和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『 オフレコ 』の魅力。

2023-02-12 | 本棚並べ
私は、安野光雅さんの対談本が好きです。
どうも、エッセイより好きな気がします。

ひょっとしたら、対談が仕事で、絵は余技なんじゃないか?
そんなふうに思ってしまうほど、安野さんの対談が好きです。

はい。大村はま・安野光雅の対談を、昨日読みました。
大村はま著「心のパン屋さん」(筑摩書房・1999年)の
最後に、対談は掲載されておりました。37頁ありました。

対談では、話題が多岐にわたります。
読んで思うのは『オフレコ』の魅力。

普通にエッセイなどを書く場合には、どなたにも分かるようにと
頭がはたらきますよね。ところが対談は相手とのキャッチボール。
ときに、ボールが相手へと届かなかったり、逆にオーバーしたり。
思いっきり投げて、それをしっかりキャッチしてもらえる手応え。
それは、思わずポロリと出てしまう『 オフレコ 』じゃないか。
何気に、文章の体裁をなさない言葉断片が読む者を惹きつけます。

まずは、会話の断片を拾ってゆきます。
はじめに、こんな箇所はどうでしょう。

大村】 私は子どもたちをどうしても読書家にしたかった。  ( p211 )


はい。これだけを、引用大書すると、誤解を招きかねない。
すぐ、つぎにつづけないといけませんね。

大村】 私ね、子どもたちにそういう読書技術を教えたいと思ったんです。
    普通学校では、本がわからなくなると、それを何べんでも繰り返し
    て読めばわかるというふうにして一冊の教科書でやってくるでしょう。
    そうじゃなくて、わからないときには、別の本を読んでいくという、
    そういうふうにするということがいいんじゃないかなと思って。

安野】 それはそのほうがいいです。・・・・


はい。つづけます。


安野】 本そのものがだめな場合というの、結構あるわけです。
    これはしかし、なかなか読む側から見るとわからないことでして、
    わからないのは自分が悪いんじゃないかと思いやすいです。

大村】 そうです。そうです。そう思っちゃいます。
    頭が悪いんだ。読みが足りないとかね。
    そういうふうに思っちゃいますね。      ( p210 )


大村】 ・・・・だから私、小中学校の先生がた、
    つまんない本の読み手を育てないで欲しい・・・

    何が書いてありますかなんて一生懸命訊いたりして、つまんないですね。
    何が書いてありますかって訊かれると、かえってわからなくなるんです。
    訊かれなければわかって読んでいますものね、子どもたちは。
     ・・・・・

    その子はただ言えないだけじゃないのかなって。
    発表力というのは、またむずかしいことですからね。
    ことに気持ちなんていうのはね、なかなかむつかしい。

    それをそこに書かれている気持ちの変化とか、
    そういうのを図解しながら解説するんですね。・・

    ・・・ここのところではどういう気持ちって。
    私、あれが嫌いで嫌いでたまらない。


はい。ふだん、生徒たちとの対話だと、こうはっきりは言わないでしょう。
どんな風に語っていたかも、対談でかたられておりました。


大村】 ・・・・・私、悪いということを
    子どもに言うことは絶対にしなかったんですけど。

    好きでないとか、面白くないとか、話したくないとか、
    そういうことを言って、いやな意味を表していたんです。

こういう話し方の変化球を読めるのも対談の楽しみ。

大村】 子どもの読みたい本を調査したりする方があるんです。
    それを統計にして子どもの読書指導の指針をそこから
    求めるとかいったような研究発表がよくあるんです。

安野】 よくわかります。子どもの意見のアンケートが数字に変ると、
    とたんに科学的に見えてくる・・・・
    意味のない研究がたくさんありますねえ。

大村】 私、そういうの嫌いでね。
    子どもが全部の本を見ているならいいけど、そうじゃないから。
 
    私はそれに似たようなことでは、
    どんな本があったら読みたいか
    というのをやっていたんです。

    これはどんな本が読みたいかよりも、
    私は違う世界のものだと思う。

    どんな本があれば読みたいかとか、
    それから読みたい本というのがいまあるかって訊いて
    黙っているような人は嫌いって言ったんですね。

    そういう人はつまんない人。
    私、悪いということを子どもに言うことは絶対にしなかった・・・

    どんな本を読みたい。
    べつにないようだったら、つまんない。
    読んでなくても、あれとこれとこれと
    読みたいと言えるような人でありたい。
  
    そこまではしなければね。
    ツンドクなんていう読み方もあるくらいだから、
    読みたい本が数冊言えるということは、
    ひとつの読書生活としての意味がある。

    単なる読書指導じゃないから。
    読書生活の指導だというふうに考えて向きをかえていたんです。



はい。以上は『 オフレコ 』に類することですから、
例えば、小中学校の先生に、父兄が大村はまさんは、
こう言っていましたね。とかいうのはいけません。
はい。分からない時は、どうすればいいか。


『  そうじゃなくて、わからないときには、
   別の本を読んでいくという、そういうふうに
   するということがいいんじゃないかなと思って。 』 ( p210 )


『  私は子どもたちをどうしても読書家にしたかった。 』 ( p211 )


はい。こんなことを言う、大村はま先生を、今年は読んでゆきます。



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長生きしていたおかげ。

2023-02-11 | 本棚並べ
大村はま著「日本の教師に伝えたいこと」(ちくま学芸文庫)。
このあとがきを、大村はまさんは、1995年に書いておられます。

大村はまは、1906(明治39)年生れ、2005年に98歳で亡くなっております。
1995年といえば、89歳でしょうか。

この文庫のあとがきを、今日は引用してみたい。
こう書いてありました。

「 教師の仕事の成果は、ほんとうに、
  人を育てたものは、なかなか見えにくいものです。

  自分で見ることのできることは、ほとんどないでしょうし、
  本人が気がつくことは、いっそうないでしょう。

  ほんものであればあるほど、ほんとうにその人のものになっていて、
  気づかれないでしょう。教師の仕事はそういうものでしょう。  」

このあとでした。89歳の大村はま先生は書いております。

「 私は長生きしていたおかげで、
  教え子の成人した姿をたくさん見ることができました。

  調べたわけでもたずねたわけでもありません。
  何かの折りに、ふと耳に入ったのです。・・・   」( p237 )


こうして、Aさんから、Eさんまでの語りを紹介されています。
ここには、Cさんと、Dさんの箇所を引用。


Cさん ( 若い方の卒業生。石川台中学校。・・看護婦さん )

 「 皆さん、調べるなんてこと、したことがないみたいで。
   索引なんか、利用しないし。レポートを出すとき、
   私が目次をつけて、表紙をつけているのを見て、びっくりして。 」

