和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

家屋は殆ど総て倒潰し。

2024-03-15 | 安房
「安房震災誌」で、関東大震災の安房郡を読むと、

「・・死者負傷者は曾て人の経験したことのない多数に上り、
 家屋は殆ど総て倒潰して、住むに家なきもののみであったのである。

 即ち地震の為めに必要缼くことの出来ないものは、
 同じ地震の為めに破壊されて供給することの出来ないものになって了った」
                        ( p223 )

今ならば、家屋の倒潰から下敷きになった方を救出すべき日数は、
2~3日が生存の限界だとわかりますが、安房郡長はどうしたのか。
県庁へと急使を送り出したあとに

「無論、県の応援は時を移さず来るには違ひないが、
 北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。
 手近で急速応援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出来ない。

 ・・・そこで、郡長は平群、大山、吉尾等の山の手の諸村が
 比較的災害の少ない地方であろうと断定したから、先づ此の
 地方の青年団、軍人分会、消防組等の応援を求めることに決定した。 」
                        ( p236~237 )

震災当日、大山村へ出張していた平川久太氏が、急遽郡役所へと
帰ってきて、郡長と会話を交わしております。そこでは、
大山方面から、順次北條へと帰る際の被害の状況が語られておりました。

平川氏の回顧には、さらにその後のことが綴られておりました。

「それから何するとなく廳員と共に働いて居ると武田さんが、
 兎も角家へ一度帰って見給へと親切に云ふてくれたので直ぐに出かけると
 
 ・・・帰って見ると門の松の大木の下に悄然と立つて居た家内は
 『 アッ無事で・・條子は潰されました 』
 後は何んの言葉もなく只無言であった。

 直に其の潰れ家の後の隙間から這ひ込んで見ると、
 ナゲシのために圧死を遂げて居る。・・・
 早く出さんと努めたが、何も道具が、ないのでなかなか出す事が出来ず、
 やうやう四苦八苦して抱き出して・・・
 其の夜は木の下に戸板を出して死体を懐き衛って居った。

 電燈は勿論、ローソクも油も何もなく何処を見ても灯影は一つも見えない。
 
 そうした恐怖に襲はれて居る折柄ツナミが来ると云ふ蜚語が
 何れからか伝へられた。折も折、浜手の方に響く海の音は
 一種異様にすさまじく聞える。其の時は慥にツナミが来ると思はれた。

 けれ共其の時はどうする事も出来ない、此の上
 海嘯に流さるるなら親子三人諸共に死を撰ぶより外に策はないと観念し、
 木の下の暗の中に相擁して淋しく時を過した。

 此の時は生の執着から離れ、欲望もなければ従って
 悲しみも苦しみも何等の感じもなかったのである、
 こうして大震災の第一日は過したのであった。  」

        ( p825 ~828  「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


安房郡長は、急使を山間部の町村へと送ろうとします。

「・・先づ救援方を山間部の町村に頼むことが上策だ。
 それには山間部から来てゐる小学校の先生を使者に頼むがよいと思ひ、
 門第一課長を小学校へ行って貰ったが使者に頼むべき人を得ることは
 出来なかった。

 丁度其處へ税務署の直税課長が通りかかった。・・・・

『 君の所で独身で、怪我をしない人間は居ないか。
  是非急使に行って貰ひ度いんだが 』

 直接課長は考へた末、『 ある 』との事で、
 久我といふ税務署の職員を選んで瀧田、佐久間、大山、主基等の
 村々へ救援方要求の為、使者に立って貰ふことになった。・・・ 」

                  ( p818~819  同上 )


「安房震災誌」の最後の方には、各表彰の推薦文が載っております。
そのなかに、安房郡北條町 久我武雄( 明治34年2月29日生 )
とあります。震災当時はというと22歳。
そこに、安房郡長の文なのだろう「功績顕著と認むる事実の概要」が
載っておりました。最後にその全文を引用。

「 大震災に依て稀有の大惨状を現出するや郡は直ちに
  急を本県に報じ救援を求めたるも当面の惨状は
  小時も放擲し置くを許さざるを以て
 
  急に手近に応援を求むるの要あり
  郡内平群、大山、吉尾等山間部は被害少なく求援に便なるを想像するも

  郡吏員は既に救護の為め八方に奔走し
  使者として適任者なく使丁、学校職員其の他に
  人を求むるも遂に応諾するものなく大に苦心の折柄

  偶々同氏のあるあり交渉中激震あり人々色を失ふの際
  氏は快諾一番闇夜悪路を冒し約13里の道程を突破して、
  平群、大山、吉尾等各町村に到り、

  青年団、在郷軍人分会、消防組の出動を請ひたるに
  何れも即夜動員を行ひ2日未明200余臺の来援を得て
 
  死傷者の収容、救急薬品の蒐集、食糧の配給等に
  努力せらる尚ほ之を端緒として引つづき
  各町村青年団、在郷軍人分会等の活動を見る功績顕著なり。 」

               ( p343~344 「安房震災誌」 )


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関東大震災の北條小学校。

2024-03-14 | 安房
安房郡役所隣りの北條病院は、関東大震災の当日どのようだったのか。
吉井栄造氏の回顧の文にこうありました。

「・・北條病院の庭内は見る見る内に死体重傷者を以て埋められた、
 街は見渡す限り住家全潰して道路を覆ひ交通杜絶し電信電話鉄道は勿論不通である 」
       ( p824 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

安房郡役所で、安房郡長・大橋高四郎氏は、どうしたか?

