和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『一年の計』『百年の計』

2024-01-22 | 安房
今年は能登地震からはじまった。そうですね。
ここに、新聞の見出しを引用してみることに。

1月3日 『能登震度7 死者48人』
   1日午後4時10分ごろ、石川県志賀町で震度7の地震が・・
1月4日 『能登地震 死者73人に』
1月5日 『能登地震「生き埋め」40~50件 死者84人、不明79人に』
1月6日 『能登地震 救助遅れ深刻 死者94人、安否不明222人』
1月7日 『能登地震 死者126人に』
1月8日 『発生1週間死者128人、安否不明195人』
1月9日 『死者168人 安否不明323人』
1月10日『能登地震 死者200人超す』
1月11日『能登地震 死者206人、関連死8人』
1月12日『死者213人、不明37人』
1月13日『死者215人』
1月14日『輪島 中学生250人避難へ』
1月15日『死者221人 不明24人』
1月16日記事内に『15日時点で222人の死亡が確認・・』
1月18日『死者232人に 輪島で新たに10人』
 ・・・・・・・・・・
            ( 産経新聞の一面から )


『一年の計』は、元旦にあり。といわれますが、
『百年の計』では昨年が関東大震災から百年目。

ここに、『安房震災誌』という本があります。
そのはじめに『安房震災誌の初めに』と題して
安房郡長・大橋高四郎の文があります。

「私が安房郡に赴任したのは、大正9年12月のことで、
 まだ郡制時代のことであった。
 大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。」

こうはじまる2ページの文でした。
そこに、『 今後の計 』という箇所があります。
そこを、引用してみます。

「震災誌編纂の計画は、此等県の内外の同情者の誠悃を紀念すると
 同時に、震災の跡を後日に伝へて、いささか今後の計に資する
 ところにあらんとの微意に外ならない。

 震後復興の事は、当時大綱を建ててこれを国県の施設に俟つと共に、
 又町村の進んで取るべき大方針をも定めたのであった。

 が、本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが
 主眼で、資料もまた其處に一段落を劃したのである。

 そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
 あげてこれを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。

 今、編纂成りて当時を追憶すれば、
 身はなほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
 いささか本書編纂の大要を記して、これを序辞に代へる。

     大正15年3月    前安房郡長 大橋高四郎    」


はい。今年は、この『安房震災誌』を手許におきながら、
安房郡長・大橋高四郎とは、どのような人物だったかを、
当ブログに記録してゆこうと私事『一年の計』をたてる。

それはそうと問題は、その次の段階なのかも。
鷲尾賢也氏の言葉に、こんな箇所があります。

「 いくら企画がよくても、
  誰かが書いてくれないと、
  じつはまったく意味がない。 」(p76)

「  いくらすばらしい企画でも、
   実現しなければ単なる妄想で終わる。
   妄想と企画は紙一重である。
   妄想を実現してしまえばすばらしい企画になる。
   紙一重の差は、天地の開きにもなるのである。   」(p64)

 ( 鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」トランスビュー )


はい。今年の私の『一年の計』が実現しますように、
これが私の役割だと自分で自分の背中を押してみる。

本当は、誰かが書いた大橋高四郎の人物像を読めれば私はそれで満足。
けれど、どなたも書いていないようです。押っ取り刀で始めてみます。

これがキッカケになって、大橋高四郎に関する情報や資料が、
新しく発見・発掘される、その先駆けとなるならばうれしい。
ということで何回でも、今年の『一年の計』を宣言してみる。




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