Dさん (もう年輩。ある事務局に勤めている )

 「 みんな、なにも言わないか、しゃべりまくるか、なんです。
   ぼくはそこは、あんなに習ったんだから、このことについては
   誰さんに発言してもらったらどうでしょうかと、
   話をほかの人にもっていったりするでしょう。
   ぼく、とてもいい話し手みたいに見られてるんですよ。  」


こうして、5人の何気ない話を引用してからです。

「 これは、私が心のなかで喜んだ例ばかりです。
  こういう人は、そんなにたくさんいないでしょう。

  また、この反対のような人もいるでしょう。
  でも私は一人でも二人でも、こういう人がいるのを、うれしく思いました。
  言語生活の一角が1ミリ高められたように思いました。
  芦田恵之助先生が地上1ミリを高めようとおっしゃった
  のを思い出して、まねをしてみました。

  有名大学を出て、すばらしい活躍をしている人たち、
  それはもちろんそれでうれしいですけれど、
  
  それは私などにあまり関係のない、その人の力、
  努力、環境、めぐり合わせなどにあるように思われます。 」( p240 )


この箇所を読んでから、寝たのですが、
朝起きたら、孟子の『 助長 』という言葉が思い浮かびました。

はい。ここには諸橋轍次著「中国古典名言事典」から。

「 心勿忘。勿助長也。
  心に忘れることなかれ。助け長ぜしむることなかれ。

  留意を怠ってはならない。だが、
  無理に時を待たず助長してはならない。

  ・・・・・・・・・・

  むかし、宋の国に愚かな人がいて、
  自分の畑の苗が、よその苗より生長の遅れているのを気にやんで、
  ひそかに出かけて苗をむりに引き伸ばした。

  それを聞いて家の者が行ってみると、
  無残にも稲の苗はみな枯れていた。

  必要なことは、苗をひっぱるの愚ではなく、
  苗がよく育つよう、中耕除草を忘れないことである。  」


はい。Cさんの索引・目次のことや、Dさんの話し合いの場面を
これから大村はま先生の本で知ってゆくことになります。


ちなみに、『 地上から1ミリ 』の話で思い浮かぶ箇所。

「教えることの復権」( ちくま新書 )の
苅谷剛彦さん夫婦との鼎談では、こうありました。

夏子】 大村先生は、ずっと実践家だから・・・・
    でも、その提案を受け取って、実践に移すのは
    やはりむずかしいことなんでしょうか。

大村】 やはり時間がないのかなと思ったりしますよ。

剛彦】 ・・・・それはむずかしいとは思います。
    でも・・・少しでも上向けばいいでしょう。
    ・・・たとえ1ミリでも、それだけでも動かせたら・・・

大村】 西尾先生もそうおっしゃていた。
    地上1ミリを高めればいいと。

大村】 ・・・・とりあえず明日の授業を高めるために、
    二つでも三つでもてびきを用意してみる。

    私も深川でそうやって始めたことです。
    そういう奇特な人がいればいい。
   
    そしてそれを磨き合う場に身を置く。
    そういう身近な小さいことをしないとだめなんでしょうね。 

                        ( p167~168 )

そうそう。
     芦田恵之助 ( 1873年~1951年 )
     西尾実   ( 1889年~1979年 )
     大村はまは ( 1906年~2005年 )

この3人。苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)では、夏子さんがこう指摘されておりました。

「 大村はまもそういう改革者だ。
  芦田恵之助、西尾実といったような優れた師をもち、
  深く尊敬したけれども、その師の示したところにさえ、
  じっと留まるということができなかった。・・・    」( p21 )







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『 そこんとこ 』

2023-02-10 | 本棚並べ
「前庭に集まった所員たち」という一枚の写真。

会田雄次、桑原武夫、貝塚茂樹、藤枝晃、樋口謹一、梅棹忠夫の6名が
玄関脇あたりに立って一服している姿が写っている。
 ( p103 カタログ「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」国立民族学博物館 )

うん。この写真を、また取り出して見ております。
写真下には、1967年2月と日付がありました。

梅棹忠夫著「知的生産の技術」は、何回読んでもわからない
わたしなのですが、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)
を読み。霧が晴れて足元が見えてきた感じがして嬉しかったのでした。
はい。それを再読していると、また一歩を進められる感じになります。

この藤本ますみさんの本のはじまりがふるっています。

「 1966年1月11日、一通の速達がわたしのところに舞いこんだ。
  そのころ、わたしは福井県勝山保健所に栄養士としてつとめながら、
  福井市郊外のアパートに住んでいた。

  だれからきたのかと封筒をうらがえすと、
  差出人は梅棹忠夫先生であった。
  
  この、ちょっと風変わりな、ひらがなタイプの手紙が、
  わたしを知的生産者たちの現場に近づけることになった。 」

はい。先の写真の面々は、1967年ですから、ちょうど藤本ますみさんが
「知的生産者たち」の現場にはいったころの顔ぶれということになります。

藤本ますみさんの本には、ちょっとした挨拶をかわす会田雄次氏がいたり、
それから、今日引用したかった樋口謹一氏が、袖触れ合う形で登場します。

では、樋口謹一氏が登場する場面。

「 おなじ西洋部の樋口謹一先生の研究室へうかがったときのこと、
  用件がすんで帰ろうとしたら、樋口先生はわたしの顔をみて
  さりげなく、こんなことをつぶやかれた。
  
 『 梅棹さんとこは、常勤の秘書が二人もいて、たいへんですなあ 』 」
                             ( p271 )

「 たしかに樋口先生のいわれるような秘書のつかいかたは、
  大学の研究室ではめずらしいことではない。

 『 この本の何ページから何ページまで、コピーしてきてくれ 』

 『 この原稿、清書して、出版社に送っておいて。しめきりは
   何月何日やから、それにまにあうように速達で      』

 『 あさってまでにこれをタイプして、コピーは三部とっておくように 』

 『 ちょっとタバコ買ってきて 』 ・・・・

  こんなふうにして、秘書を動かしている先生はたくさんいらっしゃる。
  樋口先生はそういうやりかたを念頭において、
  梅棹さんはたいへんと思われたのだろう。

  秘書が二人もいて、伝統的なやりかたでこまかい仕事の指示を出していたら、
  樋口先生のいわれたとおり、ご自分の仕事ができなくなるにちがいない。」


このあとに、『 指示はしない 』という箇所がでてきます。
はい。今日は、この箇所を引用して反芻してみたかったのでした。

「 梅棹先生の場合は、新しい仕事をつぎからつぎへとひきうけて
  研究室へもちこんでこられたが、仕事の趣旨と方針を説明したら、
  あとのこまかいことはそれぞれの担当者にまかせてしまう。

  やりかたは自分で考えよというわけだ。秘書にかぎらず、
  人をつかうときの基本的態度として先生がつらぬかれていたのは、
 『 指示しない 』ということだった。・・・・・

  人は、指図によってはたらくときは、いわれたことしかしないし、
  なかなかこころよくはたらけないものである。それよりも、
 
 『 これこれのことをしなければならないが、どうすればうまくいくか、
   自分で考えてやってください 』といわれたら、

  元気が出て、『 やりましょう 』という気が起ってくる。

 ・・・・その結果、いくぶん疲れたこともある。ただし、
 その疲れは嫌なものではなかった。好きでやっていたことだから、
 精神的には充実したよろこびがあった。

 先生がいわれた言葉を思い出す。

 『 人間はだれにでも、能力はあるにきまってる。
   それをどうやって発揮させるか、そこんとこが
   わかっていない人が多いのではないかなあ 』  」( ~p275 )


はい。『 そこんとこ 』って?

藤本ますみさんの本を最初から読めば、
いわく言い難い『 そこんとこ 』が、順を追ってわかってきます。
再読すると、書き残してくれたことに、感謝したくなる一冊でした。

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『きりすて法』と『別世界』。

2023-02-09 | 短文紹介
梅棹忠夫の『知的生産の技術』に「きりすて法」とある。
うん。紹介してみることに。

「たとえば、日本の研究者・・」と指摘しております。

「アメリカなどでは、論文や著書は、印刷して公表するまえに、
 原稿の複写というかたちで、それぞれ数人の専門家たちに
 目をとおしてもらう、というのがふつうのやりかたである。

 その原稿が、海をこえてわたしどものところまでまわってくる。
 ところが、こちらはそんなことは、したことがない。

 印刷され、発表されたものをみているかぎり、形はおなじだが、
 内容の吟味という点では、あきらかに一段階ちがうのである。

 これを、技術の不足にもとづく研究能力の
 ひくさといわずして、なんであろうか。          」( p5 )


はい。このあとに『きりすて法』が出てくるので
もうしばらく、おつきあいください。

「 研究に資料はつきもので、研究者はさまざまな資料
  ――たいていは紙きれに類するものだが――
  をあつかわなければならない。

  ところが、そういうものの整理法の研究がすすんでいないために、
  おおくの研究者は、どうしていいかわからない。研究室は
  わけのわからぬ紙きれの山で大混乱ということになる。

  そこで、混乱をふせぐために、しばしばとられている方法は、
  いわば『きりすて法』とでもいうようなやりかたである。

  ・・・できるだけせまい分野にとじこめてしまって、
  それに直接の関係をもたない事項は、全部きりすててしまうのである。

  そういうふうに、みずから専門をせまく限定すると、   
  必要な資料はごくすくないものとなる。それ以外の資料は、
  すべてまるめて紙くずかごにほうりこめばいい。     」( p6 )


はい。この新書は1969年出版ですから、今から54年ほど前に書かれました。
パソコンが常識の現在でも、それにしても、いまだ『きりすて法』は健在。

何だか、情報をしゃだんして、切り捨てている姿が目に浮かぶ。
それが、わたしです。


こういう「きりすて法」を、返す刀でバッサリ切って捨てることは可能か?
可能とすれば、たとえば、どんなことが考えられるのか?


カタログ「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館・2011年)に
会田雄次・桑原武夫・貝塚茂樹・・梅棹忠夫の面々が写っている写真があり、
そのページはというと、加藤秀俊氏が書いた文が載っておりました。

こうはじまります。

「むかし『西洋部』『日本部』という編成がとられていた時代の
 〇大人文科学研究所の『分館』では、同一の専門分野の研究者を
 複数採用しない、という一種の内規のようなものがあった・・・  」(p103)

「1954年に・・新米助手に任命されたわたしの
 勤務先たる『人文』はまことにふしぎな職場であった。

 なにしろ、ここには『同業者』がだれもいないのである。
 フランス文学の桑原武夫、日本近世史の坂田吉雄、
 哲学の鶴見俊輔、西洋史の会田雄次、心理学の藤岡喜愛・・・

 それぞれたいへんな碩学なのだがぜんぶ『専門』がちがう。

 それでいて、一日じゅう議論ばかりしている。
 話題は古今東西、森羅万象にわたって、尽きることがない。
 大学にある学部学科といった知識の分業なんかどこにもないのである。」


このあとに、『別世界』が語られおりました。

「とにかく、研究所にゆけば、毎日、先輩の話をきいているだけで
 なにかの新知識が身についてくる。

 逆にわたしのような若僧にも老先生から、これはどんな意味なんだ?
 と・・・質問がごく自然にとんでくる。うっかりしてはいられない。

 ・・・もとより長幼の序というものがあるから
 若い助手は中高年の助教授、教授を『先生』という敬称でよんでいたが、
 議論をしていて疑問があると
 『 先生、それ、ちょっとオカシイんとちゃいますか? 』
 と反論が平気ででてくる。先生のほうも
 『 そやなあ、そうかもしれへん 』
 とニコニコしておられる。

 当時のふつうの大学・・・をおもうと、これは別世界であった。」(p104)


今まで、安易に「切り捨て御免」一辺倒で過ごしておりましたけど、
今後は、『別世界』のあることを想起して、バランスをとることに。


そうすると、どうなるか?

加藤秀俊さんは、つづけます。

「梅棹さんは・・・あたらしい『研究経営』の手法を編み出された。
 さらに、民博で梅棹さんを待ち構えていたのは、

 人文とは比較にならないほどの規模の事業によって
 構成された『組織』であった。

 研究者なのだから研究さえしていればよろしい、
 といったノンキなことはいっていられない。

 予算から事業計画、設備、人事、など処理すべき
 『 事務 』がすべて・・責任者の肩のうえにのしかかってくる。

 ふつうの学者だったら、こうした行政実務に
 お手あげになってしまうところだが、梅棹さんは
 ふしぎな直観力で重要なものだけを選別し・・・・

 あたらしい舞台のうえで大型の『 組織経営 』に
 進化していったのだ、といってもよい。

 そこでは研究者組織と行政事務組織とを融合させ、
 じょうずに舵取りをする・・・
 梅棹さんはそれを悠々とこなしておられたようである。
  ・・・・・                    」

