後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦没画学生の出身校、東京藝術大学の訪問記

2011年04月22日 | 写真

第二次大戦へ出征し、戦没した画学生の作品を常設展示している無言舘という美術館があります。

無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山中にあります。数年前に車で、山の中を探しあぐねた末にやっと辿り着きました。鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物です。館長が遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画を展示してあります。戦没画学生の出身校は東京美術学校(現、東京藝術大学)だけでは無く全国の美術学校でした。そんな事もあって何時かはその東京藝術大学を訪問したいと思っていました。

昨日その大学の美術館で「香り」展があり、その帰りがけにNK教授の所に寄り、学校内をおちこち丁寧に案内して頂きました。私は大学の工学部で研究をしていましたので、自分の研究室出身の人が何人も大学の先生になっています。しかしみんな工学部で仕事をしています。NK教授も長年、大岡山で教授をして居ましたが、数年前に上野の藝術大学に招聘されたのです。彼はとても優秀な人で、私の研究を力強く支えてくれた方です。私が終生誇りに思っている研究者です。藝術大学には昔の技術を再現したり、芸術作品を修理する部門があり、その部門を担当しています。

学内には絵画棟、彫刻棟、音楽棟、美術館などが散在し、さらに鋳物工場や木工工場など種々の立派な施設があります。その中で若い学生さん達が活き活きと制作に没頭しているのです。

第二次大戦中はその学生に赤紙が来て、戦場へと出征して行ったのです。それを考えながら現在の学生さん達の制作中の姿を見ていました。次第に私の目に涙がたまって、霞んで見えるのです。有名な画家や彫刻家の銅像が沢山ありましたが、昨日は何故か見る気がしませんでした。

下に東京美術学校出身で戦没した杉原さんの絵画を示します。神戸の東亜ロードの風景画です。

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戦没画学生の絵画はこのブログで2010年11月と12月に以下のように掲載してあります。クリックしてご覧頂ければ嬉しく存じます。昨日、東京藝術大学のキャンパスをNK教授と家内と一緒に歩きながら考えていた絵画の一覧です。

敵国の戦没画学生を含めて全ての戦没画学生の冥福をお祈りして、この記事を終わります。

戦没画学生の描いた街の風景を求めて銀座をさまよう

戦没画学生の絵画(1)杉原基司さんの「神戸東亜ロード」

戦没画学生の絵画(2)金子孝信さんの「子供たち」

戦没画学生の絵画(3)岩田良二さんの「故郷風景」

戦没画学生の絵画(4)興梠 武さんの「編物をする婦人」

戦没画学生の絵画(4)片桐 彰さんの「街」

戦没画学生の絵画(5)山之井龍朗さんの「少女」

戦没画学生の絵画(6)日高安典さんの「無題」

戦没画学生の絵画(7)蜂谷 清さんの「祖母の像」

戦没画学生の絵画(8)芳賀準録さんの「風景}

以下の写真は、昨日の東京藝術大学の風景です。

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大津波の被災地にも桜が満開になる!

2011年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

桜は大和民族の心です。皆が大津波の被災地に桜が咲くことを祈っています。そして被災地の人々の心の中にポッと小さな灯が燃え始めるように祈っています。

そう祈りながら、「被災地の桜」という言葉で検索して見ました。沢山写真が有りました。日本中の人々が被災地にも桜が咲くようにと祈っていたのです。

沢山ありましたが「時事ドットコム」(http://www.jiji.com/jc/d4?p=chr100&d=d4_quake )から三陸地方の写真と、被災地ではなかったが観光客の激減した福島市の花見山の桜の写真をお借りしてました。

 「春 望」
  国破山河在  国破れて山河在り
  城春草木深  城春にして草木深し
  感時花濺涙  時に感じては花にも涙を濺ぎ
  恨別鳥驚心  別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

今日は被災地の多くの人々が桜の花で少しでも勇気づけられますようにお祈り申し上げます。藤山杜人

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大津波の後で宗教の話はすべきでない!・・・しかし祈りたい!

