後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

21世紀のアメリカの世界支配の様相を考える(4)第一次、第二次、両世界大戦で荒廃したヨーロッパから人

2010年01月26日 | うんちく・小ネタ

アメリカ合衆国が強大になった最大の理由は第一次世界大戦と第二次世界大戦でヨーロッパが戦場になり荒廃したのが原因です。戦場にならなかったアメリカへヨーロッパからの金融資金が大量に移動したのです。そして優秀な人材へ市民権を与え、ドンドン新しいアメリカ人として受け入れたのです。

ヨーロッパ諸国の財産・金融資本がアメリカへ移動したことも重要でしたが、もっと重要なことは優秀な人々が大量にアメリカへ移動したことです。

優秀な人材の自由な活躍こそがアメリカの20世紀における世界制覇の原動力になったのです。その上、市場原理にもとずいた自由な資本主義の堅持が大きな成功をもたらしたのです。共産党独裁のソ連や中国との冷戦に勝利したのも共産主義の致命的な欠陥によるものです。共産主義は原理的に持続可能な社会を作れない本質を有していたのです。

19世紀のアメリカはヨーロッパへの不干渉政策であるモンロー主義をかかげ、一方では英米戦争、米墨戦争、米西戦争、インディアン掃討戦争に勝ち抜き領土拡大に成功し、国力の充実をしていたのです。

それが1914年に始まった第一次世界大戦の終り頃の1917年に突然ヨーロッパへ進出して参戦したのです。イギルスやフランスと同盟して勝利したのです。

その頃のアメリカ軍は訓練の足りない弱い軍隊とみなされ英国軍の部隊に合流してイギリス軍の指揮系統に入るように要求されたのです。それを断って善戦し、同盟国側の勝利に大きな貢献をしたのです。ヨーロッパ人のアメリカへ対する評価が急に上がったのも無理はありません。荒廃したヨーロッパから豊かで自由なアメリカ大陸へ移住する人々が陸続と大西洋を渡るのです。

このような現象が一度だけでなく第二次世界大戦の後にも起きたのです。アメリカが一層強大になるのは当然すぎることです。

この2つの世界大戦はそれまで富と科学文明の中心だったヨーロッパの没落をもたらし、代わってアメリカ合衆国が世界の富の中心になる最大の原因になったのです。

アメリカの豊かさは日本人の想像を絶しています。日本が高度経済成長をとげ豊かな生活を楽しんでいるのは事実です。しかしその豊かさもアメリカと比較するとまだまだ雲泥の差があるのです。

例えば住宅は日本の住宅の4倍、5倍の広さがあります。車を入れるガレージは大型車が2台入れます。普通の家では2台の車を持っています。

日本の道路も良くなりましたが、幅はアメリカの半分か3分の一です。日本の高速道度は非常に高い料金を取られますが、アメリカでは全て無料です。

もっと大きな格差はアメリカの大学と日本の大学を比較すると歴然です。

私が1960年に留学したオハイオ州立大学はアメリカでは普通の大学でしたが、当時既に18ホールのゴルフコースを2つも持っていました。学生だった私は200円位の格安のプレイ代を払ってよく2つのコースを回りました。ゴルフ道具のクラブは学生用に中古のもの数本で1000円位の感じの値段で売っていました。

先日、調布飛行場の横から軽飛行機の写真を撮っていて、ハタと思いだしました。これくらいの大きさの飛行場は1960年に既にオハイオ州立大学も持っていました。駐機してある軽飛行機の数十台もあったのを思い出したのです。

敷地も広大で、その中に校舎や研究棟が美しく配置されて並んでいました。

その景観は現在の日本の大学でも見当たりません。日本の大学は小さい敷地に貧しげな建物が雑然とたて込んでいます。文部省が予算の余った時に思いつきで研究棟建設の予算を出すので建物群の統一した美しさが無いのです。

アメリカに住んで一番感激することは生活費が安いことです。車検や強制賠償保険のような不合理なお金を取られない気楽さや自由な雰囲気が楽しいのです。

アメリカの生活のレベルは現在でも日本よりは非常に高いのです。

その原因は19世紀と20世紀にアメリカが蓄積してきた富や公共施設やハードインフラストラクチャーにあるのです。日本が一朝一夕で追いつくのは不可能です。

アメリカの強大さは上に説明した想像を絶する富の蓄積によるのです。しかし実は富の蓄積は理由の半分です。もう一つの重要な理由はその自由な社会のダイナミックな変化能力にこそあるのです。その事は次回以降の続編でいろいろご説明したいと思います。(続く)


こんなバカバカしい趣味はもう止めようと思う、しかし・・・

2010年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

私は50歳になってからヨットという趣味を始めました。もう24年も続けています。しかし70歳を過ぎて体力が無くなってくるとヨットは次第に辛い趣味になって来ました。

辛いことはいろいろ有りますが、その一番は高いマストへメイン・セールを上げる作業です。渾身の力が要ります。その上、何故か途中まで上がったところでワイヤーやセイルが何処かにひっかり上がらなくなります。下の写真も途中で止まっています。頭をセールで覆われながら止まった原因を探しているところです。人生で苦労というものを一切知らない家内が岸壁から気楽に写真を撮っています。

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写真をご覧頂ければお分かりのようにマストの高さは船体の長さより高いのです。メインセールは丈夫に作るので厚く、重い布です。

そこで数年前にマリーナの友人に頼んで薄くて軽い、そして半分の大きさのセイルを購入しました。小型ヨット用のセイルです。楽々とセイルが上がります。自分の発想に自分で感心しながら、得意になって沖を走っていました。すると、すれ違った若者が大きな声で忠告してくれます。「オジサーン!今日の風はセイルを完全に上まで上げるとよく走りますよー!」と言ってくれます。返事に窮するとはこのような場合です。「アリガトー!、でも上まで上げられない事情があるのですー!」。若者が首をかしげて通り過ぎて行きました。

しばらくして猪苗代湖でヨットに乗せてくれた大学時代からの友人が霞ヶ浦へ来ました。得意気に小さいメインセールを上げて見せました。彼は軽蔑しきった顔になり一喝しました、「メイン・セールを完全に上げられないならヨットなんか止めてしまえ!」

この一言があまり怖かったので小さいセイルは止めにして又重い大きなセイルに取り替えました。頑張ってマストの天辺までセイルを上げると確かに壮快です。ヨットの醍醐味が体中に染み渡ります。

しかし、もう24年も続けたのですからそろそろ卒業をしても良いとも思い悩んでいます。これこそ我が人生で最後の、そして最大の悩みです。体が止めなさいと言いますが、心では絶対に止めたくないのですから。皆様にはこのような悩みは御座いませんでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


出来たてのビールを飲みたい方はサントリー武蔵野工場へ是非御出掛け下さい

2010年01月25日 | うんちく・小ネタ

ビール工場では一般の見学者を歓迎してくれます。府中市にあるサントリー武蔵野工場を先程見学して来ました。1時間の見学コースの後は下の写真のようなラウンジで、出来たてのザ・プレミアム・モルツを中ジョッキ3杯頂けます。乾きもののオツマミも付いています。見学も見学後のビールも全て無料です。

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見学は10時から16時まで30分ごとに案内してくれます。

出来たてのビールを楽しみたい方は車でなく電車とシャトルバス(無料)でお出かけ下さい。シャトルバスは京王線・JR南武線の「分倍河原駅」南側駅前ロータリーから出ています。詳しくはhttp://suntory.jp/FACTORY/ をご覧下さい。

下にドイツ直輸入のホップや工場内の風景写真です。

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花々と人生(4)戦死した父とちひろさんの花々の写真

2010年01月25日 | インポート

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皆様へ心から推薦したいブログに琵琶湖のほとりに住んでいるちひろさんのブログがあります(http://www.eonet.ne.jp/~hanamusasi/)。写真が美しいのです。鋭い感性で、自然へたいする限り無い愛で撮る写真です。息を止めてシャッターを切ります。

彼女が公開している自己紹介を簡略にしてご紹介します。1940年に3万5千石の城下町に生まれました。しかし父は3歳のとき海軍へ出征し、トラック諸島沖で戦死しました。父の顔を覚えていません。その父恋しさにに思春期には睡眠薬を飲みました。多感な少女時代を過ごし、結婚し、子供を育て、孫も出来ました。日本舞踊を一生続けています。幸多い女の一生です。しかしブログに掲載している写真には何かシーンとした淋しさが感じられます。私の間違いかも知れません。しかし私は静かな中にある種のはかなさが漂っているように感じます。それがちひろさんの写真の世界と勝手に思っています。例えば上に掲載した朝明けの空の写真です。私にはちひろさんの亡くなった父上がこの空の上から幼くして別れた娘を慈しんで見降ろしているように感じられるのです。そして以下の4枚の花々の写真を丁寧に撮っている娘の姿を天国から静かに見守っているのです。ちひろさんの花々の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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名護市長の選挙結果が日米関係を一層ギクシャクさせる

2010年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

普天間基地移転を受け入れる予定だった名護市の市長選挙があり、基地受け入れ拒絶方針の稲嶺進さんが新しい市長として当選しました。これで普天間基地の移転と返還は暗礁に乗り上げる情勢になったのです。名護市へ移転出来なければ現在普天間基地に居る海兵隊の一部をグアム島米軍基地への移転もとん挫します。

結果的には普天間基地は現状維持で返還されません。米軍は日本全国の基地の移転も返還も出来ないという現実を鮮明に理解せざるを得ないことになります。

日本の役所も政治家も「現状通り」という発想が摩擦を生じないので好きなのです。

何故このような日米間の齟齬が起きたのでしょうか?根本の原因は軍備拡張が世界の平和を保障するというアメリカ側の考えを日本人が理解していなかった事にあります。日本人は軍備を撤廃すれば世界に平和が訪れるという幻想を持っています。家庭の主婦が本気でそのように主張します。それを聞いた子供たちが成長して同じことを叫びます。ごの現象を私は冷笑も軽蔑もしないで穏やかな気持ちで受け入れます。それは日本が平和で幸福な国である証拠です。

ところが一国の進路を決定する総理大臣が同じことをアメリカへ言って、「駐留なき安保体制」を主張するのは大変な誤りです。

冷戦でアメリカがソ連に勝ったから米軍基地は不要になると考えるのは非常に短絡的な間違いと思います。軍備拡大でアメリカが勝ったのですから、アメリカがますます軍備拡大をすれば世界から大きな戦争が無くなります。これが合理的な考え方です。

昨年、アメリカとロシアの間で核弾頭付きのミサイルの保有数を削減する方向で合意に達しました。これは一見軍備縮小に見えるのですが実態は正反対の可能性が大きいのです。分かり易く言えば、数を減らして命中精度を上げれば反対に軍備拡張となります。たとえばロシアが7000発の核弾頭付きのミサイルをアメリカ本土めがけて発射してもその命中精度が悪くて大部分が山林へ着弾したとしたら大きな戦力になりません。これに対抗してアメリカが100発のミサイルをロシアに向けて発射して、ロシアの軍事基地や首都のモスクワを破壊したならアメリカは一気に勝利を得ます。

従ってアメリカは絶えず軍事技術の向上に努力していています。ミサイルの命中精度も画期的に改善出来たので2000発も不要になっただけです。その事実を伏せてロシアと交渉して居るのだろうと想像出来ます。ミサイルの命中精度向上には高度な技術開発が必要です。それを知っているからこそロシアも中国もアメリカへ対して軍事的に対抗出来ないのです。

在日米軍基地の返還を考える場合にはアメリカ側の軍備に対する考え方や世界戦略を充分過ぎるくらいよく理解して、それから交渉に入る必要があります。そうでなければ何も成果を得られず、日米間に悪感情が残るだけです。鳩山総理は軍備と平和維持に関して非現実的な幻想にとらわれていると思います。

皆様のご意見やコメントを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


バンコックから消息を絶った ひかるのさんから9日ぶりに連絡がありました

2010年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

胸水からガン細胞が検出された ひかるのさんが気息えんえんでバンコックから飛行機に乗ってから9日目。ついに連絡がありました。入院していたそうです。抗癌剤の投与を始めるようです。まずはホットしました。以下は彼とのやりとりです。http://asiancloth.blog69.fc2.com/ をご覧下さい。

コメントとして、
ひかるのさんへ藤山から、

無事、成田へ着いたことと思います。
病院で治療中で、ブログを書けないのかと思いますが、必ず快方に向かうものと信じています。
無理せずゆったりしたお気持で治療を受けるようにとお祈りしています。
藤山杜人
2010-01-14 木 16:48:22 | URL | 藤山杜人 [編集]
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Re: タイトルなし。ひかるのさんから藤山へ、
藤山様

日本に到着して 10日あまり 入院生活のペースにも慣れ、
インターネットもつなぐことが出来るようになりました。

来週から 抗がん剤の投与が始まります。
どうも厄介な種類の癌のようです。

いろいろ ご心配頂き、ありがとうございました。

                 ひかるの
2010-01-23 土 19:57:09 | URL | ひかるの
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小生の感慨です。バンコックに残ったひかるのさんの28歳の独身のタイ人の息子の運命はどうなるのでしょうか?
日本人である ひかるのさんが日本の先端医療の恩恵を少しでも受けることが出来た事を大変嬉しく思います。
早く快方に向かい、またバンコックへ行き、息子さんと再会出来ることを祈っています。
ひかるのさんとは、彼が神田、小川町で開催した「アジアの手織り布の展示会」で3回お会いした方です。ご病気の全快を御祈りしています。
彼のブログは多くの方々がご覧になっていました。心配していた方も多いと思い。ここにご連絡申し上げます。藤山杜人

その美しさに心が奪われる

2010年01月24日 | 写真

男性なら美しい女性を見ると心が奪われます。例外もありますが男性なら大体そうです。

何故かは知りませんが美しいヨットを見ると同じような感じを受けるのです。多くの人がそうであると見え、”美艇”という言葉がよく使われます。そんな美艇と先日、沖ですれ違いました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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定年後、文筆家へ華麗な転身をした漆山 治さんをご紹介します

2010年01月24日 | うんちく・小ネタ

BYOOLという社会人ネットワークシステムの中の私の友人に漆山 治さんと言う方が居ます。毎日、私のこのブログ記事へ必ず寸評を送って下さいます。BYOOLの日記欄へのコメントなので皆様はご覧できません。しかし、いつも寸鉄のような鋭いコメントです。感謝で頭が下がっています。情熱的で意気軒昂な方です。

ネットの上でお付き合いを続けていると、次第にご経歴などが分かりました。慶應の一貫学校教育を受けて育った折り目正しい方です。慶應大学卒業後は三共製薬という大会社に勤めました。定年後に文筆家へ華麗な転身をはたし、3冊の本を出版し、各地の講演会で講師として活躍されています。3冊の本は、「コメ作り社会のヒト作り革命」(日本経済新聞出版社)、「コメ作り社会とビジネス社会」(日本経済新聞出版社)、「活性酸素はこうして防ぐ」(小学館)の3冊です。検索すると入手方がありますが、絶版の本もありますのでご注意下さい。

文筆家としての作品は漆山治さんのホームページ(http://homepage1.nifty.com/urushiyama/ )にも掲載されています。

政治、経済、社会に関する広範な話題を取り上げ漆山さん独自の視点から考察した時評です。手堅い構成の論文です。
彼の活躍ぶりはGoogleで「漆山治」として検索するとよくお分かり出来ます。

定年後は暇にまかせて遊んで暮らしてきた小生にとっては驚きの転身をされた方です。そのような方は少ないと思い、漆山治さん尊敬しています。皆様へもご紹介したいと思います。(終り)


お釈迦さまの教えを知ることと、「信仰」の間の橋を渡る方法

2010年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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日本は仏教国と言われます。ですから皆がお釈迦様の教えを知っています。人間も自然もこの世の全ては変わるのです。ですから物事に執着し、こだわってはいけません。生き物の命を大切にしましょう。慾を捨てれば毎日が平和に暮らせます。幸福になれます。

しかし人間には生まれながらの利己心があります。お釈迦様の教えを知っていても実行出来ません。

ですから知っていても何も役に立ちません。ですから多くの日本人は佛教とは無縁の生活をしています。

しかし仏教に対する信仰をもつと教えの一部分くらいは実行出来ます。信仰を持つとは佛教で教えている神秘的なことを信じることです。村のお寺の薬師様の像を拝めば母の病気が治ると信じ、毎日お寺に拝みに行くのです。合理的に考えないで率直に信じて実行を繰り返します。これを宗教的訓練と言います。

訓練を軽視すると信仰の道へ入れないのです。科学的な思考を捨てなくてはならないのです。日本人が明治維新以来、西欧の科学を取り入れ、全てを合理的に考えないとバカな人間だと思い込むようになりました。これは西欧文化に対する大変な誤解です。西洋文化の半分しか輸入しなかったのです。

ですからお寺の和尚さんが毎朝お経を読んだり、鐘を鳴らすのを不合理な無駄な行為とバカにする風潮になります。それは和尚さんが自分の宗教的訓練を毎日しているのです。ついでに人々に宗教的訓練を重ねるとお釈迦様の教えを実行しやすくなるというメーッセージを送っているのです。

日本人は富国強兵の為に、それ以前に信じていた佛教をかなぐり捨ててしまったのです。

以上の事情は自分がカトリックの洗礼を受けてから鮮明に理解したことです。

今日も教会にミサへ行きます。宗教的訓練を受けに行くのです。

日本人はキリスト教の教えを、「教養」としてよく知っています。でも洗礼を受ける人は非常に少なく人口の0.3%くらいと言われています。

以前から、「キリスト教は日本に根付いているか?」という問題を考えてきました。

仏教は現在の日本に根付いているか?という問題と同じことです。

そのような事をたまに考えるのも良いこととと信じて、この小文を皆様へお送りします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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寒い冬に熱帯植物を見ると元気が出ます

2010年01月23日 | 写真

最近は寒い日が続いています。寒い冬にはよく温室のある植物園へ行って熱帯植物を見て、身も心も温まります。元気も出てきます。先日行った国立科学博物館付属筑波実験植物園には巨大な温室が4つもあります。熱帯植物の写真をお送りしますので身も心も温まって頂ければ嬉しく思います。

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精神の老化を防ぐ秘訣(5)それは何でも少し体験し、考えること

2010年01月23日 | うんちく・小ネタ

老人になる。仕事が無くなる。体力が少しずつ無くなる。しかし少しでも若さを保ちたい。そういう人々が多いと思います。

今回は若さを保つための第5番目の秘訣を書いて見ます。それは億劫がらずに何にでも好奇心を持って少し体験をすることです。そして体験したことを考えることです。

体験はあまり長時間すると体力の無い高齢者には良くない効果が出るので、あくまでも少しにします。

「こんなものには私は興味ありません」、「あんな人々は別世界の人です」、「関心がありませんね」、「私の趣味は読書と音楽を聞くことです」。 これでは老化が防げません。

今まで附き合ったことのない人々と話合ってみます。体験したことのない趣味を少し体験してみます。気軽に出歩いて色々なことに飛びこんでみます。そんな生活スタイルをつくると、感性をいつまでも若々しく保てます。そして体験したことを考えて見ます。思考力が柔軟になります。異なる意見の持ち主へ寛容な態度で接することが出来ます。気軽に出歩くので足腰の訓練にもなります。

実例を一つ。横浜に係留してある帆船日本丸は面白いという噂を聞きます。「前世紀の遺物のような船でしょう。興味がありません」、「あんな物に横浜市がお金を使うのは不愉快千万です」と、思ったら老化現象のはじまりです。

一昨年の4月に私は2時間かけて、3回も訪問しました。この日本丸の大西典一船長さんと会い、詳しい話を聴いてきました。その詳細は2008年4月に4編の報告書として、このブログへ掲載しました。船の上で一生を過ごす職業というものに興味を持ち根掘り葉掘り聞きました。

船の上の職業は、意外にも普通の会社勤務と同じです。組織に縛られ仕事をする辛さ、人間関係の難しさは同じです。最後に大西船長が言いました。そして組織に忠実に働くことの重要さを教えてくれました。彼は大会社で働いていたのです。昔よく大きな鉄鋼会社で働いていた友人と同じようなことを言っていました。

次に大型帆船の構造を教えて下さいとお願いしました。「帆船のことは、その構造をいくら説明しても分かってくれません。体験すれば簡単に理解できます」、と答えて船内を隅々までア案内してくれました。

高く聳える複雑な4本のマストへ29枚の帆を全て上げる日には再度見学に行きました。甲板をヤシの実で少しだで磨いてみます。真鍮の舵輪を布で少しだけピカピカに磨いてみます。船底でほつれたロープを編みなおしてます。これらはすべて無料で体験出来るプログラムが広く開放されているのです。

船底で古い帆やロープに囲まれて大西船長の話を聞いていると大型帆船の実態がヒシヒシと理解できます。

昨年も同じような体験をしました。遠方の房総半島の保田漁港まで旅をして、大型ヨット、Bambinoの古いニス剥しを体験してきました。古いニスをサンドペーパーでこすって落とすのです。下の写真は二ス剥がしをしている様子の写真です。

始めの1時間はただ闇雲に手を左右に動かします。次の1時間目になると古いニスの層が見えるようになります。3時間目になると爽やかな潮風に吹かれながら労働をする歓びが体中に湧いてきます。夜は船長のHootaさんとチーク材で内装した重厚なキャビンでビールを飲みます。

翌朝もニス落としの作業を1時間半だけしました。ニス剥がしに時間をかけると、この船を作った北欧人の船にたいする愛情を感じます。その愛情に包まれているようで心地良い時間が流れて行きます。北欧の文化を少し体験しているようです。昔、スウェーデンに滞在していた頃につき合った人々のことを思い出します。気持が若くなりました。フッと気がついたら帰路につく時間になっていました。老化して硬くなった体を動かして、ゆっくり船から岸壁へ這いあがりました。

この船のHoota船長はネットの上で知り合った方です。ネットの上で友人を作る体験もしました。若い友人は広い人生を歩いている方でした。またお会いすることに挑戦します。このように気軽に他人と話をし、少しだけ体験します。そして体験したことを通じていろいろな事を考えて見るのです。体の老化はあまり防げませんが、精神を若々しく保つことは簡単なことです。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。   藤山杜人

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名古屋日動画廊で三輪修さんの個展が開催されます

2010年01月22日 | うんちく・小ネタ

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このブログでたびたびご紹介しました三輪修さんの個展がいよいよ開催される予定です。

2010年 4月6日~11日、名古屋日動画廊 (http://www.meiten-net.com/syousai.php?key=1021)です。油彩画の大作、100号から小品まで、40~45点を展示される予定だそうです。

彼の油彩の絵は昨年、銀座の日動画廊で小品を見ました。精神的に深い衝撃を受けました。精神的と言っても宗教的という意味ではありません。人間の上質な知性と芸術に対する燃えるような情熱が混然とまじりあった香り高い味わいです。深く沈んだような色彩ですが暗い感じを与えません。見つめていると心が静かに澄んで行き、そして次第に明るい世界に登って行くのです。三輪さんは現在の日本の一流の画家です。しかしあと10年もすると群を抜いて、長く美術史に残る画家になるると信じています。私も家内と名古屋に泊って彼の個展を見に行く予定です。

皆様も可能なら個展へお出かけになられることを心底からお勧めいたします。

上の中世の村の風景画はこのブログで2度もご紹介した油彩です。


花々と人生(3)小さな野の花を愛する鬼家さんの霧が峯、八島湿原の花の写真

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花々と人生という連載を始めました。小さな野の花が好きですというコメントを頂きました。すぐに北杜市の里山に山荘をつくり独りで住んでいる鬼家雅雄さんのブログを思いつきました、サイドバーにある鬼家あんのHPを開き、ブログの項目をクリックすると野の花々の写真を掲載した記事が沢山あります。一例として2007年7月26日記事にある霧ケ峰の八島湿原の花々の写真をご紹介います。花の名前は鬼家さんの記事の御座います。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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21世紀のアメリカの世界支配の様相を考える(3)19世紀、アメリカは英米戦争、米墨戦争、米西戦争、イ

2010年01月22日 | うんちく・小ネタ

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(上の絵は「アメリカ独立宣言」の項目のWikipediaの挿絵です)

第二次世界大戦の終わった1945年に私は国民学校の3年生でした。進駐軍の命令であちこちを墨で黒々と消した教科書を使いました。当然、アメリカ合衆国については、全ての人々は皆平等で自由な理想国家と教えられました。中学や高校で習うアメリカの歴史については、1776年の独立宣言以来外国を侵略したことのない国家であると教わりました。植民地も作らない崇高な国家であるとも教わりました。そして第5代大統領のモンローがヨーロッパ大陸の諸国間の醜い戦争へ一切干渉しないという宣言を1823年にしたとも教えれました。

すなわち1776年の独立宣言以来、アメリカは戦争という残虐なことを一切したことが無い。植民地を作り、搾取しなかった。倫理的に崇高な国であった。そのような教育を受けたのです。アメリカの占領時代に、文部省が歴史教育をアメリカが気に入るようにしたのです。19世紀のアメリカの戦争の歴史は省略してしまったのです。大学受験で西洋史を選択すると、ヨーロッパ諸国の歴史を詳しく学習します。しかしアメリカの歴史は実に簡略化されていて大学の入試問題にもあまり出題されなかったのです。

ところが普天間基地問題以来、すこし自分でアメリカの独立戦争から第一次世界大戦の間の歴史を調べて見ました。愚かな私は知らなすぎた事に愕然としました。

1823年のモンロー主義宣言は、「これからアメリカがガタガタ立て続けに戦争をするが南北両アメリカ大陸内に限定するからヨーロッパ諸国は一切干渉しないでくれ!その代りアメリカはヨーロッパ大陸には干渉しない」という意味もあったのです。前半分の解釈は、勿論、私の独断です。しかしその後、アメリカは米英戦争でアメリカとフランスの権益を完全にアメリカの領土から追い払ったのです。1848年の米墨戦争ではカリフォルニア、テキサス、ニューメキシコ、ネバダなどの広大な領地をメキシコから武力によって奪ったのです。更に1898年には米西戦争によってスペインからフィリッピン、グアム諸島、カリブ海のプエリトリコなどを奪取したのです。

その間、アメリカ陸軍の騎兵隊はフランスや英国の一部勢力と手を組んだインディアンも果敢に攻撃して19世紀末にはインディアンの全ての部族の掃討戦争を終わったのです。

戦後教育を受けた私はアメリカこそ豊かで、つねに正義を守る自由な平和国家と信じて来ました。しかしベトナム戦争のころからその理解がいささかぐらついて来たのです。しかしアメリカに留学し、アメリカでいろいろな楽しいことを経験した私にとってアメリカを理想の国と信じたいのです。今回、基地移転問題に端を発して、アメリカの19世紀の歴史を調べてみました。

アメリカが植民地を持たなかったのは産業革命に遅れ、植民地争奪戦にヨーロッパ諸国に遅れを取ったに過ぎなかったのです。

20世紀になり、アメリカが強大で豊かな国になった理由は、気候が赤道直下の南米ほど過酷でなかったという幸運に恵まれていただけです。そして第一次大戦と第二次大戦ではアメリカは想像を絶っするほど大きな漁夫の利を手にしたのです。その事は続編で書きます。兎に角アメリカ合衆国ほど巨大な国家は存在していません。それはローマ帝国やジンギスカン大陸国家に比較してもいろいろな意味で巨大です。ことの善悪は別にして日本の将来を考える場合、アメリカの影響を考慮に入れないとしたら大変な間違いを犯します。その事をもう少し詳しく掘り下げて行きたいとも思っています。皆様からのご意見やコメントを頂ければ嬉しく思います。(続く)


あんなに元気だった人がフッと居なくなる

2010年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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私達は人の死を経験しながら生きています。知人友人がある時フッと居なくなってしまいます。時々、自分よりかなり若くて、元気だった人が亡くなることがあります。悲しみと同時に非常に不思議な感慨にとらわれます。人間のはかなさが一層強く感じます。

霞ヶ浦で20年間、ヨットを並べて係留していた山吹船長が昨年、アッという間に居なくなりました。白血球ガンでした。2,3ケ月に1回お会いしていました。それぞれの船を出す準備をしながら少しだけ会話を交わします。帰港後に一緒にキャビンの中でコーヒーを飲んだり、カンビールを短時間飲みました。何時も一人です。親切で、ニコニコして私の船の水漏れを直してくれたりエンジンの修理屋さんを紹介してくれました。長話は一度もしない、何かさわやかで、それだけに淡いお付き合いでした。とても元気で、一人で高いマストを倒し、低い橋の下を何か所もくぐって、銚子漁港まで出て行きました。銚子漁港からは大島までセイリングするのです。ある時は九州までヨットで行きました。時々、家内も短い会話を交わしていました。家内は山吹船長は人格が良い方だと言います。その彼が昨年のはじめ頃、ヨットの前で会いました。ニコニコ笑って言います。「白血球の難しい病気と仲よくなってしまいました。もうヨットには乗れません」。それが彼との会話の最後でした。愚かな私はそれが彼の別れの言葉とは気がつかないで、長い間お世話になったお礼も言わずいつものように別々に出港しました。

暮れに毎年のように年賀状を送りました。奥様の名前で主人が秋に亡くなったという知らせでした。我々との交流のことを彼は奥さんへ言っていたそうです。

確か60歳前でした。もう少しで定年なので暇が出来たら九州にもう一度行く予定だと話していました。霞が浦で水鳥が乱舞しているのを見るとつい山吹船長のことを思い出します。人は死ぬと他の動物に生まれ変わるそうです。昨日も山吹船長が白いカモメになって私のヨットのそばを舞ってくれたようです。山本船長は私の心の中に永遠に生きているのです。そして白いカモメを見るたびに思い出すのです。

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今日も皆様のご健康と平和な一日をお祈り申し上げます。

                                藤山杜人