そうして、加藤秀俊さんは、文章の最後をこう締めくくっておりました。

「 いまふりかえって半世紀以上のむかし、
  京大人文に生まれたあの自由な空気は

  梅棹忠夫という人物によって千里にはこばれ、
  そこでさらに増幅されて民博の基礎をつくったのである。

  それはおそらく『 研究経営 』といういとなみがたどった
  偉大な進化の道でもあったのであろう、とわたしはおもっている。 」
                          ( p105 )






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ブログと知的生産活動。

2023-02-08 | 古典
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は、
毎回ひらくと、あたらしい発見があるのですが、今日は、
読書論に触れ、知的消費と知的生産を腑分けしている箇所から引用。


「 今日おこなわれている読書論のほとんどすべてが、
  読書の『たのしみ』を中心にして展開しているのは、
  注目してよいことだとおもう。

      今日、読書はおもに知的消費としてとらえられているのである。

  ・・・知的であれ、それ以外であれ、消費はべつにわるいことではない。

  知的生産とは、知的情報の生産であるといった。
  既存の、あるいは新規の、さまざまな情報をもとにして、
  それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、
  そこにあたらしい情報をつくりだす作業なのである。

  それは、単に一定の知識をもとでにしたルーティン・ワーク以上のものである。
  そこには、多少ともつねにあらたなる創造の要素がある。
  知的生産とは、かんがえることによる生産である。  」

         ( p10~11 「知的生産の技術」の「はじめに」 )

何回か、読んだはずなのに、そのたび、すっかり忘れていて、
何度も、新しい読み方を、読む方に想起させてくれる楽しみ。
はい。もうすこし続けます。

「  こういう生産活動を業務とする人たちが、
   今日ではひじょうにたくさんになってきている。

   研究者はもちろんのこと、報道関係、出版、
   教育、設計、経営、一般事務の領域にいたるまで、

   かんがえることによって生産活動に参加している
   人の数は、おびただしいものである。

   情報の生産、処理、伝達、変換などの仕事をする産業を
   すべてまとめて、情報産業とよぶことができる・・・・

   そして、情報産業のなかでは、とくに知的生産による部分が、
   ひじょうにたいせつであることはいうまでもない。   


   ・・・・・・
   知的活動が、いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが現代なのである。
   知的生産ということばは、いささか耳なれないことばだが・・・
   
   人間の知的活動を、教養としてではなく、積極的な
   社会参加のしかたとしてとらえようというところに、
   この『知的生産の技術』というかんがえかたの意味もあるのではないだろうか。

   ・・・・・そういう人たちの範囲をこえて、すべての人間が、
   その日常生活において、知的生産活動を、たえずおこなわないでは
   いられないような社会に、われわれの社会はなりつつあるのである。」


はい。『知的生産の技術』は1969年に新書として発売されております。
何か、しごく真っ当で、正確な大風呂敷を聞かされている気がします。
引用した文のつぎには、こうあります。

「  社会には、大量の情報があふれている。
   社会はまた、すべての人間が情報の生産者である
   ことを期待し、それを前提としてくみたてられてゆく。

   ひとびとは、情報をえて、整理し、かんがえ、
   結論をだし、他の個人にそれを伝達し、行動する。
   それは、程度の差こそあれ、みんながやらなければならいことだ。 」

         ( ~p12 「知的生産の技術」の「はじめに」 )

読み直すたび、あらたに違うことを思い浮かべるのですが、今日は、
引用した最後で、gooの皆さんのブログを思い浮かべておりました。

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中学校のときのガリ版。

2023-02-07 | 本棚並べ
「梅棹忠夫 語る」(聞き手小山修三・日経プレミアシリーズ新書)
このなかに、ご自身の著作目録をこしらえたことが語られてる。

梅棹】 ・・第一に、ほんとおどろくべき話やけれど、わたしが始めるまで、
     自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。・・・

    もう古い話やけど、わたしが還暦のときに自分の
    著作目録というものをこしらえて、それを
    桑原武夫先生のところへ持っていった。そうしたら
    桑原さんは、『 こんなもんつくって、大迷惑だ 』って・・・

    ・・・桑原先生は
   『 みんな真似しようと思っても、もういまさらでけへんやろ 』
    って。ほんとうに信じられない話だけど、
    みな自分が書いたものを残してなかったわけです。
    自分でやらなければ、だれも残してくれない。
    わたしは中学校のときのものから残っている。
    ガリ版やけれど、中学校のときのもあります。
   『 そんなん、あたりまえやないか 』と思うんやけど。


小山】 そう言われると忸怩(じくじ)たるものがある。・・・

梅棹】 いつから残ってる?

小山】 それは民博に来て、しばらくたってからです。
    だけど手伝いに来た大学院生がまた捨てるんですよ、
   『 これは紙ですね 』って、じゃ、どんなものを
    残すのかと言うと、たとえば柳田國男全集とか。   ( p82 )


その前段のページには、こうあります。


小山】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、
    アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。

    パンフレットとか片々たるノートだとか、
    そういうものもきちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
    重要な情報だったりするんですな。それがきっちっと揃っている。

梅棹】 だいたい図書館は内容とはちがう。
    わたしが情報ということを言い出したのは、それがある。
    情報とは中身の話や。・・・・・・・・・・・    ( p80 )


はい。『 自分でやらなければ、だれも残してくれない。
     わたしは中学生のときのものから残っている、
     ガリ版やけれど、中学生のときのもあります。 』


はい。そういう人が『知的生産の技術』を書いたのだと、
きちんと把握しておきたくなるエピソードなのだと思う。


期せずして、中学生の頃の梅棹忠夫がでてきておりました。
『中学生のときのガリ版』ここからわたしが辿ろうとする、
中学校の大村はま先生へつながる道筋に陽があたるような。
  
コメント (2)
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学者長屋のメールボックス。

2023-02-07 | 本棚並べ
カタログ「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館)の中の
写真に「人文科学研究所分館での増築祝いの会」(p103)という一枚がある。

玄関らしきまえに立っている、写真の面々はというと、
会田雄次、桑原武夫、貝塚茂樹、藤枝晃、樋口謹一、梅棹忠夫。

そういえば、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)に
会田雄次がでてくる場面がありました。

はい。その箇所が思い浮かんだので引用しておくことに。

「教官の名札のかかった研究室の並ぶ廊下をあるいて、
 『 ここは学者長屋ですな 』といった人がいる。 」(p142)

こうはじまっておりました。

「・・研究所のメール・ボックスもアパートのように玄関ホールの
 一隅にあった。銭湯の脱衣を入れる棚を小さくしたようなもので、
 その一つ一つにも、先生がたの名前がかかれていた。・・