「やれ困った。先づ救援方を山間部の町村に頼むことが上策だ。
 それには山間部から来てゐる小学校の先生を使者に頼むがよいと思ひ、
 門第一課長を小学校へ行って貰ったが使者に頼むべき人を得ることは出来なかった。」
                         ( p818 同上 )

それでは、門第一課長が向かった小学校はどのような状況だったのか?
当時の北條小学校訓導小原時江氏の文が、館山市史にありました。

「・・校舎という校舎が全部倒潰して三角の屋根が地面を這っていた。
 あたり一面広い原っぱになったような感じだった。・・・・

 やや過ぎて負傷された同僚の姿が目に写った。
 渡辺忠治先生は額を大きく切って血が真赤になっていた。
 石井泰三先生は足をやられて歩行困難の様子、
 岡田泰二先生は腰から下が倒潰した校舎の下敷になっている。

 職員が集って救出にかかった。次々に起る余震に救出は中断された。

 救出が終った時、川名先生が裁縫室の中に潰されているとの事、
 声をかけたが全く返事がない。この救出にはかなりの時を要した。
 裁縫室の一室に坐ったまま前こごみになり大きな梁を背中に背負っていた。
 勿論絶命していた。

 学校に残っていた生徒は高等科女性と3名だけだったが、1名は下敷のために死亡した。
 大部分の生徒の下校後の事であったので不幸中の幸であった。

 しばらくして、六軒町の方に火災の発生した知らせを受けた。
 学校の周囲には火災はなかった。

 海の方は何かごうごうとうす気味悪い音がしていた。
 そのうちに潮が遠く沖の方へ引いたとの事だった。
 津波の危険のある知らせを受けた。何名かの職員と
 御真影を奉じて安布里山に避難した。

 町に出て見ると立っている家は一軒もない。
 相変わらず海はごうごうと鳴っていた。

 町の人たちと蓮幸寺の庭で一晩野宿した。
 夜も時々余震があった。一夜明けたが
 津波の心配も薄らいだので学校へ帰った。  」


今回の最後は、北條町日誌の9月1日からの引用。

「小学校教員1名(川名時代)圧死 2名(若林、石井両訓導)重傷す。」

「助役は郡長・警察署長と急遽協議を遂げ知事に顛末を報告し、
 軍艦の出動其の他適当の応援を求める急使を県庁に派遣す。」

「役場仮事務所を郡役所門前に、郡役所、警察署と合同にて開設す。」      
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安房郡長の叱咤激励。

2024-03-13 | 安房
安房郡の関東大震災当日。
大山村へ出張していた平川久太氏は、
急遽用務を中止して帰庁します。その平川氏の回顧の文があります。

「・・平群、瀧田、國府と北條に近づくにつれて
 潰れ家、土地の陥没、亀裂等次第に烈しく・・・・・ 
 橋は落ち道は崩れてはかどらず4時頃やうやう北條に着いた。
 郡役所に馳せ付けて見ると郡衙、警察署、皆影も形もない。

 職員はほこりまみれになって皆青黒く
 半ば死想を帯び何かとそわそわして居た。・・・  」
          ( p826 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

 急使を買って出た重田郡書記は、県庁へと向かう途中で、
 瀧田村役場へ寄って炊出し方の依頼をしてゆきました。
 それが翌日届きます。

 郡長はまた、救援方を山間部の町村に頼むこととして、
 税務署の職員久我氏が、それへの急使を買って出ます。
 安房郡長大橋高四郎氏が安田亀一氏に語っております。

「その翌朝未明には、隣接の各町村から約300人の救援隊が到着した。
 俺(郡長)は全く嬉しかった。

 之を分ちて一部を館山方面の救援に、一部を那古船形方面の救援に配置し、
 残る大部分を俺の手許に置いて善後活動に当つて貰った。

 俺のかうした覚悟と方針は、相当他の人の心にも影響したらしい。
 俺はいつも損害をかこつ人に

『 家や蔵が何だ、目の玉の黒いのが此の上のない仕合せじゃないか、 
  泣言を云っては罰が当る。死んだ人や重傷を負ふた人に済まないじゃないか 』

 と怒鳴るのが常であった。
 郡役所の諸員は勿論、その他の官公衙、各団体の人々、
 郡有力者諸君も、全く自己を忘れて盡して下さった。
 
 郡民諸君もよく此の微力なる郡長を信じて協力して下さったことは、
 永く感銘して忘れられない所である。  」
           ( p821~822 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

 さらに「安房郡民に諭く」という諭告を、安房郡長大橋高四郎の名で発したり、
 されておりますので、これらは次の機会に紹介したいと思います。
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地震より恐れ戦いた。

2024-03-12 | 安房
房総の関東大震災を語っているのですが、
ここで、富津の近くにあった飯野村の竹内氏が
震災10年後に記した回顧から引用しておきます。

「・・・不安な夜は来たが余震は尚続いた、
 北方の空は真紅に染り、帝都は火を発した、
 夕食をし様とする人もなく不気味な夜は沈々と更けていった、
 蚊群に攻められつつ余震におびやかされ乍ら落着かぬ心にて
 まどろむのだった。明るくなれば2日の太陽が上った・・・・

 午前10時頃余震は少くなったと言ふものの
 未だ人々の胸から不安は去らず、徒に心配するのみ

 新聞紙の燃え残りノートの燃え残り等飛来しそぞろ帝都の惨状を思はせる、
 不逞の徒が某方面へ100人上陸した、某方面へ50人此方へ向って来るそうだ、
 流言は飛んで蜚語を生み、村中は蜂の巣をつついた様其の騒ぎは一通りでは無い、
 刀を持出す人、竹槍を造る人等、女子や子供は地震よりも恐れ戦いた。

 一人の正しき指揮者も無く村は無警察状態だった。

 思ひ起せば10年前当時の模様が走馬燈の様に私の頭に行き来する、
 その事も後で聞けば全然流言だったそうだ、
 此の事では如何に多くの村人が心配した事だろう。
 思へば馬鹿馬鹿しくも悲しい事である。・・・    」
      ( p856~857 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

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『・・恐るるは房州人の恥辱である』

2024-03-11 | 安房
関東大震災のさなか、安房郡長・大橋高四郎はどうしてたのか?

「 余震は頻々として来り、
  海嘯の噂は頻々として起り、
  不逞漢襲来の叫は頻々として伝へられ・・  」

今回は『不逞漢襲来』のひとつ、鮮人騒ぎを取上げてみます。
「安房震災誌」には、船形から食糧掠奪に来るという掠奪騒ぎを沮止したという、
 その状況を紹介したあとに、つぎの困難が立ちはだかったことが記録されております。

「又是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。
 安房郡は館山湾をひかへてゐるので、
 震災直後東京の鮮人騒ぎが、汽船の往来によって伝はって来た。
 
 果然人心穏やかならぬ情勢である。郡では此の
 不穏の噂を打消す為めにも亦た大なる苦心をした。

 丁度滞在中であった大審院検事落合芳蔵氏も
 鮮人問題には少からず心を痛め、東京から館山湾に入港した
 某水雷艇を訪ひ、艦長に鮮人問題の事を聞いて見ると、
 同艦長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであった。
 そしてそれを郡長に物語った。物語ったばかりではない、

