頃しまりがなくて、歩きながらおならをしてる。
そういえば、この夏は汗ばかりで、おならをしてないなあ。
ということで、おなら。
まど・みちおの詩『おならは えらい』もとりあげられてます(p94~95)
うん。ここは、短い詩の全文を引用しておかなきゃ。

   おならは えらい
  
   でてきた とき
   きちんと
   あいさつ する

   こんにちは でもあり
   さようなら でもある
   あいさつを・・・

   せかいじゅうの
   どこの だれにでも
   わかる ことばで・・・

   えらい 
   まったく えらい


この本は、ページの上の3分の1ほどに小さな文字で詩が置かれ、
その下の、3分の2ほどが石垣りんさんの詩にまつわる短文です。
この詩を、石垣さんはどう語っていたのか、そのはじまりだけ。

「 一読して、ほんとにえらい、と思いました。
  何がえらいのか、たぶん作者です。

  世間という表通りのようなところから、
  ひたかくしにされているものを、
  天下晴れた存在に高めてしまう。・・・・    」

はい。この詩は、私はこの本で出会いました。
うん。さっそく、声を出してよんだのでした。


山村暮鳥の詩『ある時』(p56~57)もありました。
ここは、石垣りんさんの文を引用してから、詩を引用。

「詩がはたらきかけてくれる笑いの要素は、今のところ稀少です。
 詩を読んでいて笑うことはあまりありません。
 ハエの詩には思わず笑ってしまい、・・・・    」

「 山村暮鳥は明治17年に生まれ、神学校を出たあと牧師になりましたが、
  やがて結核になり大正13年、40歳で亡くなりました。
  生涯貧しい暮らしの中で子供を愛し、買ってやれない玩具の代りに
  童話を書いた、という話も聞きました。・・・     」


    ある時     山村暮鳥

  わたしはうやうやしく
  いつものやうに感謝をささげて
  すうぷの椀をとりあげました
  すると
  その中におちて
  蠅が一ぴき死んでゐるではありませんか
  おお神様
  じやうだんではありません


    ある時

  また蜩(ひぐらし)のなく頃となつた
  かな かな
  かな かな
  どこかに
  いい国があるんだ


はい。この本の装幀・画は島田光雄。
表紙カバーは、あれれっと意外で、一目見ると忘れ難い。
せっかくですから、もう一冊の『詩のこころを読む』から
一箇所だけ引用しておきます。

「   悲しめる友よ   永瀬清子

  悲しめる友よ
  女性は男性よりさきに死んではいけない。
  男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、
          又それを被わなければならない。

男性がひとりあとへ残ったならば誰が十字架からおろし埋葬するのであろうか
聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、
  あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。
だから女性は男より弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らない
とか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない
これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、
       女子大学で教えないだけなのだ。

                 ( 短章集2『流れる髪』 )   」

これを引用したあとの、茨木のり子さんの文が、一読忘れ難かった。

「愛する人を失って悲嘆にくれる友人をなぐさめる形になっています。
 なくなったのは、友人の恋人か夫かわかりませんが、なぐさめ励ましたい
 という作者の願望が、真底からほとばしり出て、ついに
 『これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、
  女子大学で教えないだけなのだ。』という、
 実に痛快な結論に達してしまいます。

 女房より先に死にたいと願っている男性はいっぱいいますし、
 実際、女房に先だたれた男ほど哀れで、こころもとなく見える
 ものはありません。年をとればとるほどそうで、何かを
 ごっそりもってゆかれたみたいにへたります。

 女が生き残った場合はなんとかさまになっているのはどうしてだろう、
 折にふれて考えさせられてきましたが、『悲しめる友よ』を読んでから、
 いい形をあたえられたようで、ひどくはっきりしてきました。・・ 」
                       ( p208~209 )

うん。ここで切ってしまうと、まだまだ続くのり子さんの文が
尻切れトンボになってしまいますが、ここまで。

うん。永瀬清子も、山村暮鳥も、金子光晴も・・・
どなたの詩もそれ以上読もうと思わなかったなあ。
私の場合は、石垣りん、茨木のり子のお二人の本でもう満腹。


   
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評論家も歌う、流行歌。

2022-08-10 | 本棚並べ
本はネット古本での注文を、チョコチョコします。
昨日届いた古本は、
山本安見著「走馬燈 父山本健吉の思い出」(富士見書房・平成元年)。

大岡信・丸谷才一対談「唱和と即興」(「古典それから現代」構想社より)
での対談のなかでの、山本健吉氏が印象に残っておりました。

うん。まずは、その対談からピックアップ。

大岡】 ・・・挨拶ということについては山本健吉さんなどが
    力説されていますが、虚子は『贈答句集』がすばらしいという
                      ( p92 )

丸谷】 ・・この間、山本さんの『芭蕉全発句』の書評をかいて、
    その中で、戦後の俳句論の歴史はすべて山本健吉『挨拶と滑稽』で
    言ったとおりになってきていると言ったんですけどね。

    これはぼくの誇張じゃなくて、
    虚心に見ればとうしてもそういうことになる。   ( p107 )


大岡】 挨拶と即興ってことは、とっても重視してる。
    これは山本健吉論として、非常に面白いんだな。

丸谷】 山本さんは話をしていると、滑稽、ユーモア
    そういうものをとっても愛する人ですよね、生活においては。

大岡】 そうそう。文章を書くと、真面目な面が表に出てくるんだろうな。
    ・・

大岡】 ぼくは山本さんの『古典と現代文学』を、
    あの当時読んでたいへんな名著だと思ったし、
    いまもそう思っていますが、あそこに言われていたことは、
    ほんとうに重要な問題ですね。

    で、さっきも話に出たけれど、われわれの世界では
    即興ということは、ほんとに問題にされない。けれど
    挨拶に関しては、わりあいとつつきやすいんじゃないでしょうか。
    俳句作者も、挨拶ということを
    もっと突っ込んで考えたらどうだろうか。    ( p108 )


   ちなみに、対談「唱和と即興」は、初出一覧に、
   『俳句』1974年9月号に掲載されたとあります。


はい。引用が長くなりました。
山本健吉の仕事と家庭生活というのが、何となく気がかりでした。
もちろん、私は山本健吉の本は読んだためしがないのですけれど。

まあ、そんなことを思っていたのでしょうね。そうすると、
山本安見著「走馬燈 父山本健吉の思い出」が、古本で200円。
これなら、おかたい評論を仕事とする山本健吉の本とはちがって、
身近な生活感からはいっていけそうです。
娘さんから見た山本健吉が語られておりました。
うん。一箇所引用。

「・・・何しろ評論なんて七面倒臭いものを書いている・・
土屋文明の歌の
『評論はむづかしき事を常として我が事あればその件りだけ読む』
というのを父はよく呟いていた。・・・・・

『新潮』に『いのちとかたち』を連載していた時は、
ちょっと音をたててもイライラとする様子がわかった。
・・・もっぱらダスキンを使った。テレビも殆ど音なしで、
母と画面にくっついて観ていた。我が家は狭く、
台所兼食堂と書斎兼応接間は続いていて、音は丸聞こえだ。

父が原稿用紙をピリッとめくるたびに、こちらの神経もピリッとなる。
それだけに、『出来たッ!』と父が言って立ちあがると、
我々は思わず『バンザーイ』と叫んだ。

たいてい夜中の二時、三時。
それから柔和な顔つきに戻った父と酒盛りが始まる。・・・

ご機嫌がよくなるにしたがって歌が出てくる。
いよいよワンマンショーの始まり。母と私はもっぱら聞き役。

八代亜紀の舟唄『お酒はぬるめの・・・』に始まって、
『津軽海峡冬景色』、沢田研二『抱きしめたい、ラブ』や
越路吹雪の『ろくでなし』、最後は必ず森進一の『襟裳岬』となる。

特にこの歌のもつイメージにひかれ、
『襟裳の春は何もない春です』の『何もない』が気に入っていた。

『見渡せば花も紅葉もなかりけり』に相通じる詞として、
定家の三夕(さんせき)に匹敵すると惚れ込んでいた。

・・・歌手自身思いきって冒険したと思われる歌が父は好きだった。」
                  ( p186~187 )

はい。ここでは、引用は一箇所だけにしておきます。

本棚には、バラバラにすると何やらわからなくなる4冊を並べることに。

 丸谷才一対談集「古典それから現代」(構想社)
 高浜虚子「贈答句集」
 山本健吉著「古典と現代文学」(講談社・昭和30年)
 山本安見著「走馬燈 父山本健吉の思い出」(富士見書房)
 