 ときたま、會田雄次先生をお見かけすることがあった。
 長身でやせ型の先生が、心もち肩をすぼめるようにして、
 玄関ホールの階段の横で、書類のようなものを立ち読みしていらっしゃる。

 はじめのうちは目礼をして通りすぎるだけだったが、そのうち
 あいさつをするようになった。そのころ會田先生の研究室は二階にあった。

 先生は出勤してこられると、メール・ボックスをのぞいて、
 なかのものをとっていかれる。あるとき、メール・ボックスの前で
 顔をあわせたら、先生はこんなことおっしゃった。

 『・・・・ときどき、合田になっていたり、雄二とかいてあったりする
  のがきます。とくにダイレクトメールなどにそれが多い。そういうのは、
  封を切らずに、階段の下にあるごみ箱へ落していくんですよ。

  あて名のきちんとしたのだけ封を切って、ええ、ここで切ってしまって、
  階段の下でさっと目を通し、自分のほうから用がないと思ったのは、
  その場で処分してしまいます。

  階段のところにごみ箱がおいてあるのは便利ですよ。
  二階まで持っていく労力がはぶけますから。
  いらんものはためこまないこと、これがぼくの整理法ですな 』

  ・・・『 まあ。それで困られるようなことはないのですか 』
  はっきりしているというのか、思い切りがいいというのか、
  
  なんでもすぐにはすてない主義の梅棹先生とは正反対の
  會田式整理法に驚いたわたしは、そうたずねないではいられなかった。

 『・・・・・・なんでも残しておくと、
  今度はそのお守(も)りがたいへんですわ。

  入れ物と、それをお守りする人と、それを置いておく場所と、全部
  面倒みていかんならん。そりゃあ、たいへんなお金と労力がかかります。

  わたしはそんなこと、ようしませんから、
  ごらんのようにここで始末をつけていきます 』

  そういい残して、會田先生は二階へあがっていかれた。

  ・・・・・
  それにしても一方にフクロのような歯止めの装置を考えてまで
  物を残そうとする人がいるかと思えば、  
  他方には、玄関先で切りすててしまう人がいる。

  その両極端を身近で見たわたしは、
  ファイリング・システムの番人をしている自分の存在を考えてしまった。」
                  ( ~p146 )


引用がまたしても長くなりました。
最後は、『知的生産の技術』から、ここを引用。

「 そこで、知的生産の『技術』が重要になってくる。
  はじめは、研究の技術というところから話をはじめたが、
  技術が必要なのは研究だけではない。一般市民の日常生活においても、
  『知的生産の技術』の重要性が、
  しだいに増大しつつあるようにおもわれる。

  資料をさがす。本をよむ。整理をする。ファイルをつくる。かんがえる。
  発想を定着させる。それを発展させる。記録をつける。報告をかく。

  むかしなら、ほんの少数の、学者か文筆業者の仕事だった。
  いまでは、だれでもが、そういう仕事を
  しなければならない機会を無数にもっている。

  生活の技術として、知的生産の技術を
  かんがえなければならない理由が、このへんにあるのである。 」

           ( p13 「知的生産の技術」の「はじめに」 )

今回の引用から、たまには家のポストを開ける際に
會田雄次氏の顔が思い浮びそうな気がしてきました。

ちなみに、わたしはダイレクトメールでも裏面が白紙のものは取って置き、
メモ用紙として使い。封筒も何かにつかえると思い残しておくタイプです。
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 問答 / 対話 。

2023-02-06 | 本棚並べ
大村はま講演の「教師の仕事」に、こんな言葉がありました。

「 やはり未来の建設に役立つ人間を確実に育て上げる人、
  育て上げようとしている人だけが教師なのです。・・・  」

        ( p96 「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

ちなみに、この文庫のなかの講演で「教室に魅力を」には

「 『 単元学習でも入学試験とおりますか? 』といったような質問に、
  私はたびたびあっています。入学試験はおろか、

  非常に優れた国語の力をつけようと思って、単元学習をやっているのです。
  ・・ひとりひとりを卓越した言語生活者にと目指す時、
  そうでない方法ではその力はつけられないからです。・・

  優れた子ですと、何も努力しなくても、なにかやれるものなのです。
  そういう姿を見て、もっとやりたいことを思いついて、
  『よし!』と立ち上がってやっていく、そういうふうに
  させられなければ、私は単元学習というものの命はないと思います。
 
  もち合わせの力で、ただ楽しくやっても、それでは、
  学習にならないと思います。            」( p195 )


う~ん。『入学試験とおりますか?』と
『 未来の建設に役立つ人間を確実に育て上げる 』と。

この二つの言葉のカードを並べて、思い浮んでくる箇所がありました。
私が思い浮かべるのは大村はま先生の『話し合いの指導』の箇所です。
ちくま新書「教えることの復権」から、それを引用しておきます。

「 私自身もおしゃべりではあったけれども、
  きちんと話す力は持っていないと思いました。

  それで、会議の仕方なんていうのを、アメリカ人を講師とする
  講習会に行って習ったりもしたんですよ。・・・     」( p69 )


このあとに、西尾実さんが登場しております。

「そのうち西尾実先生(大正・昭和期の国語学者。
 国立国語研究所初代所長。話し言葉の発展を軸とする国語教育を提唱した)
 
 が話しことばの会をお始めになる。西尾先生は
 話すことについて日本で初めてほんとうに学問としても受け入れることができ、 
 実績としてもいいものをお残しになったと思います。

 先生は、二人でする対話というのが大事で、その最小単位の
 二人の話で本心がすらすらと出てこなければならないんだと教えてくださった。 
 
 問答というのは片一方が問うて、片一方が答えるもので、
 だいたい日本の先生は問答のことを対話だと思っている。

 でも大事なのは問答ではなく、対話だとおっしゃった。

 でも対話を教室に持ち込むのは容易でないことですよ。
 聞き手のいない二人の話、そういうチャンスは単元学習でもしないと、ない。
 そういうときにほんとうの気持ちを話すという経験ができる。

 本心が声になって出る習慣というか力というのを持たないと、
 話しことばというのは成立しないとおっしゃっていたんです。

 ・・・・思っていることをちゃんと音にして出すという、
 そういう意欲を日本人は持っていないと、西尾先生はおっしゃっていた。

 そういう見方で、ことばを使っていない。
 お世辞がじょうずとかぺらぺら話せるという人はいっぱいいるけれども、
 ほんとうの自分というものを声に乗せられるというのは大変なことだ、
 大村さんの教室でもできていない。だめだっておっしゃってね。・・・

 書くことも同じですよ。じょうずもへたもない、役に立つかどうかでもない、
 自分の心を文字というものを使ってそのまま伝わるものにする。
 書くというのはそういう技術だということ。       」( p71 )


はい。ここでした。西尾実の本を読んでみたくなったのは。
はい。『書くというのはそういう技術だということ』から、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」を思い浮かべたりしました。 

さあ、大村はま先生のスタートラインに立つと、
新しく読みたくなったのが、西尾実。
読みかえしたくなったのが『知的生産の技術』。

ということで、古本屋の出番。
『 西尾実国語教育全集 』全12冊揃い、5600円(送料共)を買う
  ( ここで買うといい。読むとはいっていないのがミソ )。

これから、大村はま、西尾実を読めるかどうか?

