和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

安房震災誌の白鳥健

2024-01-16 | 安房
安房の関東大震災を記録した
安房郡役所発行の「安房震災誌」(大正15年3月)に
震災の際に、安房郡長だった大橋高四郎氏が
「安房震災誌の初めに」という一文を寄せております。
そこから引用。

「震災誌編纂の計画は、此等県の内外の同情者の誠悃を紀念すると
 同時に、震災の跡を後日に伝へて、聊(いささ)か今後の計に資する
 ところあらんとの微意に外ならない。

 震後復興の事は、当時大綱を建てて之れを国県の施設に俟つと共に、
 又町村の進んで取るべき大方針をも定めたのであった。

 が、本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
 資料も亦た其處に一段落を劃したのである。

 そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
 挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、
 その完成をはかることにしたのであった。・・・  」


はい。大橋高四郎氏のことは、生年月日も出身地もよくわかりません。
とりあえずは、きままに調べられそうな範囲を手探りしてみることに。
ここに、『白鳥健氏に嘱して・・ 』とありました。
うん。安房郡長は、「吏員劇忙の最中」にあって、どんな人に託したのか。

それでは、安房郡長の大橋氏が依頼した白鳥健氏とは、どんな人なのか?
これなら、少しは調べられそうです。

「山武(さんぶ)郡福岡村(東金市・大網白里町)出身の
 『千葉毎日新聞』主筆白鳥健(しらとりけん)・・・・・ 」 
   (p1038 千葉県の歴史 通史編 近現代1 平成14年 )

という箇所がありました。千葉県出身であるのがわかります。
あとは、「日本の古本屋」でネット検索すると、ありました。

白鳥健著「佐倉宗吾伝」(佐倉宗吾堂出版部・大正14年9月)
こちらには、著者兼発行者・白鳥健として住所も載っておりました。
千葉県佐倉町鏑木346番地とあります。

はい。私のことですから、ここから脱線してゆきます。

斎藤隆介著・滝平二郎絵の「ベロ出しチョンマ」という絵本がありました。
はい。私ははじめてひらきます。そのはじまりの1を引用。

「     1 
  千葉の花和村に『ベロ出しチョンマ』というオモチャがある。
  チョンマは長松がなまったもの。このトンマな人形の名前である。
  人形は両手をひろげて十の字の形に立っている。
  そして背中の輪をひくと眉毛が『ハ』の字に下がってベロッと舌を出す。
  見れば誰でも思わず吹き出さずにはいられない。 」


ちなみに、読者の手紙に作者が答えている文がありました。

「内村恭平君。ぼくの短編集『ベロ出しチョンマ』を
 読んでくれたそうで、どうもありがとう。
 
 ・・・・・・・・

 題にした『ベロ出しチョンマ』の主人公、長松の住んでいた
 花和村という村は、いくら千葉県の地図を見てもありません。
 まつった木本神社というのもありません。
 そういう名の人形も売っていません・・・・・
 あれはぼくが作った話だからです。・・・・

 あれは、ぼくが四年まえに千葉へ越してきた時、
 みんなのためにハリツケになって殺された佐倉宗五郎と
 その子どものことを考えて作ったんだ。

 佐倉宗五郎も、カクウの人物である、
 なんて研究を発表している学者もあるんだよ。
 それでも宗五郎は、今も『宗五様』って呼ばれて、
 物語になったり芝居になったりしてみんなの胸に
 ほんとうの人よりほんとに生きてる。
 なぜだろうか君も考えてくれないか。・・・   」

 ( p129~131 「児童文学読本」日本児童文学別冊・昭和50年 )

はい。今回はじめて『ベロ出しチョンマ』をひらきました。
ちなみに、本棚には斎藤隆介著「職人衆昔ばなし」(文藝春秋)が
古本で買ってあるのでした。はい。未読です。
この本には福田恆存氏の『序』があるのでした。
最後には、その『序』のはじまりだけ引用しておきたくなりました。

「これは雑誌『室内』に数年に亙って連載されたもので、
 私はその大部分を既に読んでゐる。
 同誌編集長の山本夏彦氏の見識もさる事ながら、
 筆者斎藤隆介氏が職人の人柄と仕事とに対して懐いている愛情と、
 人目につかず恵まれもせぬ聞書きといふ縁の下の力持を長年続けて
 倦む事のなかった根気とに深く敬意を表する。