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文字知らざりし頃の鳴声

2022-08-09 | 詩歌
詩や俳句は、余白がひろく、涼しげで。
はい。何だかそれだからか惹かれます。

ということで取りだしたのは、古本で
「定本中村草田男全句集」(集英社・昭和42年)。
はい。一冊なのでパラパラと夏をさがしながらめくります。

昭和29年の句に

  文字知らざりし頃の鳴声青蛙   ( p390 )

うん。そういえば、虫や動物の句が気になりました。

 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る  ( p60 )

あれれ、坂の上、というのがありました。

 坂の上(へ)ゆ夏雲もなき一つ松   ( p73 )

 青雲白雲夏の朝風一様に       ( p89 )
 萬緑の中や吾子の歯生え初むる    ( p89 )

 炎天に妻言へり女老い易きを     ( p93 )

 昭和15年の句に

 詩よりほかもたらさぬ夫(つま)に夜の餅  ( p133 )

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る      ( p140 )

 昭和17年の句に

 夜の蟻迷へるものは弧を描く     ( p178 )


 昭和21年の句

 人も夏荒れたる都八雲立つ     ( p238 )

 永久(とは)に生きたし女の声と蝉の音と  ( p238 )

 響爽かいただきますといふ言葉    ( p244 )

 昭和22年の句

 黴る日々不安を孤独と詐称して    ( p256 )

 炎天や空にさまよふ流行歌      ( p261 )


 昭和23年の句 

 無学の責め前より寒気うしろより   ( p291 )

 冬の蠅ちりあそぶごと吾子の詩句   ( p292 )

 昭和24年の句

 緑陰の言葉は熱せずあたたかく    ( p307 )

 昭和26年の句

 回想自ら密度に誇り法師蝉      ( p331 )

 文字の上意味の上をば冬の蠅     ( p331 )

 昭和28年の句

 幼きをみな蜩どきの縞模様      ( p365 )

 そうして、昭和29年の句

 文字知らざりし頃の鳴声青蛙     ( p390 )
 



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その名は若葉。夏芽。

2022-08-08 | 詩歌
今年の4月に500円で買ってあった古本
金子光晴著「詩集 若葉のうた」(勁草書房)。
副題には、「孫娘・その名は若葉」。

うん。この本のなかに、詩『若葉よ来年は海へゆこう』
がはいっているので、詩集としてひらいてみたかった。

普通の単行本サイズで全157ページ。
函入りで、カバーをはずせば、うすいグリーンの布張り。
カバーのデザインもグリーンとうすいブルーとが交互に
配色されていて若葉ごしに青空が見えているような印象。

函は、なんていったらよいのか、
家でいえば、コンクリートのうちっぱなしのように、
函は、段ボールの函のまま。そこにギフト用の、のしが
貼ってあるような、その熨斗(のし)紙に題が記されてる。