 人心安定の為に自分の名を以て艦長の談を発表しても差支えなしとのことであった。
 之を聞いた郡長は大に喜び直ちにさうした意味を記載して、
 北條、館山、那古、船形に10余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。・・・・

 此の掲示は初めは大に効果があったのであるが、
 東京の騒擾が実際大きかったので、後ちに東京から来る船舶が、
 東京騒擾の事実を伝へるので最早疑を容るるの余地がなかった。

 そこで、一且掲げた掲示を撤去しやうかとの議もあった。
 然し、郡長は艇長の談として事実である。
 それを掲示したとて偽りではない。

 而かも、之れが為に幾分なりとも、人心安定の効果がある以上、
 之れを取去るは宜しからずと主張して、遂に其の儘にしておいた。 」(p221~222)


このあとには、大橋高四郎郡長の面目躍如たる、地元を叱咤する言葉がありました。

「兎角するうちに郡衙を去ること〇〇地方に鮮人防衛の夜警を始めた土地があった。
 為めに青年団が震災応援の業に事欠かんとする虞れがあった。
 加之ならず、人心に大なる不安を与へることを看取した。
 其處で田内北條署長と共に、

『 此際鮮人を恐るるは房州人の恥辱である。
  鮮人襲来など決してあるべき筈でない  』

 といった意味の掲示を要所要所に出した。加之ならず、

『 若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、
  宜しく十分の保護を加へらるべきである 』

 とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。

 要するに、斯うした苦心は
 刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざることであるが、
 一朝騒擾を惹起したらんには、地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。

 郡長が細心の用意は此處にあったのである。
 蓋し安房に忌まはしい鮮人事件の一つも起こらなかったのは、
 此の用意のあった為めであらう。  」(~p223)


騒擾のなかに、我を忘れた人の中にあって
この言葉は、どのように届いたのでしょう。

「 刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざる・・ 」
そうした渦中で忘れられる記録が「安房震災誌」に記載されてありました。
これは、編者・白鳥健氏の文になるところでしょうか。

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變災に処する者の

2024-03-10 | 安房
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻の末尾に
「編纂を終へて」という、編者・安田亀一氏の文があります。
そこに記されて、千葉県の震災誌編纂が、はかどらずにあり、
昭和6年9月「結局私にお鉢が廻って来た」(p980)とあります。

そして、編纂の安田氏は、元安房郡長・大橋高四郎氏へと
直接に会って聴きその梗概を記しております(p812~823)。

まずは、安田氏の説明がありますので、その全文。

「大震災当時安房郡長であった大橋高四郎氏は当時激震の中心たる
 北條町所在の郡衙に在りて、苦き罹災の体験と共に応急及復旧措置、
 内外の折衝、人心の安定鼓舞其の他に身を挺して努力した人で、

 この人の体験苦心談は、傾聴に値するものあるのみならず、
 変災に処する者の後日の参考ともなることと思ひ、
 編者は特に同人を訪れて直接同人の口より種々の事情を聴き、
 梗概を茲に録した。(編者)」

編者が大橋高四郎氏を訪問したのは、
震災から早くても8年目くらいでしょうか?

自宅で被災する午前中の様子から語り始められております。
その住いで腹を決める箇所がありました。

「先づ差当り急務なるものは、倒潰家屋の下から罹災者を救ひ出すことだ。
 第二は医療だ、第三は食糧だ。交通の整理や救出には工兵隊の出動が必要だ。

 役所も多分潰れたことであろう、が、今駆け付けて見ても駄目だ。
『 現場へ行っては却て現場に捉はれてよい知恵は出ない。
  これは先づ此の松の木の下で計画を立てるに如かずだ。 』
 とおれは腹を決めた。

 やがて役所から門君と小谷君が来て役所倒潰の事情、御真影の安全なること、
 家屋の下敷になった人を掘出しつつあること等を報告した。 」(~p817)

「 役所へ行ったのはかれこれ、2時間も経ってからの事だろう。 」

ここで、県庁へと急使を出すことと、救援を山間部へと頼む急使を出すこと、
それを、その人選を決めてゆきます。

最後に、ここも引用しておきたいと思います。

「 激震の当時に自宅で考へた俺の胸算用は、
  現場へ来て見ると、より必要なる或るもののあることを
  忘れてゐるのに気付いた。
  それは何かと云ふと、人心の安定といふことであった。 」(p821)

震災中の安房郡長が、郡衙において気付いたという『人心の安定』とは、
いかようなことだったのか、それに対して郡長はどう対処していったのか、
以降は、これをテーマにして当ブログをすすめてゆきます。
それはそうと、この郡長談話の続きをもうすこし引用して終ります。

「 何しろ北條館山を通じ三千有余の家屋が倒潰し、
  一千名を越ゆる人命の損傷を出し、各祖先伝来の財産を喪ひ、
  流言蜚語が行はれ、海嘯が起るといふ噂さへ立ってゐる際とて、
  人心は唯戦々兢々、疑心暗鬼を生ずるの有様であったのだ。

  これを鎮静することは急務中の急務で、
  若し処置を誤れば如何なる事態を惹起せぬとも圖られぬ状況にあった。」(p821)
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安房郡役所と青年団

2024-03-09 | 安房
房総の関東大震災では、北條病院が倒潰をまぬがれました。

その位置関係を見ると、
北條病院を正面に見て、その左側へと安房郡役所、さらに北條警察署があり、
北條病院を正面に見て、その右側に北條町役場がありました。

さいわい、北條病院は倒潰をまぬがれましたが、
安房郡役所・北條警察署・北條町役場はいずれも倒潰しております。
北條町の中目町長は、自宅において圧死。

吉井栄造氏の震災5周年の思い出には、こうありました。

「かの堅実な純日本式の群庁舎も大家高楼を誇った議事堂も
 瞬時にして『ピシャリ』倒潰した。・・・
 北條病院の庭内は見る見る内に死体重軽傷者を以て埋められた。
 街は見渡す限り住家全潰して道路をおおい交通杜絶し電信電話はもちろん不通である。
 夜に入るも燈火なく、流言蜚語は次から次へと伝えられ人心は戦々兢々、こうした
 悲惨、暗黒、不安はひんぴんたる余震と共に数日間続いた。」
           ( p824 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

「青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、其の他一切
 の救護事務は、郡衙(郡役場のこと)を中心として活動する外なかった。

 ところが郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
 一日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に
 全力を盡しても尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。

 事務用品などは、紙も、鉛筆も何もなかった。・・・
 吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた天幕を取り出して
 形ばかりの仮事務所を造った。そして、危く倒潰を免かれた税務署から
 僅かばかりの椅子を借りて来て、事務を執った。・・・・・

 救護事務の中でも、第一義的なものは、死傷者の處理である。
 それは警察署と密接な関係がある。警察署も矢張り倒潰して了ったことであるから、
 同じ場所で執務するが便利であるので、郡吏員と警察署員とは、
 郡衙の斯うした手製の仮事務所で一緒に救急事務を取扱ったのであった。

 救急事務は不眠不休でやり通うした。
 1日の震災直後から、2日3日頃までは碌々食事を摂らなかったが、
 又大した空腹も感じなかった。蓋し極端な緊張と眼前の惨状に
 空腹さへ感じなかったであろう。・・・・  」
                   ( p239~240 「安房震災誌」 )

「今次の震災に当て、青年団が団体的にその大活躍を開始したのは、
 平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
 総動員を行ひ、2日未明、郡役所所在地に向け応援したことに始まり、
 遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。――

 そして、青年団の第一段の仕事は、死傷者の處理であった。
 同時に医薬、衛生材料食料品の蒐集であった。

 2日の如きは、市中の薬店の倒潰跡に就て、
 死体及び此等諸材料の発掘に大努力をいたされた。・・・・

 それから、第二段の仕事は交通整理であった。
 地震に打ち倒された家屋の瓦や、柱や、板や、壁などが
 一帯に、道路に堆積して、通交の不能となってゐるは勿論
 路面の亀裂、橋梁の墜落など目も当てられない中に、
 之を整理して、交通運搬の途を拓いたのは、
 実に青年団の力である。・・・・   」
             ( p284 「安房震災誌」 )
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大震災当日の北條病院

2024-03-08 | 安房
私が話すと、聞く人をして支離滅裂と感じさせる(笑)。
たとえば、1時間話すなら、あらかじめ下書きをして、
それに則って進めないと、話しが取留めもなくなる。
収拾がつかない自分が自分で分るから尚さらに困る。

今年に1回、1時間ほどのお話をする予定があります。
仮題に『 安房郡の関東大震災 』と決めています。
そのお話しを、系統だって秩序だって話せない苦手。

けれど、当ブログで当日話す資料をあれこれと吟味する。
これなら、こころ弾みます。納得ゆくよう資料を紐解く。
ここに、こんな資料があり。それとこれと結びつきそう。
そういう醍醐味が、資料をひらく楽しみとしてあります。
これで『郷土歴史』へと、あたらしい光があてられれば。

はい。それでは、もどって『安房郡の関東大震災』のお話。
ここには、関東大震災当日の北條病院をとりあげてみます。

君塚文雄編「写真集 明治大正昭和 館山」(国書刊行会・昭和56年)。
この写真集をひらくと「北条病院旧本館正面」写真(p43)があります。
君塚氏の解説を読むと、
「 ・・・写真は明治44年に建てられた北条病院で、
  天然スレート葺きの瀟洒な建物であった。この建物は、
  大地震にも倒壊せず、昭和49年現在の鉄筋化の病院が
  出来るまで使用されていた。 」 とあります。

「安房震災誌」から、その北条病院の記述をひろってみます。

「 当町(北條町)の総戸数は1616戸であるが、
  その倒潰数は実に百分の96に達してゐる。
  即ち全潰1502戸、半潰47戸である。

  その他の町内の建築物といふ建築物は殆ど倒潰して了った。
  即ち郡役所、旧郡会議事堂、町役場、裁判所、警察署、
  県立中学校、県立高等女学校、町立小学校、銀行、会社、
  北条停車場を始め商店、農家、旅館、倉庫等は勿論、
  此等の付属建物まで、殆んど全滅の姿であった。

  唯だ僅かに・・・・北條税務署、北條病院の数軒が
  倒潰から免れて存在したのみである。  」(p106)


同書の別の箇所には

「・・・大部分は皆な倒潰して了った。
 北條町でも僅かに北條病院と諸隈病院とが、倒潰を免れたのみである。
 その他の医家は悉く倒潰して了った。

 一方此の多数の負傷者に対して応急救護を盡すべき方法がない。
 負傷者は何れも先を争て肩車や、戸板で、前記2病院へ運ばれたので、

 病院では、見る間に庭も道路も一帯に負傷者の山を築いたのであった。
 中には殆んど瀕死のものもあった。素より限りある設備である。

 こう殺到する多数の負傷者をどうすることも出来なかった。・・・

 外に折柄、納涼博覧会が閉会したばかりで、
 まだ建物が其の儘に残ってゐた。而かも倒潰を免かれてゐたのを
 幸ひに、負傷者は、其處に擔ぎ込まれ、雨露だけでも凌がせようと
 したものが又山なすほどであった。

 ところが、其處の主任者が、多少医療に経験を有っていたので・・・
 そこで、納涼博覧会跡は、忽ち一つの病院のやうなものに変じて了った。

 兎も角も此處も負傷者の集合場となってゐたので、
 数日の後には小原医学士が回診して患者を救護してやった。・・・」(p242~243)

「大正大震災の回顧と其の復興」(上巻)に
安房郡役所で建物の下敷きとなり、さいわい隣の北條病院にかつぎこまれた
中川良助氏の文が載っておりましたので、それに関する箇所を最後に引用。

「・・・助けによって引き出され半戸板に乗せられて隣の北條病院の庭に運ばれた。

 驚いたのはここに集って居る被害者だ、蟲の息で唸ってゐる者、
 手足を動かして苦しんで居る者、泣く者、騒ぐ者、既に息絶へた者、
 今将に息の絶えんとしつつある者・・・・

 暫くすると曩の杉田郡書記が掘出されて運ばれて来た。
 来た時にはまだ手足を動かして居たが程なく息を引き取ってしまった。・・

 私はここで北條病院長の手当を受けた。
 手当といってもほんの名計りだ。
 身体中はスリムケそれが時間の経つに従って腫れ上って来て居る。
 顔などまるで眼球が飛び出した様に見えたといふ事で、
 一時失明の報が伝はったのも無理のない事だ。

 その傷にヨヂームチンキらしいものをつけ、
 出血の甚だしい所はヨゴレタオルを裂いて繃帯するといふ始末、
 でも此れだけの手当をして貰へる者は
 何百人中の一人といふ程であったのだ。・・・  」(p852)


写真集に掲載された白黒写真「北条病院旧本館正面」を前にして、
関東大震災当時の北條病院の庭を、あれこれと思い描くのでした。







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安房へ銚子の医師団来援。

2024-03-07 | 安房
パラパラ読みだと、肝心な箇所を読み逃したりします。
けれど何気に印象深い箇所を読めたりもするのでした。

安房郡の関東大震災に、銚子からの救援が来た箇所などは
最初に読んだときから、印象深い箇所となっておりました。
ということで、だいぶ長くなりますが引用してみることに。

「安房震災誌」にはp244に出てきますが、
「大正大震災の回顧と其の復興」下巻の、記述が詳細でした。
下巻のp1352~1355に、本銚子町青年団報の文が載っています。

まずは、救援にゆくまでの経緯が語られております。

「 彼の9月1日の地震は銚子地方は左程のものではなかった。 」

とはじまっておりました。

「・・・東京地方の大震火災の報が夜に入って頻々と伝はって来た。
 今両国駅が火災に包まれた。国技館は全焼だなど始めはマサカと
 思ったが事実と信ずるより外ない有様となった。

 翌2日に至って県下南部の震災も確実に伝へられ
 人心恟々たる内に郡役所より通牒あり。安房郡の
 震害甚しき故救護班を組織して出動せよとの事であった。

 仍て早速青年団員中より有志を募集して15名を得た。
 此の外に医師5名と総計20名で班は組織された。

 愈々出発となったが汽車は日向以西は不通と聞いて
 銘々自転車を準備して明朝を待った。翌9月3日早朝
 出発日向駅から自転車で夜来の雨に道路泥濘幾多困難を
 凌ぎつつ漸く千葉に着いたものの西海岸も矢張り汽車不通
 已むを得ず其ものまま巡査教習所に泊ることにした。  」

はい。この『 本銚子町青年団報 』は、印象深くって、
その印象は、丁寧に引用をしてゆくことに限るように思いますので、
長いですが続けてゆきます。

「 不安と焦燥の一夜を明した。あくれば4日である。
  今度は千葉駅前に自転車を預けおき、汽車で成東まで引返し
  更に勝浦までは汽車、之より自動車で天津へ着いた。
  最早日は暮れてゐるが前途が急がれて宿泊など出来ない。
  徒歩鴨川着、小学校の庭にしばし假寝の夢未だ結ばれぬに
  2時間計りにて又出発、和田町役場の庭に天幕あるを幸、
  ここに又1時間計りの假寝をしたのは夜半であった。

  かくの如くにして漸く北條に着いたのは実に5日の午前11時頃であった。
  途中勝浦より千倉まで舟行された救護班長小野田周齋外4名の医師及
  団員1名は茲に合体したのである。

  吾等の班は救護班としては第一着であった。そして
  最惨害を極めた那古船形方面へ行くことになった。 」


はい。ここからが救護の実況と、不逞漢に間違わてたり、と
さまざまな状況が、簡潔で素朴に書き記されてゆきますので、
当ブログスペースを幸いに引続き引用を続けさせて頂きます。

「 船形町にはさいわい船形倶楽部といふ
  劇場が残ってゐたから之を仮救護所に充てた。
  船形目貫の場所は不幸火災を起し焦土と化してゐた。
  夜通行すると異臭鼻を衝いて実に悽惨鬼気人に迫るの感がした。

  那古町には殆ど建物が残ってゐなかったので
  附近で倒潰した旅館の襖障子など借りて来て病舎を那古寺の庭に造った。
  床は樹枝を列べ其の上にムシロを敷くといふのだから処々凹凸あり、
  患者には気の毒であったが此の場合已むを得なかった。

  団員は盥に紐をつけたものや戸板に縄をつけて
  担架を造り傷病者の収容に努めた。

  兎まれ既に負傷後5日も経過してゐるので傷口が化膿して
  目も当てられぬ有様、中にはボロに包んだ傷を開くと
  蟲がポロポロ落ちるといふのもあった。生きた人間に蛆がつく
  といふのはよくよくの事で医師達も之には驚愕された。

  或日団員の一部が正木区方面へ出動した時、不逞漢と誤られ、
  鐘を鳴して村民を集め手に手に鐵砲竹槍を携へて取囲まれ、
  一同すっかり閉口して種々弁明之れ努むるも中々諒解せず、
  其の中正木区の青年団長を見付け出し、説明して漸く合点が行き、
  斯くては誤解の恐れありとて態々赤十字の救護班旗二旒を贈られ、
  更に茶菓の饗宴を受けたといふ喜劇もあった。

  この旗は今尚毎年9月1日会場に飾って紀念会を開くことにしてゐる。 
  尤団員は数日間着のみ着のままで汗みどろの活動をしてゐたので、
  容貌といひ服装といひ不逞漢と誤られるに充分な素地は持ってゐたのであろう。

  かくて一週日活動せる内救護したるもの総計5412名に達した。
  此の内重傷にて収容後死亡したるものが2名あった・・・

  療養者の中には痛いよ痛いよと泣く子もあれば終日呻吟する老人もゐる。
  誠に酸鼻の極みである。今でも眼に残ってゐるのは
  老翁が其の手厚い看護の甲斐もなく死亡した老妻のなきがらを負うて、
  迎へに来る人もなくて淋しく帰りゆく。・・後姿である。

  かくて其の後、旭町及匝瑳郡の青年団員が続々来房せるにより
  之に引継いで帰途につく事にした。さいわいにも館山から
  一等駆逐艦に便乗させて貰ひ、大貫へ着くことが出来た。
  之より復興した汽車で無事帰着したのである。・・・   」(~p1354)


このあとにも、引用したい箇所がありますが、
ここまで、次の機会に引用したいと思います。
うん。ここだけでも引用できてよかった。

 