 表向き誰も彼も実に能弁に喋ってゐるが、
 大抵は口の重い、そして人嫌ひな名人気質の職人から
 話を引き出す苦労は並大抵の事ではなかったろう。・・」

はい。序文は、このあとが肝心なのでしょうが、ここまで。
え~と。大橋高四郎から白鳥健。佐倉宗五郎から斎藤隆介。
それに、福田恆存と山本夏彦へと脱線しちゃいました。

うん。私は山本夏彦の本を読んでいて、
安い古本で斎藤隆介著「職人衆昔ばなし」を買ってありました。
買ってあったのにそのまま本棚に置き去りになっておりました。 
今年は脱線ついでに、この機会にあらためて、読めますように。 

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丹念に取材し。

2024-01-15 | 産経新聞
産経新聞2024年1月14日の
『 花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング 』。

「能登大地震」と「JAL機炎上」をとりあげ、
 週刊文春と週刊新潮を比べながら、
「 両誌とも丹念に取材し中身が濃い。 」
 と指摘されておりました。

地元の本屋に両誌を注文。届けてくれる。

もどって、花田氏の文の最後にはこんな箇所。

「『文春』の名物コラム『新聞不信』では各紙の社説をバッサリ。
≪ 社説の出来が酷(ひど)い。
  見出しからして言わずもがなのものばかり。
  読む気が失せる。
 「 人命救助と支援を全力で 」   (毎日)
 「 倒壊家屋の捜索に全力を尽くせ 」(読売)
 「 人命救助と支援に全力を 」   (朝日)
  いつもそうだが、
  毎日と朝日は相談して作っているのだろうか ≫ ・・」


はい。週刊文春1月18日号は、480円。
週刊新潮1月18日迎春増大号、510円。
買っても読みたいそういう記事を読む。
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古書目録とKさん。

2024-01-14 | 短文紹介
ちくま文庫「出久根達郎の古本屋小説集」(2023年11月発行)を買う。
パラリとめくれば、
古本屋の主人が、売上ゼロとにらめっこして、
古書目録をつくり地方に発送する場面がある。
はい。印象深いので引用。

「主人は思案の末、古書在庫目録を作って、地方の客に送ることにした。
 地元の特定客だけを当てにしていては、細る一方である。
 古本屋が近辺にない地方の人たちを顧客にしよう、と考えた。
 資金が乏しいので、手書きでコピー印刷することにした。
 40ページの小冊子を作った。

 雑誌の愛読者欄を見て、本を好みそうな人を摘出した。
 古書目録『書宴』第一号は昭和56年8月6日に出来あがった。」(p57)

「主人の手作り古書目録『書宴』は、号を追うごとに大変評判になった。
 品物が安価であること、掘り出しが多いこと、の他に、
 目録の記述そのものが面白いとほめられた。
 本の一冊一冊に、主人が解説を施したのである。
 ・・・楽しみながらの無駄口講釈である。 」(p61)

さてっと、ここいらまでは事実のような気がするのですが、
『Kさん』の場面は、すこしフィクションを交えているかも。
ノンフィクションかフィクションか。その箇所を丁寧に引用。

「Kさん、という客がいた。目録の創刊号以来のお得意だが、
 毎号、熱心に注文を下さるのだけれど、大抵ほかの客と
 目当ての品がぶつかってしまい、先着順の受けつけゆえ、
 運悪く後れを取る。・・・・

 しばらくしてKさんからの注文が絶えた。目録は送り続けたが、
 そろそろ中止の潮時かも、と考えていた矢先、
 Kさんの息子と名のる若者が訪ねてきた。
 Kさんは四国の、奥深くに在住の方である。

 むすこさんは東京に用事があって出てきたのであった。・・・
 父親に頼まれたのである。・・父に託された、と里芋のように
 丸いトロロ芋を下さった。袋に詰めて重いのをわざわざぶら下げて
 きたのである。・・・・

 これでは目録の郵送をやめるわけにいかない。
 しかしその後もKさんからは、一度も注文がなかった。・・・」(p63)

 このあとに、主人公は、Kさんの死を知らされます。

「『 父はベッドで『書宴』を読むのが唯一の楽しみでした。
  書宴が送られてこなくなるのを、極度に恐れていたんです。
  ならば毎回注文を出せばよいものを・・妙な父親でしてね。・・
 
  でも父は喜んでいました。
  『書宴』が最後まで父の枕頭の書でありました。・・  』

 ・・・古書目録は、Kさんにはむしろ『本』だったのだ。 」(p64)


さてっと、ちくま文庫の解説は、南陀楼綾繁さん。解説の題は、
『古本屋のことはぜんぶ出久根さんに教わった』とあります。
最後に、その解説から、この箇所を引用。

「出久根さんは『書宴』という古書目録を発行していたが、
 そこに載せた文章が編集者の高沢皓司氏の目に留まり、
 それが『古本綺譚』にまとまった。

『 高沢さんは、
【  古本屋の親父の身辺雑記、と人には言いふらして下さいよ。
   小説集、と絶対に口をすべらせてはいけませんよ。
   無名の人間の小説集は売れませんからね     】
 と釘をさした。私は口外しないと約束した』(「親父たち」)

 その嘘に見事に引っかかった私(南陀楼さん)は、
 かなり後まで『古書綺譚』はエッセイ集だと信じていたのだ。」(p408~409) 

 
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お正月のべべ。着古したゆかた。

2024-01-13 | 思いつき
本の検索をしてたら、
大村しげ著「しまつとぜいたくの間」(佼成出版・平成5年)が出ている。
そういえばと、未読の本棚を探すとある。巻末の紹介には

大村しげ。1918年京都府生まれ。京都女専国文科に学ぶ。
     京ことばだけで文章を綴り、京の暮らしや食べ物
     のことを随筆として描く。・・・・

本をパラリとひらき『ぼていっぱいの思い出』という5ページの短文を読む。
はじまりは、

「わたしは生まれたときからずーっと着物で育った。
 そして、70歳を通り越した今でもその着物暮らしが続いている。」

うん。調子づいて引用してゆくことに。

「母は着物ほど安いものはない、というていた。そして、
 ぼて(和紙を張り、柿しぶを引いたかご)にしもうてある反物を見ては、
『 これ、あんたのお宮詣りのべべえ 』とか、
『 お正月のべべやったんえ 』などと話してくれる。」

こうして、ぼてから布を探して、掛布団の中央部分の布にしたり

「母は着物をほどいて洗い張りに出し、きっちりとしもうてあった。
 そして、いうには、
『 着物ほど安いものはないなぁ。着られんようになっても、
  こうしてちゃんと役に立っているのやから 』
 それが口癖になっていた。  」


このあとに、御自分のことになります。

「わたしはまたつぎ当てが好きやった。
 若いくせに、泥(泥染め)の大島などを買うてもらい、
 赤い帯を締めて、お茶やらお花のけいこに通うていた。

 その着物を着古して、身八つ口などが破れてくると、
 薄い絹の布を当ててきれいに繕うた。
 いや、身八つ口どころか、身頃全体が薄うなっている。
 それで全部に布を当てて、着物の裏はつぎが色紙のようである。
 そんな布地をきれいな袷(あわせ)に仕立て上げて、
 何食わぬ顔で出かける。

 『 まあ、ええ柄の大島、着といやすこと 』

 とほめられると、心のうちでにんまりとして、人をだますのはおもしろい。
 こうして、つぎだらけの着物を着て・・・   」

さあ。短文なので、もう最後の引用になります。

「 着古したゆかたは、布がやわらかいので、おしめになった。
  おばあさんは、自分のゆかたで自分が寝ついたときの用意を
  ちゃんとしてはった。

  今は紙おむつのある時代やから、いざというときでも
  すぐに間に合う。そう思うと、
  やっぱり昔の人はえらかった。・・・  」(p30~34)


うん。こんな箇所を引用していると、自分にとって
『 ぼて(和紙を張り、柿しぶを引いたかご)にしもうてある反物 』は、
 何だろうなあと思うのでした。

本棚から、本の断片を切り取ってきて、つないで
さも反物を切り貼りするような引用をしてブログにあげている。

『 しまいまでほかすところがのうて、お役に立つのやから。 』(p34)


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70代の読書。

2024-01-12 | 本棚並べ
古本で和田秀樹著「70代からの元気力」(知的生きかた文庫・2022年)購入。
パラリとひらけば、こんな箇所。

「1960年の平均寿命は、それでもまだ男性が65歳、女性が70歳。
 この本の読者層で言えば、ちょうど下の世代の年齢層と言えるかも
 しれません。つまり、1960年であれば、本書のような本は、読者層が
 ほとんど生存していないわけですから、存在し得なかったわけです。