「増補詩集 若葉のうた 新版」という題。こうもあります。

 題字 金子光晴
 装画 森 若葉
 装画 森 夏芽
 装丁 高橋 弘

小さい女の子の夏休みの宿題の絵や版画みたいなのが
函をみると3枚さりげなくプリントされておりました。

うん。もうすこしつきあってください。
私が買った古本は、増補版。
最後をひらくと、こうあります。

 詩集 若葉のうた 増補新版
昭和42年4月20日 第一版第一刷発行
昭和49年1月10日 増補版第一刷発行
昭和55年8月20日 増補新版第一刷発行

ということで、この古本の詩集の最後のほうには  

     跋(増補版によせて) 金子光晴

という文がついておりました。
はじまりを、引用してみます。

「 『若葉のうた』を補筆、改装して、もう一度出すことになった。

  『若葉のうた』は出した当時、世のたくさんな人たち、
  とりわけお母さんたちにたのしんでいただいた。
 
  それに比例して、むづかりやの批評家からは、
  『そんなわかりやすい詩を書いたら、権威が台なしではないか』
  と叱責された。
  
  いづれも僕への親しみを通してのことなので、
  ありがたくうけ止めて置かねばならない。

 しかし、詩が本来、人の心と心とをつなぐ言葉の芸術であり、
 この世界の理不尽をはっきりと見分けられるためのジムナスである以上、

 愛情を正常にとらえ、愛情のもつエゴイズムと、その無償性を示すことは、
 芸術、特にここでは詩のもつ重大な意義と僕は考えている。・・・・・ 」
    
このあとに増補版を出すまでの、時間の経緯が語られておりました。

「・・その間に、若葉の妹夏芽がうまれすくすく大きくなり、
 ことしは若葉が小学校の二年生になり、夏芽も幼稚園の二年生にすすんだ。

 この姉妹のコンビは、我家の貧しい雰囲気に、薔薇の匂をふりまき、
 笑いのリトムを添えている。ひろいあげる取材も数多いわけだが、

 祖父は、気力がうすれ、祖母はまだ病身を、床に横たえて
 くらしているという状態で・・続篇ができることもあてにならない
 ことなので、新しく増版されるこの機会に、

 二人になった孫たちをテーマにした、まだなまのままで、
 推敲の及ばない品物・・を添えて出すことにした。・・・    」
                      ( p144~146 )

ということで、最後に引用するのは、増補詩集の最後に載せてある詩。


     旅

    若葉と夏芽はときどき
   派手は喧嘩をするが、
   小さい夏芽が、いつでも
   敗けているとは限らない。

    でも、彼らには喧嘩もあそび。
   殴るのも、引掻くのもあそび。
   負けない根性の意地張りの夏芽は、
   あいての仕掛けた通りを返えす。

    犬と猫のような姉妹が、
   子供部屋で居なくなったやうに
   しづかに話していることもある。
   姉らしく教えたり、妹らしく素直にきいて。

    『おぢいちゃん、いい人?
   それとも、わるい人?』と妹。
    『どっちか、夏芽が考えてごらん。』
    『そとへゆくとお土産をくれるから

    やっぱりいい人。お姉ちゃん。』
   ふと耳に止めて老人はほくほく顔。
   ママの苦情も忘れて、リカちゃんか。
   それとも色鉛筆と帳面にしようか。

    二三日前から、姉妹は部屋の隅で、
   額を寄せてひそひそと相談してゐる。
    なにかたいへんな企らみごと、
    なにかすばらしいおもいつき?

    だが、なにごともなく日は過ぎて、
   忘れたころになって、ママが見付けた。
   玄関の上りがまちに並べた学校鞄や
   紐でしばった空箱や風呂敷包。

    ひらいてみると、歯楊枝(ぶらし)。お手玉、
   着換え人形など。
    『こんなものどこへもってくの?』と、
   ママがきくと、

     姉妹は 口を揃えて言う。
      『ふたりで、旅行するの』と若葉。
      『ゆく先は、ミュンヘン』と夏芽。
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秋の部と、夏の部。

2022-08-07 | 詩歌
ちょっと夏を忘れるような、すごしやすい気候がつづきました。

中村草田男著「蕪村集」の『夏の部』をひらく、
ついでに『秋の部』のはじまりをめくってみる。

『秋の部』はまず「おどろく」が三句つづきます。

  おどろく。おどろきぬ。おどろきやすし。

というぐあい。ここには三句目を引用。


  唐黍のおどろきやすし秋の風


この草田男訳はというと

「 唐黍の長い葉はちょっとの風にあっても
  すぐに左右されて、ざわざわと揺れるものであるが、

  近頃では小止みもなしにぎょうさんに驚き騒ぐ
  ような音を立てている。そういえば、もう
  秋風らしい強い風が遠慮なく天地を吹き渡っているのである。 」


「 ・・・正面から『秋風』を採り上げている。
  『おどろきやすし』は、唐黍の葉の習性を描破すると同時に、
  それが万物にさきがけて秋風の訪れを感知している
  気持ちがあらわされている。・・           」

            ( p214~215 「蕪村集」大修館書店 )


まだ、秋は来てほしくないんだ。
私が好きなのはなんだかんだ夏。

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与謝蕪村と井上陽水

2022-08-06 | 詩歌
「 蕪村は宝暦4年ごろ丹後に遊んだが、
  そのまま同7年までいわゆる与謝の地に滞留してしまった。

  ・・・・帰洛後谷口姓を与謝姓に改めたことからも・・・
  彼は美景の中に悠遊しつつ、主に画技の研鑽に努めたのであるが、
  一方俳諧の同好の士をも多く得て、それとの交遊をも楽しんだのである。」

         ( p162~163 中村草田男著「蕪村集」大修館書店 )

中村草田男は、ここで、蕪村の夏の俳句を紹介しているのですが、
その句の前書をとりあげております。

「( 白道上人のかりのやどり玉ひける草屋を訪ひ侍りて
   日くるるまでものがたりして・・・・云々     )、

  の言葉があって、その続きに、

 ( 前に細川のありて潺湲と流れければ )
  という前書を付けて誌されているものである。

 つまり、白道上人の草庵へ訪い寄った時の
 実経験がそのまま句作の動機となっているわけである。  」

その蕪村の句はというと

       丹波の加悦(かや)といふ所にて
   夏河を越すうれしさよ手に草履 

 注:加悦は丹後与謝郡にある、宮津の西南の地。丹波としたのは誤り。

中村草田男は、この句に『少年』を編みこむようにして読解しております。
うん。そこに注目する箇所を引用してみます。

「 もしこの句に前書がなかったならば、我々は主人公として
  一人の少年の姿のみを想像するに相違ない。・・・・・・

  むしろ我々が終生『思い出』の中に老いざる姿として
  保持し続ける『少年時代』という意味に近い性質のものである。 」


『少年時代』とくれば、つぎはもう、
 与謝蕪村から井上陽水へ夢の道筋。



注】 潺湲(せんかん):水が流れる音
   潺潺(せんせん):さらさら流れる浅い谷川の音

  

                     
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夏もさすがに夜半の大気

2022-08-05 | 詩歌
中村草田男著「蕪村集」(大修館書店・1980年)を
ひらいてみる。俳句が季節ごとに章立てされていて、
それではと、『夏の部』をひらいてみる。

草田男さんは、蕪村俳句を読み解きながら
『立派に一編の小品小説を書き替えられそう』と記すのでした。

それでは引用。

  鮎くれてよらで過行(すぎゆく)夜半(よは)の門

これを草田男さんは、どう訳して語っているか?

「 夜中に門を叩く者がある。
  何事かと起き出て門の戸を開けてみると、
  闇から声をかけるのは友人であった。

  ほのかに浮かんだ姿を見ると、
  尻からげのはだしという恰好であって、

 『 鮎の夜釣りでいま帰宅するところだ。
   獲物が意外に多かったから、おすそ分けしよう。

   明朝改めて届けるのでは、せっかくの味が落ちてしまって
   もったいないと、迷惑な時間とは承知しながらおどろかした次第だ。』

  と容器を要求する。手早く分け終えると、

 『 疲れているだろうから、しばらく憩って行くがいい。』
    というこちらの挨拶には耳もかさず、

 『 こんな時刻に手間どっては双方迷惑だ。 』
    と、サッサと行き過ぎてしまった。

  その後ろ姿へ追いかけて礼をいい、
  やがて門の戸を閉ざしていると、

夏もさすがに夜半の大気は、寝巻を透して冷やひやと覚えられる。
そして、手にした容器からは鮎独特の上品な強い香気がたちのぼっている。」
                    
                         ( p173 )

はい。残念ですが、獲れないし、さすがに鮎くれる友人はなし。
けれども、この時期ならでは、近所からは獲れすぎたキュウリや
ナス、ゴーヤのおすそわけがまわってきたりします。
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『海の子』高田敏子。

2022-08-04 | 詩歌
高田敏子の娘・久冨純江の本「母の手」(光芒社・平成12年)。
この本で、高田敏子と、海のつながりがつかめて印象深かった。
この機会に、それをとりあげてみます。

「 母(高田敏子)は海が好きだった。
  子ども時代に親しんだ房総の海、
  娘時代に長逗留した三浦三崎での思い出が
  母と海をつないでいる。 」  ( p96 )

純江さんが、母親につれられて海へゆく箇所が印象深い。

「 私(純江)が中学から高校にかけての夏休みは、
  毎年、逗子の葉山海岸にある父の会社の寮に出かけた。
  昭和20年代中頃のことだ。

  海へ行く一週間前、母は徹夜つづきとなる。
  お客さまの仕立て物をすませてから、私たちの
  外出着と水着を縫う。・・・・

  海に面した寮の庭の隅にはトタン屋根の細長い炊事場があり、
  かまどからずらりと並んでいた。まだ物がない時代で、
  食料は各自で持参し自炊することになっていた。・・・・・

  母には娘時代、毎年三浦三崎の漁師さんの家を借りて、
  一家で一夏を過ごした思い出がある。
  その体験を再現したかったのだろう。
  普段、・・仕事に追われているが、
  この海の家では率先して遊ぶ。