2011年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

私には分かります。東北地方には、熱心にお釈迦さまを崇拝し、毎日お経をあげて仏教へ帰依していた人々が沢山居た事を。そしてイエス様の愛を信じ、朝・昼・晩と日常のお祈りをしていた人々が沢山居た事を。しかしそのような人々も津波にさらわれてしまったと想像出来ます。ですから私は3月11日の大津波以来、宗教の事をこのブログで書くことを控えていました。なぜか書くことが不謹慎なことのように思えたのです。

しかし今日は4月21日です。大災害の日から40日が経過しました。その時間の流れが少しずつ私の心を変えて行きます。そうして信じられるようになって来ました。お釈迦様が大津波で亡くなった全ての人々へ慈悲を心で、温かく浄土へお迎えしてくれた事を。そしてイエス様が全ての亡くなった人々を愛し、天国へ迎えてくれた事を。そう私は信じられるようになりました。

信じられるようになったので、私は自由に宗教の話が書けるようになりました。

書きたい事があるのです。今年の復活祭は今度の日曜日の4月24日です。その復活の意味を書きたいのです。イエス様はユダヤ教徒でしたが、愛を中心にした新しい教えを説いたのです。後にその教えは記録され、新約聖書になり「キリスト教」という新しい宗教になりました。

そのイエス様はユダヤ教の保守派である律法学者やパリサイ派の人々の嫉妬によって、当時ユダヤを占領していたローマ帝国の総督ピラトによって死刑の判決を受けました。ピラトは死刑の判決などしたくなかったのです。しかしパリサイ派の群衆が死刑にしろと叫ぶので仕方なく死刑にしたのです。ピラトにとってはそんな事はどうでも良かったのです。ただ自分の占領地で騒ぎが起きて、自分の出世の邪魔になるのを恐れただけだったのです。

十字架の上で絶命し、洞穴に葬られたイエス様は3日目に生き返って墓を出て行くのです。そして12人の弟子たちの前に現れて話をします。それがイエス様の復活です。そして12人の弟子たちと話をした後で天に登って神の右の座に着きます。

そしてこの世の全ての終末の日にイエス様はもう一度地上に降り立って、全ての死者を生き返えさせるのです。全ての死者がもう一度生き返るのです。全ての家族がもう一度生き返って地上で会えるのです。生身の肉体へ復活するのです。イエス様は深く全ての人々を愛し続けているが故に全ての人を復活させるのです。神の愛がそれを保障しているのです。これがキリスト教の信仰です。私はイエス様の復活を信じます。終末の日にイエス様の再臨があって全ての死者が生き返る事を信じています。

ですから今回の大津波で死んだ全ての人々がイエス様の再臨と共に生き返える事を信じています。家族同士の天国での再会を信じます。終末の日の肉体の活き返りを信じています。

それを信じるのがキリスト教なのです。如何でしょうか?

大津波で亡くなった全ての人々の鎮魂の為に神様とイエス様へ強く、強く、お祈りいたします。

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今日の散歩・・・上野公園と東京藝大の「香り」展へ

2011年04月21日 | 写真

天気は曇りですが、明日から数日雨になるようなので思い切って上野公園を散歩しながら、東京藝術大学の美術館での「香り」展へ行って来ました。

精養軒で不忍池を見降ろしながら昼食後、上野公園を東京藝大まで歩きました。

この「香り」展は芸大主催で、4月7日から5月29日まで開催しています。伽羅や沈香の香木の大きな実物の展示から、見事な細工、彩色の香炉、香合、香道の品、丁寧な仕上げの蒔絵の道具入れ、小さい棚、などなどが展示されています。そして香道に関連する文書や、香り高い花の絵画、日本画の美人図、木像などが2つの大きな展示室に公開してあります。

奈良、平安時代から江戸時代、そして現在へ続く雅やかな趣味の世界へ入り込んだような気分になります。優美で楽しい雰囲気です。見物人に和服を着たご婦人もいて、会場全体が静かでいながら華やいでいました。

その後、私の若い友人が藝大の先生をしているのを思い出し、電話をしました。丁度暇だと言って、大学の中をあちこち案内してくれました。藝大の内部の様子は別の記事でご紹介いたします。

下の写真は上から順に、精養軒から見た不忍池、上野公園の八重桜、藝大美術館前の「香り」展の看板、国際子ども図書館の建物などです。

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欧米から輸入した技術の使い方・・・(2)原発技術の輸入の間違い

