和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

茶の間・床の間・仏間

2024-01-19 | 思いつき
茶室とか、茶道とか、わたしには分からず、
まずもってどう捉えてよいのかが分らない。

などと漠然と思っていたのですが、
あっ、これが手がかりになるかも。
そんな古本の一冊を手にしました。

小泉時著「ヘルンと私」(恒文社・1990年)。
そこに「野口米次郎とセツ」という文がある。
「詩人の野口米次郎氏は、八雲に会いたいと
 思っておられたようだが、二、三日の差で、
 生前の八雲に会うことができなかった。」(p84)

こうはじまる7ページの文と写真。
写真は、葬送の西大久保の自宅前と葬列。
それに、西大久保の家の仏間兼書斎写真があり印象深い。

さて、野口米次郎が、セツの在世中に友人の米人記者を連れて
訪問した様子を記述した文が紹介されておりました。

「文豪ラフカディオ・ハーンの未亡人、節子刀自(とじ)は
 令嬢寿々子さんとハーン在世当時、
   松江から連れて来た腰の曲った老婢よね婆さんと、
   三人で東京市外西大久保の自宅で老後を養っていた・・・・
 刀自は知らぬ人に応接することをあまり好まなかった。」(p87)

この訪問者の箇所も印象鮮やかなのですが、
引用をカットして野口氏が〇〇氏を案内した場面。

「それは『新聞社からの案内ならば困る、筆者(野口米次郎)が
 案内して来て下されるなら面会しましょう』という訳であった。

 約束の時間に訪問した。玄関へお米婆さんが取次に出た、
 名刺を通じて暫くすると、刀自は黒紋付の羽織、令嬢は
 友禅縮緬の礼装で玄関に私等を迎えられた。

 〇〇氏には途中自動車の中で日本の礼儀のことを話しておいたから、
 先ず一礼して静かに外套をとり、靴をぬぎ、静々と導かれるがままに
 庭に面した日本座敷に通された。

 床の間にはハーン愛好の桜花満開の軸が掛けられ、
 その前に香がたかれてある。庭には赤や白の皐月(さつき)が
 今を盛りと咲いているが、五月雨が降っていて薄暗い。

 令嬢が日本の茶とお菓子を礼々しく持って出る。
 〇〇氏はただ無言のままで、日本の座布団の上に
 ヘンな足つきで固くなって坐って居る。
 刀自は・・・

 『お馴れにならないのにこんな室でお気の毒ですから、
  ハーンの書斎に椅子とテーブルを用意しておきましたから』

 と、今は仏間となっている書斎へ案内された。
 それから刀自は、正面の仏壇の扉を開かれ燈火をともし、
 ハーンの肖像と位牌の前に黙礼して生ける主人に対するが如く、
 私共に出されたものと同じ果物やお菓子を供え、
 鈴をチーンと打って、静かに〇〇氏の前へ進まれた。

『 お名刺を一枚いただきたい 』

筆者(野口氏)は〇〇氏に向かい、
『 刀自が今ハーン先生の霊前に貴下の来訪をお告げになるのです 』
と伝えた・・・・

 刀自は〇〇氏の名刺を仏前に供えられてから、

『 はるばるお訪ねくださいました貴下を故人の霊に引合わせました。
  さぞ喜んでいることでしょう 』

 と申された・・・・
 それからいろいろと、ハーンの遺品を出して見せたりされた。
 筆者は〇〇氏に何か質問や希望がないかと聞いた。
 氏は・・・ただ多年憧れて居た大文豪のお住居を訪ね、
 しかもかくまでご丁寧な待遇を受け、
 文豪の霊にまでお引きあわせ下さった事は、
 生ける文豪に直き直き面会したと同じである。
 日本へ来て各方面の見物や諸名士の招待を受けたが、
 今日の如く自分の脳裡に深く印象し、また
 今日の如く嬉しい日は生れて始めてである。・・・・・

何もセツばかりではなく、戦前まではどこの家庭でも 
仏間があり、来客より頂戴物があれば、まずお燈明をあげ、
先祖の霊に捧げてから家族がいただいたものである。・・・」(~p91)



はい。私の昔の家には仏間というのは無かったのですが、
居間兼食堂兼寝室の部屋に備付けの小仏壇はありました。
そんな私にも、仏間のイメージは何だかわかる気がする。

どんな心持で、茶室をイメージすればよいのだろうか。
この本から、私は仏間から茶室へ補助線を引いてみる。
これで、縁遠かった茶室茶道が身近に感じられるかも。

神棚から神社へとつながるように、案外なことに、
茶の間、床の間よりも、仏間から茶室への道のり。
どうせの思いつきなら、このような連想の楽しみ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする