月刊Hanada2024年3月号届く。
巻頭随筆で渡辺利夫氏と門田隆将氏が台湾を書いている。
それを紹介。まずは門田氏の台湾。
「・・極寒の能登で倒壊家屋の下敷きになった人が助かる確率は
1月2日、3日の『二日間』のみといってよかった。
圧倒的な数の倒壊家屋に、どれほど救出隊員が居ても足らない。
・・倒壊家屋の下から家族の命を救い出す専門家集団は、
日本にも台湾にも存在する。この高度な救出ノウハウを
台湾に伝えたのは、実は日本である。
李登輝総統時代の1999年9月21日午前1時47分に発生した
マグニチュード7・3の台湾中部地震。
このとき日本は9月21日当日の内に救助隊の『先遣隊』、
『第一陣』、『第二陣』を送り込み、さらに翌日も『第三陣』
を派遣した。・・・
李登輝総統は感激。・・・のちに
『日本で何かが起こった時に真っ先に駆けつけるのは台湾だ』
と言い切ったのである。・・・・ 」
そのあとに、東日本大震災の台湾の経緯を記述したあとに、
「 今回も台湾救出隊の動きは早かった。
能登半島地震発生およそ1時間後の午後5時過ぎには
蔡英文総統がお見舞いと共に支援表明。
約3時間後の午後7時過ぎには、総勢160人規模の
捜索救助隊の派遣準備を整え、日本側に
『要請があれば即座に派遣可能』と伝達した。・・・・・
日本側からは、受け入れ受諾の回答がなく、
そのまま台湾救助隊は『待機』となった。
約2日間の待機ののち、1月3日午後2時過ぎ、
台湾救助隊は待機を『解除』したのである。・・・
岸田政権は『台湾だけではなく、一律に外国の援助隊は
受け入れていない』と、時系列を完全に無視した弁明をおこなったが、
台湾外交部による
『台湾側は日本政府の災害援助計画を十分理解し、尊重している』
との大人の対応に救われた形になった・・・ 」(p28~29)
ここにある【 時系列を完全に無視した弁明 】というのは、
「・・・翌日、そして二日後に援助表明した中国や韓国と『同列に』
結局、受け入れられなかった。」ことを指摘しているのでした。
この表明で、のちの災害もまた、曖昧なままに継続されることになります。
この3月号には、ちがう視点から『台湾』が語られており
読み甲斐がありました。それが渡辺利夫氏の文です。
氏の文は1月号からつづいておりました。
遠回りして、まずは1月号「後藤新平の大仕事」のはじまりだけ引用。
「自然災害や感染症のことを語る時、
遠い明治のあの時代にあって、
日清戦争後の検疫事業に精出し、
関東大震災に遭遇しては帝都復興をスローガンに
陣頭指揮を執った人物のことを・・・・・・・・
後藤新平のことが現代人になお語り継がれるのはなぜなのだろうか。」
おもいっきり真ん中をカットして、この1月号の渡辺氏の最後は
「やがて再び襲ってくるであろう自然災害や感染症から
日本をどうやって守り抜くのか。
後藤の『仕事』のすべてを徹底的に解明しておく必要がある。
研究者、出でよ。」
2月号の渡辺氏の題は「人間は何かに依存せずしては生きていけない」
とりあえずは、はじまりを引用してから、3月号へ駒をすすめます。
「後藤新平は『危機の指導者』である。・・・・
後藤が初めて台湾の地を訪れたのは、
明治29年(1896)6月中旬のことであった。 」
はい。3月号の渡辺氏の題は「思想と人生――後藤新平のこと」。
ここには、だいぶ端折って、最後の箇所を引用。
「後藤は第4代総督の児玉源太郎という権威において・・
その厚い信頼を得た。しかも帝国憲法や帝国議会の制約からも離れて
フロンティア台湾の白いキャンパスのうえに・・・・
アヘン漸禁(ぜんきん)策、土匪(どひ)招降策、旧慣調査、
土地制度改革、衛生事業、インフラ整備事業などを
次々と展開していった。・・・・・
言及する暇(いとま)がなかったが、
諸事業のための人材抜擢、抜擢された人間への全幅の信頼、
信頼に応える技術者、官僚の後藤への献身が
台湾統治成功の物語を彩っている。」
うん。まとまっていなくてもしかたがない。
引用して備忘録として残しておきたかった。
最後にもう一度、門田隆将の3月号の言葉を引用することに。
「李登輝総統時代の1999年9月21日午前1時47分に
発生したマグニチュード7・3の台湾中部地震。
このとき日本は9月21日当日の内に救助隊の
『先遣隊』、『第一陣』、『第二陣』を送り込み、
さらに翌日も『第三陣』を派遣した。
ここで日本隊が多くの生き埋めの台湾人を救出したことに
李登輝総統は感激。
『 あの悲劇の中で、こんなにありがたいことはなかった。 』
と語り、のちに
『 日本で何かが起こった時には真っ先に駆けつけるのは台湾だ 』
と言い切ったのである。 」