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頻々(ひんぴん)として。

2024-03-06 | 安房
地震のあとに津波が来る。余震のあとに津波が来る。
ニュースで繰返される注意連呼の共通認識について。


安房郡の関東大震災において、のちに「館山町役場報」に
掲載された文が、一読忘れがたいので長いのですが引用。

「・・大正12年9月2日の夕刻、日は西山に落ちんとして
 西天は夕焼に燃えて暮色蒼然たる午後6時頃の事・・・

 余震は頻々として来り、
 海嘯の噂は頻々として起り、
 不逞漢襲来の叫は頻々として伝へられ、

 人心は不安と恐怖とに襲はれて殆んど生きた心地もなく、
 平静の気合は求めようとして求められず唯想像力のみ
 高潮して戦々兢々として居た時であった。

 ・・・山田丸が東京から帰って『 今来たやう 』と叫んだのを
 『 海嘯が来たよう 』と聞き誤って伝へられた事に端を発したものであった。

 山田丸は漁獲物を満載して魚河岸に一と商に出掛けたのは震災2日ばかり前
 のことであった。山田丸乗組の人達は、ひと商を終ったので月嶋の河岸に
 船を繋いで色々帰港の準備に忙殺せられて居た折柄間一髪を入れずして
 あの恐ろしい大震災に遭遇した。

 ・・まざまざと目撃して来たので、自分の家族の安否が一と入気付かはれる
 ので数名の避難者を便乗させて一路帰港を急いだのであった。

 船は・・・思ったより早く2日の夕刻夕焼の日を浴びて
 6時頃に無事に帰港したのである。

 何時も船が帰る頃には、大勢の人達は船を迎へてくれるのが通例であるのに、
 其の日は地震直後の事とて誰も迎へに出る人もなく、
 唯海辺は籟々として磯吹く松風の音と、時々海嘯の噂に
 驚かされて海を見に来る人ばかりであった。

 船の者は人の気配もないので無関心の裡に『 今来たやうー 』と
 陸をめがけて叫んで見た。

 日に何回ともなしに海嘯の噂に怖えて居る人達は、
 聞くともなしに其の聲が耳に入ったので『 ソレ来た 』とばかりに
 人々の間に宣伝されたので、忽ちの間に海嘯襲来の事実話となって
 各方面に伝へられてしまったのである。

 然し恐怖して聞き伝へた人は其の事実を確かめたのでもなく、
 又誰がそれを云ふたのか、そんな事なぞ勿論知らう筈もない。

 海嘯襲来の噂は忽ちにしてそれからそれへと伝へられた。
 泣きわめく子供を背負って逃ぐる者、老人の手を引いて逃ぐる者等、
 城山の中腹や岡沼の高地は避難者の雑沓で一時は町全体は混沌として
 名状すべからざる状態に陥ってしまったのである・・・・

 僅かばかりの言葉の聞き違ひから(館山)町八千有餘人の
 人々を忽ちにして不安と恐怖とに陥し入れたと云ふこの挿話は、

 毎年9月1日の震災記念日には、毎時も老若男女の戒めの語り草として
 永遠に云ひ伝らるべき悲惨な珍話となって居る。  」

     ( p771~773 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


関東大震災から百年を過ぎると、
この『戒めの語り草』もすっかり風化しするばかりか、
東日本大震災の後に、こういう誤解による津波避難の
語り草を取上げるのは憚れる気さえしてくるのでした。

けれど、地域の館山町の関東大震災の教訓が、
『戒めの語り草』として、ここにありました。

大きく広げて、津波の不安ばかりか、ここに流言蜚語の
現実を見てとることができ、これを読むさまざまな視点
が『語り草』の中に提供されているように思えてきます。
いかがでしょうか?

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余震と津波の流言蜚語。

2024-03-05 | 安房
安房郡の関東大震災でも、流言蜚語がありました。

「・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され
  人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・  」
        ( 『大正大震災の回顧と其の復興』上巻のp894 ) 

はい。ひとつひとつを、別けてゆけば分かりやすい、今回は
『 海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され 』を取り上げてみます。

武村雅之氏は、その著書で関東地震の特徴を指摘して

「 つまり余震活動は文句なく超一級といえるのである。 」

「 大きな地震の後は揺り返しに注意しろとよく言われるが、
  関東地震はその中でも特に注意が必要な地震だったのである。 」

(以上はp85「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」鹿島出版会2003年より)

直下型地震に際して、多くの方が家屋の下敷きになっている。
その方々を助けるのか、津波を警戒し、まず逃げるのか。
容易に判断を下しかねる場面に遭遇するかもしれないわけです。

安房郡の関東大震災では、実際にさまざまな場面が展開しておりました。
その歴史を、反芻しておくことの貴重さを思います。

ここには、『大正大震災の回顧と其の復興』上巻から、
その場面を今回は二人の人物から紹介しておくことに。

火災で多くの家屋が焼失した船形町の
町長正木清一郎(齢70歳に近き)について、小学校の先生が
記録されております。

「 翁(町長)曰く海嘯との叫びがするから・・・・
  僕(町長)が海岸に参って様子を見て来るからとの言葉、
  御老体のこと危険なるべきことを申上ぐると、
  決して心配はない海嘯は沖合に見えてから逃れることが出来るものだ。
  僕に心配なく・・避難するがよいとのことにて其の言に従ひました。

  間もなく翁は別邸に来り海嘯は最早来ない心配はない。
  只だ心配なのはあの大火災だ風向きによっては
  町の大部分は焦土と化してしまうと心配されて居られた。」(p911)

はい。船形町は、漁師町で、地形的にも山の傾斜が海岸へとつづき、
高い箇所へ逃げやすく、しかも町長はその漁師町の代表でした。 

つぎには、中川良助氏の回想文から引用。
中川氏は家屋の下敷きになったのを助けられ
「半戸板に乗せられ・・北條病院の庭に運ばれた。」(p851)
そこへ、「病中の家内が杖にすがって尋ねて来た。」

「烈しい余震は絶間なく揺れて来る。
 今になってもまだ家の倒れる音がする。続いてツナミ騒ぎ、
 今に押し寄せて来るといふ風説だ。

『 オカーサマヨー オカーサマヨー 』と呼ぶ子供の声が遠く聞へる。
  家内が子供等を呼び寄せて、
『 お父さんはこんな大怪我をしてゐるのだから、
  どんな事があってもお母さんはここから一寸も動けない。

  だから若しツナミでも来たら、お母さんやお父さんには
  かまはずどこへでも遁げられる所へ遁げなさい。
  決してお父さんお母さんを気にかけて、
  遁げ後れる様な事があってはならないよ 』

 と堅く言ひ含めて悲愴な覚悟をきめて居る。夜は沈々と更けて行く。
 全身の痛みに寝返りも出来ない『 苦しい 』そこで家内が
 病身を押して私の上に四つ這ひとなって私の全身を引き上げる。
 子供等がよってたかって向きをかへて漸く暫くの苦を免れる。