 70代、80代を読者対象にした本がよく売れている日本の現状を考えると、
 とても信じられない気持ちになります。           」(p93)


はい。一年は早い。と年々感じるわけですが、
1月に一年の計を抱かなければ、忘れて過ぎる。

よし、今年は、安房郡長・大橋高四郎のことを
簡単に手に入る本のなかから、抜き出してゆく。
という目標を掲げることに。

それに関して、今年注文した古本といえば、
「千葉県安房郡誌」(編纂兼発行所・千葉県安房郡教育会)。
古書ワルツに注文。5000円+送料520円=5520円なり。

ちなみに、安房郡役所から出た「安房震災誌」は、大正15年3月31日発行。
注文した、「千葉県安房郡誌」はというとこれが、大正15年6月30日発行。

その千葉県安房郡誌の最後に104ページほどで、安房の関東大震災の記録
をコンパクトにまとめてありました。これはたすかる。

パラパラ読みで、通読が苦手な私のようなものは、
とりあえずは、本棚にならべて、あっと過ぎる今年の一年をうらなう。
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買えちゃう本たち。

2024-01-11 | 本棚並べ
地方に住んでます。ネットとかで本が買えない頃は、
新刊でも、地方の書店にない場合は、注文を出して本が届くまでまず1週間。
もちろん、古本の購入は、都会へ出かけておりました。
それだって、ただ漫然と古本屋をまわっておりました。

現在は、有難いですね。ネットで新刊も古本も買えます。
早いと、翌日届きます。新刊だと当日夜届くこともある。
古本は郵便が土日休日配達しないので遅れることもある。
うん。あとは届いた本を読むだけになりました。

古本で注文してあった、「大菩薩峠・都新聞版」全9巻(論創社)届く。
神奈川県海老名市・馬燈書房。5550円+送料1000円=6550円なり。
帯つき全9巻。ページもきれいです。あとは、読むだけ(笑)。

とりあえずは、持っていても未読だった
安岡章太郎著「果てもない道中記」上下巻(講談社・1995年)と並べてみる。

私みたいなへそ曲がりは、最初から読もうとすれば、すぐに挫折します。
正面から向かわないで、裏口から。という手もあり。
何でもいいから私の望みは全巻へ目を通すことです。

さてっと、「果てもない道中記」の下巻。その帯には

「『大菩薩峠』の雄大なスケールを堪能する魅惑の旅」とある。
では、下巻の裏口、最後の方をひらいてみる。

「龍之介を天成のまろうどと呼び、それ故に大菩薩峠の物語は
 一種の貴種流離譚であると言ったのは堀田善衛である。
 このことをどう理解すればいいのだろうか。・・・   」(p404)

そういえば、安岡章太郎著「流離譚」というのがあった。


『果てもない道中記』下巻のいちばん最後の方を引用。


「介山は、昭和19年、終戦の1年前、4月28日に死去した。享年59歳」  
                           (p408)

「当時としては珍しく中国とアメリカへ二度の海外旅行にも行っている。」
                           (p410)

「・・・『大菩薩峠』は、初出原稿こそ都新聞に載ったが、
 あとは介山が指示して家族総出の手造りで出来たもので、
 現在のマス・メディアなどといわれるものとは異質無縁の産物である。」
                           (p414)

ということで、この本の終りの4行を引用。

「 おもえば『音無しの構え』という消極性の極限が
  無比の積極性につうずるという戦法は、

  徳川末期の日本の生んだ極めて日本的な対応法であり、
  現在にいたるまで、これは私たちの骨がらみになった
  世渡りの極意の如きものであろう。

  これを破り、これを越えるには、やはり
  『 忍び踊り 』を踊るぐらいしかないのであろうか。 」(p417)


はい。最後しか読んでないのですから、なにもわからない。
『大菩薩峠』をパラパラ読みで、読み終えるのが今年の夢。
今年の夢が、かないますように。

 



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茶道と非常時

2024-01-09 | 道しるべ
昨年読んで興味を持った臼井史朗の本を
数冊古本で買ってあり、そのままだった。

臼井史朗著「昭和の茶道 忘れ得ぬ人」(淡交社・平成5年)。
とりあえず、途中からパラリとひらくと

「昭和20年8月、日本全土が焦土と化し飢餓のどん底で敗戦。
 しかし、20年11月には『茶道月報』は復刊する。・・ 」(p26)

このあとに、昭和23年頃の手紙が引用されておりました。

「まったくの廃墟の中で、風雅の道を、ともにもとめる心境に、
 悲しいまで情感がにじみ出ている。

 ・・・名古屋の友人伊藤幸楽主人ハ今様ニ
 水ツケの焼ケ跡から茶器類をホリ出シ
 小生ニモ珍らしき事ナル旨通知ありたるニ
 蕨の絵をかき
   春山ニやけ太りたるわらびかな
 と申送り候処 それらを取繕ふて 木曽川町の仮寓で
 名古屋より疎開中の茶友を招き 一会致度由
 楽げニ茶会記を添へ申来りて候

 又左近君ハ爆風ニて散々ニ家ヲ崩サレナガラ
 之を自分にて幾分修理シ 道具類ヲ纏メツツアル旨申来り

 到処此喜劇のみ承わり居候
 茶道ニハ非常時無ク 平常心是道
 茲ニ御喜ヒ申上候           


・・・・これも年次はさだかでないが敗戦直後の、松永耳庵より、
三昧宛の書信と思われるものであるが、
『 茶道ニハ非常時は無く、平常心あるのみ 』とあるあたりに、
茶友の心情がうかがわれる。

松永耳庵からの手紙は、まだまだある。紙一枚が貴重な時代である。
まともな便箋など一枚もなく、細字で毛筆、句読点、改行の余裕などは
まったくない。飢餓時代であるが、茶を通じての心は、
筆跡ににじみ出て心なごむようである。  」(~p29)


はい。この数ページの箇所を読んで
私は満腹。先を読む気がしなくなる。


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『春の朝』

2024-01-08 | 産経新聞
産経新聞2024年1月8日の、正論オピニオン欄。
平川祐弘氏が「和訳『春の朝』に神道的畏敬の念」という
見出しの文を載せております。

ちなみに、平川祐弘氏は1931年11月生まれ。現在は92歳。
ご自身の娘さんたちが、小・中学生の頃のことが語られておりました。

「 家内は昔この訳詩(「春の朝」)と原詩を三人の
  小・中学生の私の娘たちに暗唱させた。私も時々和した。 」

原詩は、ロバート・ブラウニング(1812~1889)。
訳詩は、上田敏。二つ並べてみます。

 時は春、          The year’s at the spring
 日は朝(あした)      And day’s at the morn;  
 朝は七時          Morning’s at seven;
 片岡に露みちて、      The hill-side’s dew-pearled;
 揚雲雀なのりいで、     The lark's on the wing;
 蝸牛枝に這ひ、       The snail’s on  the thorn:
 神、そらに知ろしめす。   God's in his heavenー
 すべて世は事も無し。    All’s right with the  world!


この最後の行を、指摘して、

「私は自分が英詩の最終行を All’s well with the world.
 と勝手に読みかえていたことに今度気がついた。

 すると、
『 well の方が right のような正義の押し付けでなくていい 』
 と三女が言った。

『 英詩の方の「 すべて世はこれで良し 」の
  積極的強調はキリスト教のゴッドの世界だが、
  
  訳詩の「 すべて世は事も無し 」の
  天下泰平は神道の神様の世界だな 』

 と私が言うと、娘もうなずいた。  」

そうして、詳しく付け足したあとに、こう指摘されております。

「 世間はうすうす感じつつ、
  このような違いがあることを口にせずにきた。

  何語で読むかで、詩の雰囲気が
  キリスト教から神道に変わる。

  近年の日本語訳の『聖書』では
  jealous God がかつてのように
 『 嫉妬(ねたむ)神 』でなく『 熱情の神 』と表現される。 」


うん。この文の最後には、山本七平が語られておりました。
最後は、そこの箇所も引用してしまいます。


「 大学入試に
 『 jealous God について
   次の三つの訳のうち一つは誤りである。

   A 嫉妬する神   B ねたむ神   C 熱情の神  』 

  という問題を出せば、受験者の多数はCを誤りと認定するだろう。

  かつて評論家、山本七平は
  日本人キリスト教徒と西洋人キリスト教徒との違いにふれ、
  前者は『 日本教徒のキリスト派だ 』と指摘した。

  日本人の仏教徒も似たもので、
  日本教徒の仏教派と指摘できることは多い。
  例えば、遺体を『 仏さん 』と呼ぶ仏教圏は日本のほかにない。

  霊(みたま)を尊ぶ昔ながらの日本の神道的感覚が
  死後も霊が宿る遺体を大切に扱うことを求める。

  仏教で一番尊い『 仏さん 』のお名前で
  ご遺体を呼ぶのはその故であろう。   」


この結論に、いろいろなご意見もでるでしょうが、
なによりも、めでたいのは、今年1月そうそうに、
産経新聞で、平川祐弘氏の文が読めたということ。
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そりゃそうよ。

2024-01-07 | 短文紹介
本を読もうとしても、本は読めないなあ、と思っていたら、
思い浮かんだ対談がありました。

金美齢・長谷川三千子「この世の欺瞞」(PHP・2014年)。
この箇所が浮かびました。

長谷川】 私もよ~く覚えてる。
     2歳の子供を連れて歩くのは、
     8階まで階段を上るより、はるかに疲れるのよね。

金】  そりゃそうよ。

長谷川】 子供の脚に合わせて歩くのって、本当に重労働。
     おまけに、やたらに立ち止まって『あ!』とか言って、
     何かを拾うわけよね(笑)。

     『 それは≪ばっちい≫から、やめようね 』

     と注意して、何とかあきらめさせる。それで、
     大人の脚だったら10分に行けるところが、30分はかかってしまう。

金】   その通りよ。

長谷川】 要するに、子供を育てるということは、
     そういう非能率の24時間を過ごすってこと。

金】   忍耐。忍耐。

長谷川】 私の乏しい忍耐力が、子育てで、
     かなり鍛えられました(笑)。         (p136)



はい。ここに登場している『2歳の子供』というのが、
今の、私の読書じゃないかとハタと膝を打つのでした。
私は、本を読みはじめても、まともにゴールできない。
とりあえず脱線していって、もう元の本にもどれない。
こんな読書じゃ『2歳の子供』より悪いのじゃないか。
まあいいや。こうして、馬齢を重ねてしまった以上は、
このままの自分を受け入れ本とつきあってゆくことに。

『日本の古本屋』で検索すると、
『大菩薩峠』は論創社で全9巻がありました。
そのいちばん安いのを注文。

この論創社の『大菩薩峠』は、伊東祐吏の解題に、こうあります。

「本シリーズは、大正時代に都(みやこ)新聞≪現在の東京新聞≫紙上に
 掲載された中里介山『大菩薩峠』を新字、新仮名、総ルビ、挿絵つきで
 復刊するものである。・・・」

「都新聞に連載された『大菩薩峠』は、単行本化されるにあたって、
 全体の約30%が削除されている。・・・・・」


はい。この論創社のページは、見開きの右と左で
新聞連載の1回分。そこに挿絵・井川洗厓もある。
うん。これなら万事横着な私にもひろげられそう。

さて、それとは別に、扇谷正造氏の文中に桑原武夫氏の
文が紹介されていたのを思い出します。 ありました。

桑原武夫に『大菩薩峠』(1957年5月)という4ページの文。
そのはじまりは

「昨年(1956)、私は横光利一の『旅愁』について放送させられたことがある。
 日本近代文学の諸名作についての連続講義の一つを割当てられたのだ。

 ・・・悪口めくから嫌だといっても、それもまた一興、
 というので、仕方なしにやった。

 開口一番、この小説の再読は、私にとって全く苦痛だった。
 その間、途中まで読みさしの『大菩薩峠』に一そう心ひかれて困った。
 私は横光利一より中里介山の方が芸術家として上だと信じている、
 というところから始めた。・・・・・

 私はハッタリをいったつもりはない。すべて努力は幸福をもたらす、
 というのは倫理的に立派な考え方だが、そして努力なくしてよき成果
 のないことは大よそ確かだが、努力してつまらぬ結果しか出ない場合
 も多いのである。芸術においては特にその感がふかい。・・・ 」

はい。こうしてはじまっており、ここにはその文の最後を引用して
おわることに。

「『大菩薩峠』では机竜之介はもちろんのこと、
 主要登場人物がすべてアウト・ロウ(out-law)だ、
 ということは従来あまり指摘した人を聞かぬが、
 そしてこの着眼は生島遼一君と私との雑談ではっきり
 したことだが、将来大きな手がかりとなるべき点にちがいない。