なあ~に脱線したら、また最初からの反復反芻。




 
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5行ほど読み、ひと息いれて。

2023-02-05 | 本棚並べ
大村はま先生の講演「教えるということ」の中に、
自分とおぼしき子どもをみつけるのでした。

「・・そして、読むことの学習では、
 『 読むこと 』がいちばん大事なのです。

 しかも最初の『 読み 』をみていなかったら、
 あとをどうして教えるのですか。

 だれが早いか遅いか、だれの目が一行飛ばすか、
 こういうことを知らなくていいのですか。
 それをよく知らないでいて、どうやって教えるつもりなんでしょう。

 子どものなかには、どうかすると
 5行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。
 5行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、
 また少し読む。

 こんな集中力のない子どもがだれとだれなのか
 おわかりですか。

 一字一字見ている子どもと、
 ひとまとまりのことばをちゃんと
 とらえるように成長してきた子ども、
 それはいつごろからかご存じですか。・・・・  」
        ( p39 ちくま学芸文庫「新編教えるということ」 )

はい。ここは小学生について語られているのでした。

 『・・どうかすると5行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。
  5行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少し読む。・・』

はい。これは私。今でも5行読んで放り投げてしまう癖があります。
はい。そのまま、この年まで馬齢を重ねてしまった。

という話はいつもしている気がするので、場面転換。

梅棹忠夫氏の、中学生の頃はどうだったのか?

「 わたしは、中学生のころから、山へいっていた。
  
  登山家のあいだでは、『 記録をとる 』
  という習慣が、むかしからあるようだ。

  行程と所要時間、できごとなど、行動の記録を、
  こくめいに手帳にかきこんでゆくのである。

  ルックサックをおろして、ひとやすみ、というようなときに、
  わずかな時間を利用してかくのだが、

  つかれているときには、これはなかなかつらいことである。
  わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。 」

          ( p171 「知的生産の技術」岩波新書 )


ここに、
『登山家のあいだでは、【記録をとる】という習慣が、むかしからあるようだ。』
とあります。

ちょうど、この前「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館)
というカタログを本棚からだしてきていて、パラパラめくっていると、
「同時代人からみた梅棹忠夫」のなかに、「新しい道を照らす人」と題して
鶴見俊輔氏が書いておりました(p16~17)。

そこにちょうど、それとおぼしき登山家が語られております。
その文は、こうはじまっておりました。

「『屋久島から帰ってきたおもしろい学生がいる。話をきいてみないか』。
  と、桑原武夫が言った。・・1949年・・のことだ。 」

このカタログには、最後に年譜があるので
梅棹忠夫の昭和24年(1949年)29歳を見ると

 9月9日 京都府山岳連盟の屋久島踏査隊に参加。
     隊長今西錦司、隊員西岡一雄と梅棹忠夫。
     屋久島から種子島の西之表港をへて
     屋久島の安房港に到着。宮之浦岳に登頂。   
     下屋久村の・・・・一周する。10月上旬帰洛。

はい。その屋久島帰りの梅棹忠夫と鶴見俊輔の初対面から
話しがはじまっているのですが、ここでは登山家・今西錦司が
出てくる箇所を引用することに。

「私が〇〇についてすぐ、桑原さんは、私の隣の部屋におり、
 たずねてきては、あれこれ話すなかで、

 『 自分は、中学校からの同級生だった今西錦司を天才と思っている・・

   《・・有名でもないし・・・とにかく、彼が近ごろ書いた
      野生の馬についての研究論文を見てくれ 》と言った。

   中学校で、今西は成績が悪くて、一学年上だったのが落第して
   桑原と同級になったというのだから、その後十数年にわたって、
   今西の力を信じる桑原武夫という人におどろいた。

   その根拠は、彼が中学生のころから、
   登山の指導者として遭難者を出したことがないという点にあった。

   天候を読み、地形を読み、途中にまずいと思ったら、
   仲間をなぐってでも引き返す、その実行力にあった。

   その今西錦司の学問を受けつぐ者が梅棹忠夫だという話だった。 
   ・・・梅棹のような考えの組み立てをする人に、
   私はそれまで会ったことがなかった。・・・    」( p16 )

もどって『知的生産の技術』の引用箇所から、もう一度この箇所

【 わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。 】

とありました。うん。そういう中学生からの『しつけ』を知らないで過ごした
私が、『知的生産の技術』を読むと、何か肝心な事を見逃している気がします。

つねづねそう思っておりました。『大村はまの国語教室』なら、
いまからでも、通えるかも。と思えたんです。
『 5行ほど読むとひと息いれて 』いる私にも読み続けられるかも。
そのように思わせてくれる安心感が、大村はま先生にはあるのでした。



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東京と大阪。東京と京都。

2023-02-05 | 地域
はい。杉山平一の詩を読み返していると、
以前は、気がつかなかった詩があったり。
うん。2つの詩を引用してみます。


     美しい大阪    杉山平一

  東京タワーの野暮をきらって
  通天閣と名付ける大阪が好きだ

  桜の宮 桜橋 桜川
  桃谷 梅田 梅ケ枝町に花をかかげ
 
  森の宮 南森町 森小路 諏訪の森
  天神の森にわけ入り
  萩の茶屋 天下茶屋に憩う

  玉造 玉手 玉川町 玉屋町の宝石に
  鶴橋 銀橋 汐見橋 水晶橋に清らな水をねがう

  惜しくも空心町 紅梅町 絹笠町を失くしたが
  なお 夕陽丘 東雲(しののめ)町に空を仰ぐ
  そんな大阪が 好きだ


忘れてたのですが、詩集に、新聞の切抜きをはさんであった。
読売新聞夕刊(2012年7月14日)「追悼抄」。
晩年の杉山氏の椅子に座っている写真があり、
5月19日、肺炎で死去、97歳。とあります。
はい。「追悼抄」からもうすこし引用。

「福島県会津若松市で生まれ、神戸、大阪で育った。
 松江で過ごした旧制高校時代・・・・

 戦後、工場経営の傍ら詩や映画評論を発表したが、
 『四季』の一員だった経歴が災いする。・・・・
 平明な言葉で詠(うた)う詩は評価されなかった。・・・

 『 世界は言葉によって発見される 』が口癖だった。
 散歩で見た光景、新聞の記事、仄聞(そくぶん)した世間話・・。

 何でも題材にした。一編一編が短く、
 東日本大震災が起きた昨春、出版準備をしていたのは、
 ようやく9冊目の詩集だった。・・・・(大阪文化・生活部 浪川知子) 」


      秘密     杉山平一

  東京で好かれる人の
  ベストワンは
  『 竹を割ったような人 』だそうだ

  京都でいちばん嫌われる
  ワーストワンは
  『 竹を割ったような人 』であるらしい

  秘密も嘘も皆無の
  ガランドウで 軽く貧相な人は
  わたしも きらいだ

  秘密も嘘もたっぷり持った人は
  なんだか豊かで
  どっしり 重い

  秘密を七つしか持たず
  嘘もへたな
  貧相な おれだ


はい。杉山平一の詩を2篇。引用しました。
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二周も三周もおくれて。

2023-02-04 | 詩歌
詩だと思いこんでいたら『あとがき』でした。
こんな箇所がありました。

「・・記念会で・・
  『 第一線を走っていると思っていたのに、
    あるとき、ふと、自分は一周遅れだったことに気づかされ、

    肩を並べているが実はいまは二周も三周もおくれているらしい。
    だからゴールはまださきであると思う 』

  などといった。

 ・・・伊東静雄さんが、
 杉山は別の山にのぼってバンザイしているといわれた通り、
 自分は一周二周おくれではなく皆と別の場所を走っていた
 らしいという気がしてきた。 ・・・    」
   
     ( p812  「杉山平一全詩集《下》」編集工房ノア  )


はい。『二周も三周もおくれて』とか、『別の場所を走っていた』とか、
こんな詩人を紹介してみたくなりました。

       重さ      杉山平一
 
   ぴったりの重さというものがある。
   少しの荷物は持つ方が快よいときがあるものだ。
  
   手ぶらや、はだかでは 浮くようで、
   取りつくしまがない。

   足が地につくよう この悩みと悲しみを、
   私は大切に持って歩く。


        月      杉山平一

   電車を降りると
   ホームの屋根の上に
   待ってくれている
   月と出会うことがある

   きょうは
   ビルとビルの間から
   心配そうに
   私をのぞいてくれていた  


あとひとつ、たまたまひらいた箇所に

      開聞岳    杉山平一


     昭和15年2月10日早暁
     海上から打ち眺めた
     開聞岳の眉目

   という竹中郁の詩が仲々見つからない。
   南方詩を集めた詩集「龍骨」に無く、
   やっと、大戦後の「動物磁気」に、見つける。

   晴れた夜、「海から生えたやうな傑作」と、
   竹中郁が歌ったこの本州最南端の頂上に立つと、
   ときに、南十字星の先端が地平線に覗くのが見えるという。

   いまは、空が濁って、いよいよ見え難いかも知れない。
   きらりと澄む竹中郁という星を失って、
   濁っているのは空ばかりではない、と気がつく。


はい。読むたび、いろいろな詩があることに気づきます。

(  ちなみに、詩の改行は、私の自由にさせてもらいました。 ) 

うん。
『伊東静雄さんが、杉山は別の山にのぼってバンザイしているといわれた』
この『別の山』が気になるので、もうひとつ詩を引用してみたくなります。


    少し横のところを    杉山平一


   言葉も銃弾と同じだ
   やかましく やたらに
   とび交っているが

   めったに
   当たるものではないのだ

   当てようと思うなら
   ここぞという
   目標をしっかり定めて

   その少し横のところを
   狙ってぶっ放せば
   手裏剣のように
   心に深く突き刺さる
   筈だ


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メガネのこと。

2023-02-04 | 詩歌
グルグルとグラウンドを走っている。
周回遅れでいつのまにか先頭をはしっているような・・・。

たしか杉山平一の詩に、そんなのがあったと思ったけど、
たしかめたくて、詩集をひらいてもこれが見あたらない。

ああ、これじゃみつかりそうもない。
久し振りの杉山平一なので開いた詩。



       探求      杉山平一  

  懸命にさがしても
  見つからず

  ある日 アッ
  こんなところにあった
  目の前に
  と 気づかされるのは
  人の世によくあることである

  それは真理とか
  生きて行く意味とか
  本当に大切なひと
  などというものではなく

  わたしのメガネのことだ


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書かなくてもかまいません。

2023-02-03 | 本棚並べ
大村はまの講演「教えるということ」に

「・・・そんなことよりも、書けない子どもがたくさんいて、先生が来て
     何かしてくれるのを無意識に、しかし、心から待っているのです。 」
                                                                      ( ちくま文庫・p52 )

「 でも、子どもは『 文章は自分で書くもんだ 』と心得ていますから、

  教師がかりに来てくれなくても、うらみはしません。それどころか、
  書けない自分が悪いと思っているでしょう。かわいそうです。

 『 書くこと 』を頭に浮かべさせられないような
  教師だということを、子どもはうらむことを知りません。
  けれども、教師の方は知っていないければ困ると思います。

  書かせられないのは教師の恥なのです。・・・・

  あるいは事前指導をしなかったという場合もあるでしょうが、
  たとえ事前指導をしたとしても、『 書け 』と言って
  書けない子がいるというのは、・・・・・

  教室でその失敗のあと始末をしなくてよいのでしょうか。
  子どもはいろいろなことを習っていくのですから、
  途中で教えなければ書けません。

  それなのに、書く時は黙って書かせてしまって、
  それから集めて『 これは下手だ、これは上手だ 』と言う。

  ・・・指導者ではなくて批評家です・・・・
  私たちは、批評家ではないのです。
  ・・・批評家の前に指導者なのです。・・・

  自分が、こういうふうに指導して、こういうように書かせたところが、
  これだけのものになってできてきた。では、この次はどんな指導を
  しなければならないかということは、指導者である自分が一番よく
  わかるはずです。・・・・           」( p52~53 )


はい。講演なので、読んだ時はピンとこなかったのですが、
読み返していたら、今回この箇所が印象深い。はい。ここが私が
「大村はま国語教室」に学ぼうとしたキッカケの箇所かもしれません。

大村はまさんに、西尾実氏の本の解説をしている箇所がありました。
そこをパラパラとひらいていると、それはどうやら単元学習のこと
らしいのですが、私にはよくわからない。わからないながら、
気になる箇所がありました。

「 この収集は1年生の秋から始めた。このとき、
  
  目的をはっきりさせ、資料の捜し方、
  手順を考え、カードのとり方の実習をした。

  その後2年間、ときどき、資料の交換を、口頭発表で、掲示で、
  あるいはプリントで実施しながら続けた。

  この間、この作業のもう一つのねらい、
  一対一の対話の機会がたびたび得られた。
  生徒から話してくる、教師から話しかける、
  資料が発見されたにつけ、されないにつけ・・・・  」

  (  p472~473 「西尾実国語教室全集」第7巻(教育出版)  )


ああそうか。この時点で私は、大村はま先生の国語の授業は、
1年から3年までつづく学習だったのだと、やっと気づきます。

うん。それならと、中学3年生の時の苅谷夏子さん。
その感想を引用して今回は終わることに。

「これも私にとって一つの転換点となった単元だ。
 中学校三年生のときのものだ。・・・

 その年、日本経済新聞で長年連載が続いていた。
 ( そして今も続いている)『私の履歴書』の
 単行本刊行が数十冊に達した。

 先生はそのことを紹介し、履歴書、自叙伝、半生記など
 ということばについて少し話したあと、では自分の履歴書、
 つまりこれまでの自分について語る文章をまとめてみよう、
 ということになった・・・

 さっそく私たちは鉛筆を握り、それぞれに構成案をたてはじめた。
 まずは、とにかくトピックを書き出していく。・・・・
 簡単なはずだった。ところがいざ始めてみると予想外に筆が進まないのだ。
  ・・・・

 一時間の授業が終わろうとする少し前、
 しんとした教室の空気を先生の声が破った。

 『 はい、そこまででやめましょう。今考えた文章は、

   書きたかったら書いてみればいいでしょうが、
   書かなくてもかまいません。

   構成を考えたメモだけは、
   しっかり学習記録に入れておきなさい。

   さて、どうでしたか、『私の履歴書』を書こうとするとき、
   できごとを一から十まですべて、あったとおりに、
   そのままに書くわけではなさそうでしょう。

   書いてある内容そのものが、
   その人をすっかり表現しているわけでない。
   選んだことを選んだ表現で書く、
   実際にあったことでも、書かないこともある。

   そこにこそ、その人らしさが出てくるんじゃありませんか・・・』

 私はそのあたりでもう先生の声を聞かなくなっていた。
 ひとつの真実がすとーんと腹に収まった、それを感じて
 私はじっと固まったように思う。・・・・・・・・・

 この鮮やかな導入の手際を、私は忘れたことがない。

 文章を読むときには、作者の意図を考えながら、とか、
 行間の意味を探りながら、というような注意は

 ごくあたりまえのものだ。それを知らないわけではないが、
 そう言われたからといって、なんの助けにもならなかった。

 あの一瞬まで、私は、いわば観客席に座って
 できあがった映画をおとなしく見る幼児と同じであって、
 一方的な受容者だった。

 まあ、受容する楽しみもあるのだが、
 それでは創造の世界にほんとうに迫ることはできない。

 でも、あの一瞬の転換で、『私の創造』が『他者の創造』と重なった。」

       (  p51~52  「教えることの復権」ちくま新書  )

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西尾実。

2023-02-02 | 本棚並べ
読んでない本をひらくのは、おっくうです。
それで、読んだ本をひらく。

「教えることの復権」(大村はま/苅谷剛彦・夏子:ちくま新書)
をひらく。これら数冊を読んで、大村はま国語教室を読もうと思った。
また、最初にもどってみることに。

はい。一回読んだ本というのは、二回目からはパラパラ読み。
線が引いてあれば、そこを読み直したりします。
こんかい気がついたのは、『西尾実先生』が登場する箇所でした。

印象的だったのは、大村はまが戦後、中学校へ赴任した時でした。
うん。引用してみます。

「 学校とは名ばかりのあまりにひどい状態に、
  たちまち絶望してしまってね。

  これでは真心でなんとかなるものではない。
  このままでは自他ともに滅することになる、
  
  だめだと思って、ほかに相談できる方もなく、
  それまで個人的にはお会いしたことのなかった
  西尾実先生のところへ行ったんです。      」( p130 )

はい。つづけます。

「 西尾先生は人の話をおしまいまでよく聞く方だったんですよ。
  ・・・・・・・・・・

  ま、とにかく西尾先生は・・一生懸命聞いてくださったんです。
  私は実情を話して、努力してもできないということがわかった
  と言いました。戦後のああいう状態の子どもには、
  自分にはなにもできない、不可能だと言ってね。

 『 困ったね、では高等学校へ戻れるようにしてあげよう。
   そこでできることをやったほうがいい 』
  
  などとおっしゃってくださることを期待していたわけです。
  それなのに私が全部お話しして、おしまいになったら、
  西尾先生は『 話はそれだけか 』とおっしゃった。

  それだけかって言われてもねえ(笑)。

  しかたがないから、『 はい 』って言った。
  そうしたら、

 『 死んでしまったり病気になってしまったりしたら困る。
   でもそうでなければ、これが本物の教師になるときかな 』

  っておっしゃったんです。・・・
  帰り道でどうしたものかと考えましたよ。
  先生はもう私をどこへも移してくださるはずはない。

  そのとき、ふと新聞のことを考えついた。     」 ( p131 )



 はい。この新書では西尾実先生が、私が読み返して
 3回ほど、肝心な箇所で登場しておりました。

      p70~71  p130~131 p168

読まない癖に、つい気になると本を買いたがりの私は
いったい西尾実先生とは何者?
うん。安い古本を買うことに。


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三脚脚立。

2023-02-01 | 地域
今日は、快晴で昼間は風もなし。
主なき家の伸びすぎのマキノ木の枝を切っておりました。

いままでは、ハシゴを半分に折ったタイプの脚立で
枝切をしてたんですが、今日はよく植木屋さんが
使ってるような三脚脚立でやってみたいと思い。

午前中に三脚脚立を買いにゆき、そのまま枝切り作業。
これを買ってよかった。安定してる、足の踏むステップが
二箇所になっていて、各段に腰掛けられるような安定感。
何より足裏が安定して疲れ知らず。
木に立てかけるハシゴのように近づいて設置できるし、
これを、何で今までつかわなかったのかと思いました。

スッパスッパと枝を切るだけの単純作業でしたからか、
午前中にやめる予定が、お昼も食べずに、2時半ごろまで。
帰って4時ごろに、チリバーガーを昼食と夕飯がわりに食べる。
お風呂に入って、ひさしぶりの缶ビール。
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