  一番楽しんだのは母だったようで、
  親の解放感がこちらにも伝わってきて嬉しくなる。

  私たちは泳ぎを教わるのだが、やがて、
  『 あなたたちはここで見ていらっしゃいっ! 』
  と言い残すと、

  沖にある飛び込み台まで一人すいすいとノシで泳いでいく。
  豆粒ほどに小さくなった母が台の上から手をふり、ひらりと飛び込む。
  消えてしまった母がこちらに向かって泳いで来るのを、
  波間に見つけるまでは不安でならなかった。   」( p53~54 )


こうして、詩も引用されておりますが、
ここには、詩「布良(めら)海岸」の箇所から引用。

「 母の代表作ともいわれる『布良海岸』の詩は・・
  『銀婚』七号(昭和36年8月)に載ったものだ。

      布良海岸 

   この夏の一日
   房総半島の突端 布良の海に泳いだ
   それは人影のない岩鼻
   沐浴のようなひとり泳ぎであったが
   よせる波は
   私の体を滑らかに洗い ほてらせていった
   岩かげで 水着をぬぎ 体をふくと
   私の夏は終わっていた
   切り通しの道を帰りながら
   ふとふりむいた岩鼻のあたりには
   海女が四五人 波のしぶきをあびて立ち
   私がひそかにぬけてきた夏の日が
   その上にだけかがやいていた。

 ・・・・母からの書簡の一部も掲載されている。
 ≪『布良海岸』は 1961年発行の〈銀婚〉に発表したものです。
  布良に行ったのはたしかその前年だったと思います。

  8月中旬の布良は夏休みと思えないほど静かで、
  泳ぐ人の姿も見えませんでした。

  青木繁の画材になった布良に、
  長年ゆきたくねがいつづけておりました。

  館山の近くの那古船形には子供時代に何年か、
  夏休みを過ごしました。那古観音様には
  毎朝お参りしてハトと遊びました≫  」   ( p83~84 )


『野火の会』を語る中に、北海道の屈斜路湖で泳ぐ場面があります。
うん。遠回りしながら、最後にそこを引用して終ることに。

「『野火の会』は、昭和35年から数年間、母が朝日新聞の家庭欄に詩を
 連載したのがきっかけで生まれた。
 詩を読んだ人々から『自分も詩を書いてみたい』、『指導をしてくれ』
 というような手紙をいただくようになる。・・・・ 」( p155 )

「『野火』の創刊号は・・昭和41年1月にできあがった。母は51歳だった。」
                         ( p157 )

はい。屈斜路湖の場面になります。

「 北海道釧路に近い屈斜路湖で、
  63歳の母がスリップ姿で泳いでいる写真がある。

 ある詩碑の除幕式に参加するために『野火』の人たちと旅したときのもの。
 その日は、宿の人が泊り客のために、あわてて扇風機を借り集めたという
 ほどの珍しい暑さだったそうだ。

 貸切のマイクロバスを湖畔にとめて休憩したとき、
 泳いでいる親子の姿に誘われてか、暑がりの母は

 『私も泳ごうかしら』と木陰で洋服をぬぐと水の中に入っていった。
 娘時代はスリップで泳ぐことも珍しくはなく、泳ぎの大好きな母は
 北海道の広い湖水を目の前にして思わずひと泳ぎしたくなったようだ。

 そのとき、母につられてともに泳いだ方は
 『思いがけない楽しさだった』、『いい思い出』、
 と懐かしそうに話してくださったけれど、
 その場にいなくてよかったと私は胸をなでおろす。・・  」( p164 )

 
 

 
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わたしは海の子です。

2022-08-03 | 詩歌
小学校の頃の、修学旅行は箱根でした。
6年生は2クラスあって、合同で講堂で説明をうけた。
そのなかで、唱歌「箱根八里」の歌詞の説明があった。

   第一章 昔の箱根

 箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず
 万丈の山 千仞の谷 前に聳え後(しりえ)に支(さそ)う
       雲は山をめぐり
       霧は谷をとざす
  ・・・・・・・


わからないながらも、歌詞にはこんな意味があるのだと、
字面だけを、パクパクと追っていたものには驚きでした。

安野光雅さんの文に、こんなはじまりがありました。

「 わたしが子どもだった昭和初期の時代には
  まだ文語文の世界がありました。

  学校で習う唱歌の『我は海の子』などはいい例です。
 『函谷関(かんこくかん)もものならず、
  万丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷』と歌う、
 『箱根の山』もそうで、函谷関を見たこともなく、
  また万丈の山という言葉の意味もわからぬのに、
  文語文の描き出す世界は、理屈抜きで心に響くものがありました。