 ・・・・このあいだ・・一ぱい飲んださい、
 この小説の面白さをしゃべり立て、若干の仮説をのべ、
 大いに扇動しておいたところ、もう半分以上もよみ上げたというのが、
 数人あらわれた。

 私は昭和のはじめに全巻を読破したが、
 再読は半ばまで来て意識的に停滞させてある。

 そのうち日本文化史や国史、文学、心理学などの
 若手の学者諸君と共同研究でもやれたなら、

 ――これが今年の正月からいだいている私の夢である。 」

  ( p16~19 「桑原武夫集 5」岩波書店 )


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当今のじいさんばあさん。

2024-01-06 | 重ね読み
古本を買ったりしてると、波が打ちよせる海岸の砂浜で、
貝殻やあれこれを、ひろっているような気分になります。

はい。初日の出を見に海岸へと行き砂浜で待ちながら、
小石を二つばかりひろってポケットに入れてきました。

波間にサーファーが見える。これは本にたとえると新刊。
そして砂浜に打ち上げられてくるのが、これは古本かな。
はい。新刊もしばらくすれば砂浜へ打ち上げられてくる。

などと思いながら、見なかった初夢のかわりにします。

昨年の古本で私が気になったのが『大菩薩峠』。
もちろん、波打ち際でひろった片言の断片です。

① 津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)
② 扇谷正造著「諸君!名刺で仕事をするな」(PHP文庫・1984年)

はい。まずは①から、
「私の時代が遠ざかる」と題した文のはじまりは

「私と同年輩の知人のなかには、新聞をひらくと
 まっさきに死亡欄をのぞくというような者が何人かいる。
 
 とくに年齢と死因。それを確認して、ホッとしたり
 不安になったりするのだとか。

 いやいやそうしているのではあるまい。
 当今のじいさんばあさんは、そこまでナイーブではない。
 むしろ毎日の定例儀式として、けっこうそれをたのしんでいるのではないかな
 ・・・」(p118)

このあとに、4名が列挙されておりました。

  〇 丸谷才一、2012年10月13日、87歳、心不全
  〇 中村勘三郎、2012年12月5日、57歳、急性呼吸窮迫症候群
  〇 小沢昭一、2012年12月10日、83歳、前立腺がん
  〇 安岡章太郎、2013年1月26日、92歳、誤嚥性肺炎

最後の安岡章太郎氏についてでした。こうありました。

「・・病名は、この間に安岡さんが押した何枚ものドアの最後の一枚
 ということであって、沈黙のうちにすぎた氏の80代のすべてを語って
 くれるわけではない。だからといって、しいてそれを詮索する気もない。

 ともあれ、そのようにして安岡さんは消えていった。
 よおし、これまで何回か読みかけて、そのつど挫折していた
 長大な大菩薩峠論『果てもない道中記』に、
 もういちど挑戦してみるとするか。  」(p120)


はい。ここに『大菩薩峠』という言葉が出てきておりました。
次は、②です。②の文庫第三部に『大菩薩峠』が登場します。

「たしかフランスの作家だったと思う。・・・
『その生涯において、何度もくりかえしてよみ得る一冊の本を持ち得る人は、
 しあわせな人である。さらに、その何冊かを持っている人は至福の人である』
 というのを読んだことがある。してみると、私は、
 その至福の人にはいるのかも知れない。しかし、それらの中でも、
 私にとって≪一冊の本≫というと、何になるのだろうか。
 私は、どうも中里介山の『大菩薩峠』じゃあるまいかと思っている。」

「昭和4年・・仙台の二高の明善寮の一室に、私は、
 このうち四巻分(「大菩薩峠」)を携えて入った。
 
 昭和7年、東大に入った。そのころ私は、マルキシズムを信奉していた。
 しかし、本郷の私の下宿には、ブハーリンの『史的唯物論』や
 マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』と並んで、この四冊があった。

 たぶん、そのころであったろう。谷崎潤一郎氏が、
 この小説(大菩薩峠)の口語体の文章の美しさを激賞しているのを
 読んだ時、私は、わが意を得たと思った。 」(p246~247)