 かくて悲しい一夜は明けた。余震前日に異ならざるも苦痛は日に烈しい。
 幸にしてツナミの難はなかったが、食ふ物もなければ飲む物もない。
 ・・・・            」(p853)

はい。被災しての病身のまま身動きができない苦しい状況で
『海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され』た状態にさらされていました。

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関東地震の余震。

2024-03-04 | 地震
まずは、『安房震災誌』を紐解きます。
そこにある安房郡の関東大震災を引用。

「 地震襲来の状況を記せば・・・
  南西より北東に向て水平震度起り、
  続いて激烈なる上下動を伴ひ、
  震動は次第に猛烈となり・・・

  鏡浦沿ひの激震地方は、
  大地の亀裂、隆起、陥没、随所に起り、
  家屋その他の建築物又一としてその影を
  とどめざるまでに粉砕され、人畜の死傷限りなき・・

  続いて大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく、
  折柄南西の方向に恰も落雷の如き鳴動起り、
  余震毎に必ず此の鳴動を伴った。・・・・  」(第1編第1章p3~4)

 安房郡の地図を示しながら語られてもいます。

「 震動の大小は・・・館山湾に沿ふた・・・
  8町村が、最も激震で、その震動の勢いは、
  内湾から、一直線に外洋に向って東走してゐる。

  そして此の8町村に隣接した町村が之れに次ぐのである。」(第4章p90)


最初の方はこうもありました。

「 今回の大震災は、銚子測候所の報告によれば・・・・
  震源地点は安房洲の崎の西方にして、
  大島の北方なる相模灘の海底である。
  震動の回数は、初発より9月25日までに850回を算した。」
                     ( 第1編第1章 p2 )

安房郡からだけでなく、ひろく首都圏から見る余震については、
武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(鹿島出版社・2003年)に
気になる記述がありますので、最後に引用しておくことに。

「 マグニチュード8クラスの代表的な地震の
  震源域(震源断層のある領域)・・・・

  太平洋プレートに伴うものとしては
  昭和27年と昭和42年の2つの十勝沖地震
  ( 平成15年には、昭和27年と同様の地震が再来 )、
  
  フィリピン海プレートの南海トラフからの潜み込みに伴うものとしては
  昭和19年の東南海地震と昭和21年の南海地震がある。

  相模トラフに関しては、言うまでもなく大正12年の関東地震がある。
  関東地震は、これらM8クラスで超一級の規模をもつ地震の中では、
  断層面の広さやすべりの大きさなど、決して最大規模のものではなく、
  むしろやや小さめの地震である。 」(p85)


この記述のあとに、関東地震の余震の特色を示しております。
はい。今回は、ここが肝心な箇所になります。

「 ・・・それにも増して(注:十勝沖地震と南海トラフと)
  関東地震による大規模余震の発生数は多い。

  M8クラスの巨大地震が発生した場合、
  M7クラスの余震が発生することはそれほど珍しいことではないが、

  関東地震の場合、その数は翌年の丹沢の余震を含めると
  実に6つに達する。つまり余震活動は文句なく超一級といえるのである。

  ・・・・伊豆半島と本州の衝突境界に近く、
  関東地震の本震の断層がすべった際に、
  特に大きくすべった周辺に大きな応力集中が
  起りやすくなることも考えられる。これらの条件は、

  一回の地震の発生で大きく変わるとは考えにくいため、
  将来再び関東地震が起こった際にも、同様に
  大規模な余震活動が起こることが十分考えられる。

  大きな地震の後には揺り返しに注意しろとよく言われるが、
  関東地震はその中でも特に注意が必要な地震だったのである。」(p85)


はい。私の視点は、首都直下地震の発生に関しての
貴重な資料として『安房震災誌』を紐解くことです。


  
  
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そこで福田恆存が考えた。

2024-03-04 | 前書・後書。
昨日の朝注文した「福田恆存の言葉」(文春新書)が
昨日の午後6時過ぎ届く。ありがたい。
あとがきは、福田逸氏。そのはじまり

「・・本書は東京・本駒込にあった三百人劇場に於いて
 昭和51年(1976年)3月から開講された、『三百人劇場土曜講座』の
 第一回から第八回までを収録した。・・・

 福田恆存らが結成した現代演劇協会傘下の劇団『雲』が
 前年分裂し・・稼ぎ頭だった俳優たちが、ごっそり抜けた・・

 殊に三百人劇場という建物の維持に苦労したわけである。
 そこで福田恆存が考えた企画の一つがこの『土曜講座』で・・

 毎回二人の講演を行い、恆存が後半を受け持った。ちなみに、
 第一回の客員講師は小林秀雄、
 第二回が田中美知太郎、
 以下会田雄次、矢島鈞次、藤井隆、
 高坂正堯、林健太郎、山本健吉と続いている。・・・・

 ・・・いわば、四苦八苦、あの手この手で劇場維持と
 劇団昴の公演継続に邁進したわけである。『土曜講座』は
 いわばそれらの嚆矢(こうし)となったわけだ。 」(p217~218)

次に、この講演がCDになっていたことを紹介したあとに
CDのよさと利点を指摘したあとに、

「 活字を追うという行為には、立ち止まって考えたり、
  読み直したりできる利点もある。読者に沈思黙考
  する機会も与えられるのではあるまいか

 ( ただし、現在は音声配信サービス『LisBo(リスボ)』
   で、この連続講演を聴くことはできる )。 」(p219)


はい。何か、こうしてあとがきやまえがきを引用させてもらっていると
よく、本の帯に書かれた紹介文を、あえて私がつくっているような
そんな気がしてきたりもします(笑)。

ということで、『はじめに 古びない警句』浜崎洋介の
それこそはじまりの箇所を引用しておきます。

「 本書に収められた福田恆存の講演は、
  昭和51年の3月から、翌昭和52年の3月までの
  1年間のあいだになされたものである。

  年齢で言うと、63歳から64歳の福田恆存による講演
  ということになるが、脳梗塞で福田が倒れるのが、
  その4年後の昭和56年であることを踏まえると、
  記録として残されたものとしては、これが
 『 福田恆存(つねあり)、最後の講演録 』
  だと考えてよさそうである。 ・・・・    」(p3)