2011年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、日本は数多くの欧米技術を導入してきました。前回ご紹介した、戦艦三笠や帆船、日本丸だけに限りません。蒸気機関車はもとより、あらゆる近代工業は欧米から輸入して使って来たのです。その近代工業の礎をなすものが溶鉱炉による近代製鉄技術です。その写真を下に示します。

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工業技術というもので一番重要な事は現場の人間の長年の経験の積み重ねです。その経験が工業技術の安全性と品質管理を保証するのです。一般的に安全度の高い技術を完成度が高いと評価します。

帆船や蒸気機関は欧米で長い年月の使用経験が積み重なった完成度の高い技術だったのです。完成度が高いので安全な技術なのです。

三笠も日本丸も溶鉱炉も長い年月、安全に使用され続けたのです。

それに比べて原子力発電はイギリスで1956年に実用化されてから早急に日本が輸入した技術です。日本で実用化されたのは1970年前後ですから、たった14年位しか経過していません。完成度の低い、安全でない技術だったのです。日本の政治家や経営者は技術の完成度を深く考えないで、高度成長に間に合うように急いで輸入したのです。急ぎ過ぎてその危険性を見落としていたのです。これが第一の大きな間違いでした。

第二の間違いは原発工場で働く人間の訓練をおろそかにして来た事です。

前にご紹介した戦艦、三笠でも帆船、日本丸でも、そして上に示した溶鉱炉でも現場で働く人間の訓練方法も一緒に導入されたのです。日本人が欧米に行って、滞在して技術の使用法の訓練を受け、更に欧米の技術者が日本に来て、滞在して使用方法を徹底的に訓練したのです。訓練を受けた人は専門の職人として一生その技術を守ったのです。

原子力発電の技術輸入の場合は現場の職人を育てませんでした。放射能の故に職工が定住せず、いつも季節労働者を主にした素人だけで操業して来たのです。これでは原発の安全が保障されません。

第三の間違いが致命的な悲劇の直接の原因になりました。それは原発を輸入する時、日本の立地条件に合わせて改良をしなかった事です。日本は世界でも有数な地震国です。津波が何回も襲って来た歴史を持っています。その事実に合わせて原発施設を作る時は海岸にしても標高の高い所に作り、耐震構造にし、さらに長期の停電にも対処できる自動電源切り替え装置を設置すべきだったのです。

明治以来、どのような輸入技術でも日本人は改良に、改良を加え、安全対策を徹底的にしてきたのです。民間会社ではそれが常識です。所が電力会社は半官半民の会社なので安全が徹底的に追求されなかったのです。

以上の3つの間違いが今回の福島原発の大事故の直接的な原因なのです。

こんな危険な技術導入を急いだ日本人の倫理性については明日の記事で書く予定です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


お釈迦様もイエス様も原子力発電を悲しんでいらっしゃいます

2011年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

この世の慾に執着してはいけません。栄華に執着してはいけません。祇園精舎の鐘の音のように全ての栄華は儚く消えて行きます。全ての執着心を捨てると浄土の世界を見ることが出来ます。お釈迦様は哀れな衆生を慈しんでそのように教えました。

イエス様も言いました。慾に生きる人は私の弟子ではない。慾とは権力慾や金銭慾の事です。彼らを私は知らない、私とは無縁の人々です。イエス様は権力慾や金銭慾に生きる人々を嫌いました。そして質素な、そして心の貧しい人々を愛したのです。貧しいが慾の無い人々を愛し、慈しんだのです。

権力慾や金銭慾の故に原子力発電を推進してきた人々をもイエス様は愛します。しかし悲しい気持ちで愛しているのです。下の写真にように貧しい馬小屋で生まれたイエス様は慾の無い人々が好きでした。宿屋が満員で泊れなく、馬小屋の中でマリア様が、赤子を生んで、飼葉桶の藁の上に寝かせたのです。

お釈迦様やイエス様は原子力発電にこだわる人々を悲しい気持ちで見ていらっしゃいます。

やはり原発は止めたほうがよいのではないでしょうか?これが私の感じ方なのです。ご反対の方からのコメントを期待しております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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危険と分かっていても高速増殖炉「もんじゅ」の魅力・・そして他の原発の魅力