  そのむかし、文字に書き残して、
  何ごとかを人につたえようとする文章は
  文学に限らず日常の手紙も算数の文章題も、
  張り紙の文句も、およそみな文語文でした。

  以前、山梨県に向かう小仏峠を行ったとき、
 『曲折多し、谷深し』と書いた交通標語がありました。
  これも文語文の余韻があるためか、いまだに覚えています。」

 
ちなみに、安野光雅さんは、1926年島根県津和野町生まれ。
引用を続けます。

「・・・わたしたちの世代は、その両方にまたがっているためか、
 文語文の持つ、荘重、簡潔、明快、覇気、といった
 一種の雰囲気の快感が忘れられないでいるのです。

 『我は海の子』という言い方を、口語文に直訳すると、
 『わたしは海の子です』ということになってしまいます。

 『我は海の子』という言葉はどうしても、
 口語に直訳することはできないと思いますが、
 それでも歌っているうちに『苫屋(とまや)』という言葉も知らないのに
 『煙たなびく苫屋こそ、我が懐かしき住み家なれ』という
 章句が伝わってくるからふしぎです。・・・」

  ( p592~594 安野光雅「口語訳即興詩人」山川出版社 )

はい。ここは、唱歌「われは海の子」の3番までを引用したくなります。


     われは海の子

 一 我は海の子白浪の
       さわぐいそべの松原に、
     煙たなびくとまやこそ
        我がなつかしき住家なれ。

 二 生れてしおに浴(ゆあみ)して
       浪を子守の歌と聞き、
     千里寄せくる海の気を
        吸いてわらべとなりにけり。

 三 高く鼻つくいその香に
       不断の花のかおりあり。
     なぎさの松に吹く風を
        いみじき楽(がく)と我は聞く。

           ( P156 岩波文庫「日本唱歌集」 
             ちなみに、箱根八里はp80にありました。)
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言葉の、人生処方箋。

2022-08-02 | 古典
以前に、『人生処方箋詩集』とかいう題の文庫をひらいたことがあります。
挙げられた詩は思い出せないけれど、題名には惹かれるものがありました。

こういうときは、この詩を処方するという、言葉の処方箋。

鶴見俊輔に「如是閑の見かた」という文がありました。
長谷川如是閑のことを書いた文で、そのなかに本の読み方を
指摘した箇所がありました。

「 本を読んで記憶することに、重きをおかず、
  むしろ失念術の修業を日常生活で実行した。

  弓をいることを思いうかべることが、
  失念するために役だったそうだが、

  寝る前に漢籍からぬきがきをすることも数年したそうで、
  『論語』がもっとも多く、『老子』もあり、
  佐藤一斎『言志録』もあった。
  もっとも気のめいった時に読むのが『老子』であったという。」

          ( p393 「長谷川如是閑集第一巻」岩波書店 )


ここなど処方箋でいえば、『もっとも気のめいった時に読む』本。

そういえば、福永光司「荘子内篇」朝日文庫のあとがきが思い浮かぶ。
戦場にもっていた本(万葉集・死に至る病・パイドン・荘子)を語る箇所。

「 戦場の炸裂する砲弾のうなりと戦慄する精神の狂躁とは、
  私の底浅い理解とともに、これらの叡智と抒情とを、
  空しい活字の羅列に引き戻してしまった。

  私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、
  ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、
  その逞しい悟達のなかで励ました。明日知れぬ
  戦場の生活で、『荘子』は私の慰めの書であったのである。」

                 ( p341~342 )


どうやら、処方箋の薬箱(本棚)の常備薬に、老荘思想は欠かせなそうです。

さてっと、興膳宏氏の現代語訳「荘子内篇」は、
さらさらと読めたのですが、さらさらと忘れてしまう。
うん。ここは、

 福永光司・興膳宏訳「荘子内篇」(ちくま学芸文庫)
 福永光司「荘子内篇」(中国古典選12・朝日文庫)

