私の本読みは、パラパラ読み専門。
それも、最初から読まずに、勝手口から読み始めるような変則。
それでも、印象に残る箇所があれば、そこだけ読み返してみる。
その本に、印象深い箇所がたび重ると、あらためて読み始める。
うん。最近はそんな感じの読書をしているような気がしてます。
せっかく、藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)を
ひらいたので、パラパラとめくってゆくと、こんな箇所がある。
「 推敲は必ず紙にプリントアウトしてから行います。
不思議なものですが、同じ文章にもかかわらず、
紙で推敲すると画面で見た場合と比べて何倍もの粗(あら)が見えてきます。・・・
文章そのものの稚拙さも紙のほうがはっきりと浮かび上がる気がします。」(p128)
あれれ~。こうしてブログに打ち込んでいると、すっかり忘れてしまってますが、
たしかに、文章を書こうとした場合に、私も紙にプリントアウトして推敲します。
うん。読む。打ち込む。書く。というのを
『推敲』という視点から考え直してみたい。
まあ、そんなことがふと思い浮かびました。
そういえば、ちっとも読まずにいた積読本にも、
あらためて、光をあてる一手間作業が必要かも。
書評を読んでいると、推敲とはちがうのですが、
新しく本を掘り返してくれている気になります。
くだくだ能書きをつらねました。こんな書き出しは、
はじめから読まなくてもよい見本みたいなものです。
福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)というのを
だいぶ以前に購入してありました。私のことですから、
おそらく、何かの書評で興味をもって、購入したはず。
ですが、ひらかずそのまま本棚にしまってありました。
産経新聞の読書欄「産経書房」(2024年1月28日)の
『ロングセラーを読む』で「私の幸福論」が取り上げられてました。
はじまりの方にはこうありました。
「・・・令和の時代まで読み継がれている。
それが今回紹介する福田恆存(つねあり・1912∼1994年)の
名著『私の幸福論』だ。平成10年にちくま文庫になり、昨年で23刷に。・・・」
はい。この文の最後が引用しておきたくなるのでした。
「 ・・・腹が決まったとき、
やるべきことをやりきったとき、
人は凛とした、落ち着きを覚えるはずだ。
多くの情報に翻弄されがちなSNS全盛時代、
自分の道を一歩踏み出すためにも読んで損はない。 」
はい。福田恆在氏の文は、以前に読もうとしたのですが、
私は読めなかった。読めなくても名前は気になっていた。
おそらくそこで簡単に読めそうな文庫『私の幸福論』を、
買ったのだろうと、忘れていた購入動機を思うのでした。
この機会でもって未読本を既読本へと置き換えるチャンス。
未読なので読書本の推敲をしているような気分になります。