2011年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の福島原発のレベル7の重大事故に刺激されて、もう一つの発電方式の高速増殖炉の危険性が真面目に議論されています。このブログでも昨日紹介しましたshiba_yu36 さんの記事です。「福島原発以上に危険性のある高速増殖炉もんじゅで今起きていること」で、そのURLは、http://d.hatena.ne.jp/shiba_yu36/20110329/1301399251#c です。

この記事は内容が手堅いだけに多くの賛否両論のコメントが寄せられています。それらのコメントは大きく分類すると次の3種類に分けられます:(1)高速増殖炉の危険性を厳密に、科学的に議論しているコメント、(2)科学抜きにした感情論的コメント、(3)高速増殖炉や沸騰水型軽水炉原発の地域経済との関連を議論したコメント、などです。

私は特に(3)に関して深く考え込んでしまいました。原発の危険性の技術論だけを考えるのは視野が狭すぎます。そこで私は(2)も視野に入れる必要性も信じて、総合的に原発反対の立場に立っていました。私は原発反対の立場は変えるつもりは一切ありませんが、下のコメントを読み、考え込んでいます。

以下のコメントは高速増殖炉「もんじゅ」の存在している敦賀市に住んで居るある方が投書していたコメントの一部です。

=====敦賀市に住んで居るある方より(抜粋)===========

地元に住んでるとね、原発というのはいかに強大な存在かつくづく思います。
巨大な企業誘致であるので膨大な雇用を産み、近所友人にも原電関連企業の社員が何人もいる。
原電にまったく関係がない私の職業も、間接的に資金が回った仕事が来るし、原発マネーの入った行事、イベント(花火とか祭とか)、施設で自分自身も子供も市民も愉しんでいる。住んでるだけで電気料金補助があり、かつて、船でしか行けない陸の孤島だった敦賀半島は国道並みの道路が走り、市内の学校は一気にRC化、人口7万に満たない小都市とは思えない市民病院。しかし、原発財源が無いと何も進まない地元経済、大都市圏並みの物価高、自活力をそぎ、考える力を奪った。
福島原発の地元は本当に発展したのか?この事故のリスクを負える発展や見返りがあったのか?
これまで福井県全体+他県隣接地で数千億円もの金が入った。小浜市民の方、お金一切貰ってないって事はないよ。立地自治体よりはかなり少ないし固定資産も入らないけど、寄付金もけっこうある。JR小浜線は電化までしたし。だからって原発リスクを負えるのか?負えって言うの?違うよね?
以前、ネット議論をしていた頃、ゴミ処理場や米軍基地のようなモノだと言ったら原発社員が怒ってね。震災以前の何十年前から原発議論は水掛論議になって疲れます。でも、今回は事情が事情。こうやってネットやってられるだけでも被災者を思えば有り難いというか何というか。これを機会に次世代エネルギー論が急速に進み、技術も進むと思われます。(そう思いたい)

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原発推進で権力が増大する政治家や役人、大きな利益が上がる電力会社の経営者、そして何よりも原発のお陰で経済的に得をする地元の人々。人間に権力慾と金銭慾が有る限り原発廃絶はほとんど不可能なような気がします。

原発を廃止するか否かは人間の根源的な慾と深く結びついているのです。危険性の科学的議論や感情論ではどうする事も出来ないようです。皆様はどのようにお考えでしょうか?


今日の散歩道・・・奈良時代の武蔵国の首都の散策

2011年04月20日 | インポート

今日の散歩は710年に武蔵国の首都となった現在の府中市の国府跡の周辺の散策でした。

武蔵国(むさしのくに)は大和朝廷が定めた律令国家の一つで、21の郡を有する大国でした。現在の埼玉県と東京都の大部分と、川崎市、横浜市の大部分を含んでいました。

645年に大化の改新が行われ国司(武蔵守すなはち武蔵国の長官)が大和朝廷より派遣されました。そして710年に現在の府中市の大国魂神社に隣接して国府の建物群である国衙が建設されたのです。尚、この大国魂神社は国府の設置よりも古く、AD100年頃と言われています。今年はその鎮座1900年祭をします。

下に現在の大国魂神社の参道のケヤキ並木や街の風景写真をお送りいたします。

写真の下にはついでに大和朝廷から派遣された武蔵国の長官の名前と着任の年を付記しました。武蔵国の国分寺が出来たのも750年前後です。長官の名前では、平群広成の頃と考えられます。小さな写真にはその頃使われていた丸い硯や土器の皿なども写っています。

今日の散歩ではそのような古い奈良時代の府中の町の様子を想像しながら散歩したので、浩然たる気持になりました。青い空のもと爽快な散歩でした。

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さて、武蔵守 (大和朝廷から派遣された武蔵野国の長官)について付記します。

引田祖父703年〈大宝3年〉~)、当麻桜井708年〈和銅元年〉~)、大神狛麻呂715年〈霊亀元年〉~)、多治比縣守719年〈養老3年〉~)、布施国足731年〈天平3年〉~) 、多治比広足738年〈天平10年〉~)、紀清人746年〈天平18年〉~)、平群広成752年〈天平勝宝4年〉~)、石川麻呂754年〈天平勝宝6年〉~)、高倉福信756年〈天平勝宝8年〉~)、石川人成764年〈天平宝字8年〉~)、巨勢公成766年〈天平神護2年〉~)、藤原雄田麻呂768年〈神護景雲2年〉~)、高麗福信770年〈宝亀元年〉~)造宮卿従三位 、藤原浜成774年〈宝亀5年〉~)刑部卿 正四位下・・・・以下省略します。


欧米から輸入した技術の使い方・・・(1)旗艦、三笠・日本丸・原発は全て輸入技術

2011年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

多くの日本人は福島原発は日本の会社が作ったと思っています。しかし欧米が開発した原子力発電技術を輸入したものなのです。建設は確かに東芝や日立が担当しましたが、設計と運転技術はアメリカのジェネラル・エレクトリック社から輸入したものです。その輸入技術を何故上手に使い切れなったかという深い問題を考えて見たいと思います。

その為には、日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅した旗艦の三笠の場合と、60年以上の長年月にわたって日本の船員養成に貢献した帆船・日本丸の事情を振りかえって見ましょう。まず横須賀に保存、公開されている戦艦、三笠の写真をご覧下さい。2009年に小生が撮影しました。

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この戦艦は1900年に英国のビッカース造船所で作られ、明治政府が輸入しました。この15140トン船は戦艦なので戦闘目的に関係しない装備は一切ありません。士官室は後部、水兵室は前甲板の下と画然と分離され規律保持が徹底されています。砲弾庫は船底の一番安全なところにあり、大量の食料は長期作戦のために冷凍庫に保存されています。撃沈した敵の戦艦の乗員を救助し、捕虜にする予定で「捕虜収容室」も装備してある。エンジンは石炭を燃やす蒸気機関で15000馬力、18ノットでした。

この船の輸入と共に操船方法と戦闘技術は英国海軍から忠実に輸入されたのです。ですから日本の海軍はイギリスの海軍と全く同じ戦闘方式を取るようになりました。東郷元帥が勝利したのはその輸入技術を自分で改良して日本海海戦に臨んだ為です。この日本と英国との信頼関係の故に、その後の日本の商船の船員養成もイギリス方式に従って行われて来たのです。英国から帆船、日本丸を1930年に輸入し、戦後までの長い期間活用して来たのです。その日本丸は現在、横濱のドックに係留され一般公開されています。毎年、春と秋に全ての帆を上げる訓練を現在でも実施しています。下に2009年春に帆を上げた時、小生が撮影した写真を示します。

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この帆船はイギリスのラメージ&ファーガソン社が作りました。それを分解して日本へ運び、組み立てた2279トンの船です。現在でも船内の鋼鉄製の梁にはラメージ&ファーガソン社の名前が刻印されています。補助機関のエンジンだけは日本の池貝鉄工所製の600馬力2基が使われています。帆船なので29枚の帆の上下は全て人力だけで行います。太平洋を何度も横断しながら商船に乗る士官の訓練をイギリス方式で行って来たのです。上の2つの輸入技術は日本人が根気良く訓練を重ねその長所を使い切ることに成功した最善の実例です。

さてそれに比較してアメリカから輸入した原子力発電の技術の場合は何故失敗したのでしょうか?

日本へ輸入された原発には大きく分けて三つの方式があります。加圧水軽水炉、沸騰水型軽水炉と高速増殖炉です。下には沸騰水型軽水炉の見取り図を示します。

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ここで原子炉の開発の歴史を少しだけ振りかえって見ましょう。

その最初は1942年シカゴ大学のエンリコ・フェルミ博士がつくった核分裂連鎖反応施設でした。そして1951年には初めて1kw発電用の原子炉、EBR-Iが出来たのです。

西側で初めて商用発電が始まったのは1956年で、イギリスのコールダーホール原発は6万kwの出力でした。この原発は2007年まで稼働し、老朽化の故に爆破、処理されました。そのすぐ後にアメリカやフランスで商用原子力発電が始まり普及し始めたのです。原発の設計、製作では特にGE社やウエスチングハウス社が有名になり、日本もこの両者から原発の技術を輸入して来たのです。

このように欧米からの輸入技術という事では戦艦、三笠も帆船、日本丸も原理力発電も全く同じなのです。

さてこれらの3つの輸入技術のうち、三笠と日本丸は日本の発展に大きな貢献をしましたが、原発だけは何故大事故を起こし多くの日本人を不幸にしたのでしょうか?その原因の考察は次回の記事で行います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人


高速増殖炉、「常陽」でも事故・・・その廃炉工程表を公開せよ!

2011年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

福井県に高速増殖炉、「もんじゅ」があり、その前身に当たる実験炉である「常陽」が茨城県、大洗にあります。その常陽は実験計画を終了して廃炉にする筈でした。

その「常陽」でも2007年に事故が発生し、いまだに復旧されていません。その事故の内容をきちんと書いた報告書を見つけましたのでご紹介いたします。

書き出し部分の文章を下に示します。

読んで見ると、としっかりした科学的訓練を受けている真面目な研究者と判断できます。大洗の技術者が日本原子力学会で発表した講演を聞いて纏めた報告書のようです。信用できる内容と私は判断しました。

それで気になっている事はこの事故の後の廃炉工程表の事です。日本核燃料開発機構はその廃炉工程表を公表すべきと信じています。それは福島原発の廃炉工程表を補強する内容でなければなりません。こういう緊急事態になっても日本核燃料開発機構は東京電力とは別な組織だから関係ないという考えで居ることが一層国民の不安を増大するのです。

皆様はこの高速増殖炉、「常陽」でも事故の事をどの様にお考えでしょうか?ご心配ではありませんか?

======小林圭二氏の報告書の導入部===========

「高速増殖実験炉「常陽」の事故とその重大性」 

 小林圭二(元京都大学原子炉実験所講師)

http://www.page.sannet.ne.jp/stopthemonju/home/0901joyojiko.pdf#search='高速増殖炉、常陽'

昨年(2008 年)の原子力学会年会、14 の分科会に分かれた広範かつ膨大なプログラムの中に、「ナトリウム冷却型高速炉の原子炉容器内観察・補修技術の開発」という地味なタイトルが含まれていた。特に注意はしていなかったが、直前に送られてきた予稿集を読んで、「おや、これは何だろう」と思う記述があった。「計測線付実験装置と回転プラグとの干渉」という短い記述である。胸騒ぎを覚えて当日の口頭発表を聞きに行き、そこで高速増殖実験炉「常陽」で事故があったことを初めて知ったのである。

常陽は茨城県大洗町にある熱出力14 万キロワットの実験炉で、発電設備は備えてない。

現在はもっぱら将来の高速増殖炉用燃料や材料の開発のための照射試験用原子炉として使われている。「常陽」の炉心は、「もんじゅ」と同じような六角形の燃料集合体85 体で構成されている。照射試験は、炉心のど真ん中を含む6 ヶ所で行えるようになっている。2007 5 月の定期検査時に、そのうちの1 つに入れていたMARICO 2 と呼ばれる照射試験用実験装置を抜き、原子炉容器内壁近くのラックへ移した。MARICO 2 をそこで切り離し、移動装置だけ元の位置に戻した。ところが、照射実験装置がラックにキチンと収まっていなかったか、あるいは移動装置の掴みがはずれなかったために、移動装置の移動によってMARICO 2 の上部が引きちぎられてしまった。MARICO 2 はラックの上へ9 センチもはみ出し、その突起物が、移動装置の移動にともないラック上を通過した炉心上部機構にぶつかり、炉心上部機構の下面を破損させた(図)。

ところが、事故の発生は約6 ヶ月後までわからなかった。11 月の燃料交換作業で操

作不能が起こり、その原因調査で初めて損傷に気がついたのである。破損の発生も、それに気がつかなかったことも、ナトリウムが水とちがって不透明なことが基本的要

因となっている。その不透明さが、破損の調査自体も大変困難にした。

====以下省略(藤山杜人)==========


日本には無傷の財産がたくさん残った!・・・東北地方は必ず復活する!