最後に、ちょっとこの箇所も引用したくなります。

『赤大根』と題された文で、
 就職する際に、松岡静雄先生に紹介状を書いてもらう場面。

「・・私は左翼運動に熱中し・・・
 朝日(新聞)にはいる時、紹介状をおねがいしたら、
 下村海南副社長(当時)あての手紙には、

 『 この学生、いささか、赤いが、それは赤大根程度にて・・ 』

 とあった。紹介状をよむなんて不届き千万な話だが、
 心配のあまり、私は、湯気をあてて、そっとあけたのである。
 一読、驚いた。これはいけないと思った。若さというものはこわい。
 私は、鵠沼にでかけ、先生に紹介状の書き直しをおねがいした。

 トタンに『 バカもの! 』という雷が頭上に落下した。

『 もう書かぬ。いいか、よく聞きなさい。
  お前が赤いか、赤くないかぐらいは、社で調べればすぐわかる。
  これは、それを見越しての紹介状だ・・・ 』

 私は、つくづく自分がいやになった・・・。
 ご恩になった人は、そのほか数え切れない。・・・   」(p242~243)


う~ん。『赤いか、赤くないか』はべつにして
大地に埋まって根の白さが『大菩薩峠』なのかなあと、
今年、初チャレンジしてみたくなる、本となりました。

とりあえず、『読むか、読まないか』はべつとして
まずもって、今年、古本で揃えてみたくなりました。
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百年の計

2024-01-05 | 安房
講談社の「日本語大辞典」で『百年の計』をひくと
「 遠い将来を見越した計画 far‐sighted policy 」
とありました。

昨年は、関東大震災から百年でした。
地元の震災ということで大正15年3月31日に出版された
『 安房震災誌 』を、再度今年はひらくことにします。

そのはじまりの方、前安房郡長・大橋高四郎の言葉に

「 本書の編纂は、専ら震災(関東大震災のこと)直後の
  有りの儘の状況を記するが主眼で、資料も亦た其處に
  一段落を劃したのである。
 
  そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。
  ・・・・  」

では、その白鳥健氏の『凡例』は、どう書かれていたか。

「 ♢ 本書は大正12年9月の大震災によって、
    千葉県安房郡の被った災害と、之れに対して
    安房郡役所を始め全郡の官民が執った
    応急善後施設の概略を記録したものである。 」

「 ♢ 本書は記述の興味よりは、事実の正確を期したので、
    第一編に掲げたる諸材料の如きは、文章も、諸表の様式も、
    敢て統一の形式をとらず、当時各町村が災害の現状そのものに
    就て作成した儘をなるべく保存することに注意した。
    ・・・・・                    」

「 ♢ 終に私が安房郡役所の嘱託によって、
    本書の編纂に干与したのは、震災の翌年のことであったが、
    当時は各町村とも、震災の跡始末に忙殺されてゐたので、
    調査報告の取りまとめに可なりの月日を費した。・・・・

    若し此の小さき一編の記録が、我が地震史料の
    何かの役に立つことがあれば・・・       

          大正15年3月      白鳥健 識す  」


はい。今年は、他の資料も重ね読みするつもりで、
読み進めてゆこうと思っております。

ちなみに、ネット検索していたら、
津波デジタルライブラリーで、簡単に「安房震災誌」を読めそうです。
さらに、masuda miyako さんのスレッドに、こんな書き込みがありました。

「 読めば読むほど、この大橋高四郎という当時の安房郡長は、
  本当に立派な人です。でも、ネッ トには、ほとんど出ていません。
  ・・・・・・
  もし、この大橋高四郎さんについて情報をお持ちでしたら、
  教えていただけないでしょうか。     」

 というご意見を拝見。うん。知らないながら
 関東大震災と大橋高四郎と限ってなら本から
 いろいろと取りあげてゆけそうな気がします。

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初日の出

2024-01-04 | 安房
今日は1月4日。
年の暮れから今日までゆっくりしてました
( おっと、毎度のことですけれども )。

元旦には、今年は3人で海岸まで初日の出を拝みにゆく。
一人では歌はないのに、口をついて歌がこぼれでたのは、
貴島憲の『復興の歌』(1923年)。その一番。

関東大震災の直後につくられた歌です。
繰り返し歌いながら海岸までいった、その一番の歌詞。


   黒潮香る東海に 旭日(あさひ)さやかに射し昇る

   ああ安房の国美(うま)し国 我等若きを歌わなん


上空に雲はなかったけど、水平線に平行して雲が帯状にかかっていて、
直接に海からの日の出は見れません。雲から顔を出すのを待ちました。
はい。防波堤には若い方の顔がならんでいました。
サーファーもいますし、釣り人もいました。



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