つぎは、ゆっくりとでも、本文を味わえますように。

 
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例えば『民主主義』

2024-03-03 | 書評欄拝見
本を読んでも、積読で、さらっとしか読めない私にとって、
書評の楽しさは、本文へといざなう貴重な入口となります。

といっても現実に、さまざまな書評を読めるわけでもなく、
身近な書評欄だけを窓口に『井の中の蛙』で満腹してます。

さてっと、産経新聞2024年3月3日(日)の読書欄拝見。
そこから、適宜引用してゆきます。

「話題の本」欄では、外山滋比古著「新版思考の整理学」(ちくま文庫)を
紹介しながら、最後をこうしめくくっておりました。

「 著者は特別講義で『自分にとって
  【意味のあるもの】と【意味のないもの】を区別し、
  意味のないものを忘れていく。ここに個性があらわれる。
  これはコンピューターには、できない機能である  』
  と語る。・・・このメッセージは重く響く。」( 海老沢類 )

え~と。花田紀凱(かずよし)の「週刊誌ウォッチング」。
ここは、はじまりの2行を引用。

「 週刊誌の不倫報道にはいささかうんざり。
  わが身を省みて言え。・・・・     」

はい。書評欄にとりあげられていて気になったのは、
福田恆在著「福田恆存の言葉」(文春新書)でした。
そのはじまりは

「 戦後日本を代表する保守派の論客、福田恆存(1912~94年)は
  著述の他に、多くの講演も行った。本書は昭和51~52年になされた
  8回の連続講演録の初の活字化だという。
  没後30年の今年に出るべくして出た一冊といえる。・・・ 」

うん。せっかくなので、もうすこし引用。

「 例えば『民主主義』『平和』『人権』といった
  明治期にできた『ネオ漢語』を論じる第5章
  『 言葉という道具 』は必読だろう。

 『 (日本人に意味が染み込んでいないネオ漢語があったからこそ)
    近代化も成し遂げられたけれども、
    そのためにまた混乱も起きている(中略)
    反省期、調整期にそろそろ入らなければならない  』と説く。


ちなみに、この本の評者は、文化部の花房壮とあります。
産経新聞1月28日(日)の「ロングセラーを読む」で
福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)を紹介していたのも
( 花房壮 )と最後にありました。
うん。これからは、この方の名前を見たら書評を読むことに。

もどって、今日の産経書房の『 聞きたい。』欄には
田原史起著「中国農民の現在」(中公新書)がありました。
そのはじまりは

「 急速な経済発展を遂げた中国では都市と農民の間で
  格差が生じ、都市への出稼ぎに行く『農民工』や
  両親が出稼ぎ中の『留守児童』がしばしば話題になる。 」

「 農民は特権的な都市民と自分たちを引き比べるより、
  村内部での格差を気にすると指摘する。 」

あとは最後を引用。

「 2012年に習近平政権が発足した頃から外国人への警戒が強まり、
  『 ホストファミリーに迷惑をかける可能性 』が生じた。
  18年を最後に現地を訪れていないが、
  『 資料や文献を読んで研究することはできる 』。
  インドの農村にもフィールドを広げ、比較研究を行っている。 」
                        ( 寺田理恵 )


はい。産経新聞の日曜日の書評欄が楽しみになりました。




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「大震災の歌」と「復興節」

2024-03-02 | 詩歌
添田啞蝉坊・知道著作集の別巻『流行歌明治大正史』(刀水書房・昭和57年)
をひらき、第18章「大震災 大正末期」をみることに。

大正11年の末から歌われ出した「船頭小唄」(野口雨情作・中山晋平曲)
の引用からはじまっておりました。せっかくなので歌詞をすこし引用。
三番までありました。一番のはじめの2行は

  己は河原の 枯れ芒
  同じお前も 枯れ芒

二番は全4行を引用。

  死ぬも生きるも ねえお前
  水の流れに 何変ろ
  己もお前も 利根川の
  舟の船頭で 暮さうよ

三番の最後の2行

  わたしゃこれから 利根川の
  舟の船頭で 暮すのよ

この歌詞を引用した少しあとにこうあります。

「 民衆がこの唄をうたってゐると俄然、12年9月1日、
  関東地方はもくもくと動きだした。未曽有の災害はここに来た。
  
  死者20万、損害50億と算せられた。
  東京は跡形もなく、赤い野原と化した。・・・・

  被服廠の惨、上野の山の3日間の絶食、鮮人騒ぎ、流言、戒厳令。

  船頭小唄。あんな亡国的な唄が流行ったからだ、
  と識者なるものが流行歌を呪った。  」(~p358)

その次に「大震災の歌」(啞蝉坊作)と「復興節」(添田さつき作)が
引用されてゆきます。

一読「大震災の歌」は歌詞のリアルが、状況を活写しており、
平和な現在の暮らしからだと息苦しさまで感じられてきます。
それに比して「復興節」の歌詞は、苦難を笑いにかえる活力
へと重点がおかれている気がしてきます。
ここには、私の感想よりも、まずは「大震災の歌」を適宜引用。


   ああ禍や禍や

とはじまります。途中からすこし続けて引用してゆきます。

   平和に馴れし人の子の
   蒼ざめし顔血走る眼
   あれよ地震と騒ぐ間に
   起る火災は此處彼處
   爆音遠く又近く
   燃え拡がりて天を焼き
   忽ち現ず修羅の巷
   阿鼻叫喚の生地獄

   かくてもあはれ人の子の
   慾恐しやあさましや
   行李よつづらよ箪笥よと
   車に積んで逃げ迷ひ
   己が命をむざむざと
   落す焼死(やけじに)狂ひ死
   親は子を呼び子は親を
   呼ぶや火の中水の中
   夫はいづこ妻いづこ
    ・・・・・・・

   生き残りたる人とても
   食ふに食料(もの)なく水もなく
   着のみ着のまま野宿して
   生きたそらなき幾昼夜
   命こそあれ無一物
   親に夫に死なれては
   生甲斐のなき身の上と
   泣く母親の傍らに
   頑是なき子が炊出しの
   むすびとパンにありついて
   俄かに勇みニツコリと
   笑ふも哀れの極みなり
    ・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・


はい。引用はこれくらいにして、最後はやはり「復興節」その一番。

   家は焼けても江戸ッ子の
   意気は消えない見ておくれ アラマ オヤマ
   忽ち並んだバラツクに
   夜は寝ながらお月様眺めて エーゾ エーゾ
      帝都復興 エーゾ エーゾ


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