2011年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の大災害を考える時、私は少年の頃経験した終戦後のことを思い出しています。そして、それと比較して考えています。

当時は全国の都市がB29の編隊爆撃で一面、焼け野原になっていたのです。焼け残った白壁の土蔵以外は一面瓦礫が広がっていたのです。今回大津波に襲われた後の町の風景に似ていました。その焼け野原を歩きまわった記憶を思い出しています。

日本の船も飛行機もアメリカ軍にやられてしまい、復員船も米軍のLSTという上陸用舟艇を借りていたのです。シベリアからの復員船の興安丸は日本の船でしたが、それは数少ない日本の船の一つでした。帆船日本丸もすべてのセールやマストを取り外して復員船として使われていました。

なにもかも失ったしまった日本でしたが力強く復興したのです。戦前以上に豊かな、そして平和な国になったのです。

東日本大震災の復興は第二次大戦後の日本の復興よりは短い期間で成し遂げられると信じています。西日本に残った無傷の船や高速道路や新幹線のような大きな財産が、復興の足がかりになります。東北地方の復興の支えになります。

緑豊かな山並みは残ったのです。

漢詩の「国破れて山河あり 城春にして草木深し・・・・」を思い出して気持ちを奮い立たせましょう。

無傷で残った大きな財産の写真をお送りします。これらを足がかりにして東日本は必ず復興します。そんな確信が沸いてきます。その復興を祈って写真をお送り致します。

(1番目の写真は無傷な横濱の美しい街の風景です。2番目の写真は客船、にっぽん丸が横浜の大桟橋に係留されている様子です。3番目の写真は瀬戸内海の明石大橋の遠景です。その上を車が元気に走っていました。前々から予約してあった横濱ー岩国への船旅の折に撮りました。3月26、27、28日でした)

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大災害で、あなたの心は動揺していませんか?・・・しかし明るく生きましょう!

2011年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

勿論、動揺しています。悲しみが心の底に沈んでいます。満開の桜を見てもはなやだ気持ちになれません。家族や親戚が大津波にさらわれたわけでも無いのです。具体的には何も被害がありませんでした。それでもこんなに悲しい思いをするのですから、愛する家族を失った人々、家をなくしてしまった人々の悲しみは想像出来ないくらい大きいと思います。とても言葉では表現出来るはずはありません。

避難所に居る人々の笑顔がテレビに出ると自分も勇気が出てきます。テレビに出るときは悲しみを隠してくれているのです。

大津波の上に福島原発の事故が重なり、悲劇を重ねます。ひどい人災です。

しかし何時までも悲しんでばかり居ては良くないと思います。時がたつに従って、少しずつ、少しずつ、普通の日常の感覚が帰ってきます。

毎日、努力して春の花々の風景写真を撮って廻ってきました。このブログの紙面も以前のような楽しい写真を出すようにしています。

昨日は、いつものように、「今日の散歩道」という風景写真を復活させました。前々から予定していた旅へも出かけました。観光旅行にキャンセルが多くて困っている人々も沢山居ました。

今日からこのブログ紙面を以前のような楽しい旅の記事や趣味の写真で飾ろうと決めました。悲しみは心に沈んでいますが、それを語る事は止めます。

大災害で、あなたの心は動揺していると思います。動揺の内容は人それぞれです。

愛する家族を失った人。思い出がいっぱいの家を流された人。学校や職場が流されてしまった人。東北地方が故郷の人。親戚や知人が亡くなった人。悲しみはそれぞれ違います。しかし悲しみを書くのは次第に少なくいたします。忘れるのではなく、明るい希望の炎を燃やすために。そして前向きに生きて行きます。

皆様のご健康と平和をあらためて強く、強く、お祈り申す上げます。

藤山杜人

(下の写真は昨日自宅の庭で撮った花の写真です)

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