この2冊。並べて読んでみれば効果がありそうな気がしてきます。




           
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道元と、68歳の典座の夏。

2022-08-01 | 古典
講談社学術文庫に、道元「正法眼蔵」8冊揃いがあるけど、
ちゃんと本棚には、並んでいるのだけれど、読まずにある。

読まずにあるのですが、最初の一冊くらいは読みました。
きちんと読んでから感想を浮かべればよいのでしょうが、
この調子でゆけば、どうしても感想を書けないだろうな。

ええい儘(まま)よ。
思い浮かぶ感想を描きながら本へ近づくという手もある。

道元に典座教訓(てんぞきょうくん)がありまして、
そこに、留学中の道元と典座との会話が載ってます。

「私は、昼食が終わったので、東の廊下を通って・・途中
 用典座(ゆうてんぞ)は仏殿の前で海藻を干していた。

 その様子は、手には竹の杖をつき、頭には笠さえかぶっていなかった。
 太陽はかっかっと照りつけ、敷き瓦も焼けつくように熱くなっていたが、

 その中でさかんに汗を流しながら歩きまわり、一心不乱に海藻を干しており
 大分苦しそうである。背骨は弓のように曲がり、大きな眉はまるで鶴のよう
 に真っ白である。

 私はそばに寄って、典座の年を尋ねた。すると典座は言う、
 『六十八歳である』。私はさらに尋ねて言う。
『どうしてそんなお年で、典座の下役や雇い人を使ってやらせないのですか』

 典座は言う、
 『他人がしたことは私がしたことにはならない』。
 私は尋ねて言う、
 『御老僧よ、確かにあなたのおっしゃる通りです。
  しかし、太陽がこんなに熱いのに、どうして
  強いてこのようなことをなさるのですか』。

 典座は言う。
 『(海藻を干すのに、今のこの時間が最適である)
  この時間帯をはずしていつやろうというのか』。

 これを聞いて、私はもう質問することができなかった。
 私は廊下を歩きながら、心のなかで、典座の職が
 いかに大切な仕事であるかということが肝に銘じた。」

    ( p70~71 講談社学術文庫「典座教訓・赴粥飯法」 )


そういえばと、昨日の夜に、本棚の正法眼蔵へ目がゆきました。
講談社学術文庫の正法眼蔵1~8は、増谷文雄全訳注です。

うん。正法眼蔵(一)だけはパラパラ読みした記憶があります。
一冊目のはじめのほうに、現成公案(げんじょうこうあん)が
ありました。この一巻を増谷文雄氏は説明しております。

「この一巻が制作されたのは、天福元年(1233)の
 中秋(8月15日)のころであったと知られる。
 巻末の奥書に記すところである。・・・・・・

 この一巻は、別に衆に示されたものではなく、ただ書いて、
 これを『鎮西の俗弟子楊光秀』なる者に与えたものと知られる。・・」
                        ( p38 )

うん。現成公案は、中秋(8月15日)のころに、
鎮西(ちんぜい)の俗弟子へと書いた手紙のようです。
きっとまだ暑さが消えない時期だったのでしょうね。

本文の始まりは「諸法の仏法のなる時節・・・」を
語り始めているのですが、数行目あとには、こうあります。

「しかもかくのごとくなりといへども、
 華は愛惜(あいじゃく)にちり、
 草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。」

ここを、増田文雄氏は、こう訳しておりました。

「また衆生・諸仏があっても、なおかつ、
 花は惜しんでも散りゆき、
 草は嫌でも繁りはびこるものと知る。」(p41)

「現成公案」の、最後には扇が出てくるのでした。
ここは、増谷氏の現代語訳で

「(風俗常住ということ)
 ・・宝徹禅師が扇を使っていた。
 
 そこに一人の僧が来って問うていった。
 『風性は常住にして、処として周(あまね)からぬはないという。
 それなのに、和尚はなぜまた扇を使うのであるか』

 師はいった。
 『なんじはただ風性は常住であるということを知っているが、
  まだ、処として周からぬはないという道理はわかっていないらしい』

 ・・・・・・・
 つねにあるから扇を使うべきではない、
 扇を用いぬ時にも風はあるのだというのは、
 常住ということも知らず、風性というものも解っていないのである。

 風性は常住であるからこそ、
 仏教の風は、大地の黄金なることをも顕現し、
 長河の水を乳酪たらしめる妙用をも実現することを得るのである。」


はい。夏に扇。そうして、
「華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」。

時節柄、夏のこととて、何だか身近な感覚として伝わってきます。
1233年の中秋は暑かったのでしょうかどうだったのでしょうね?
コメント (4)
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