後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ふるさと仙台にまつわるエピソード(3)思い出のなかの故郷を探す旅

2011年06月08日 | インポート

仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。

その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。江戸時代は有名な繁華街で、豪商の店が集まっていました。その奥州街道の部分を国分町といって賑やかな商店街でした。

明治維新で仙台藩が解体された後も「芭蕉の辻」や国分町の賑わいは続きました。しかし、大正、昭和と時が流れるに従って、国分町はしだいに寂れ、それと並行して南北に走る「東一番丁」が繁華街となったのです。

その通りに面して三越百貨店が出来、藤崎百貨店が出来、仙台一番の商店街になりました。

私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。ついでに大人たちからよく聞いた「芭蕉の辻」や「国分町」へも足をのばし意味も無く歩きまわったものです。

仙台を出て東京に暮らすようになって52年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅にでました。昨年の10月の事です。父母や親戚の墓参という目的もありました。以下はその時の紀行文です。

@ふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまった

仙台では、思い出をたどりながら町々を歩き回りました。

高いビルが沢山立っています。見知らぬ白い街になっていました。大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しています。

道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。

繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンだけが存続していましたが、あとは全て消えてしまったのです。茫々50年。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。

消えてしまったふるさとの街を歩く淋しさ、寂寥感が秋の夜風で身に沁みました。

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@子供の頃遊んだ秘密の場所が観光客に奪われてしまった

昔の家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。

そのうち戦災で廟が焼失しました。その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。

遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。

それが先日行ったら金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。仙台観光の目玉らしく観光客がゾロゾロと歩いています。私は何故か中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽ですが、なにかガッカリしたような気分になりました。家内が一人の観光客になって楽しそうに見物しています。

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仙台へ観光客が沢山来てくれることに感謝しています。でも何故か私の心は悲しみが広がっています。

@しかし、自然の景色だけは変わらない

昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。老人の私は牛タンが名物だとは信じられません。

牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か嬉しくありません。牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに少しばかり腹を立てているのです。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。それで地域輿しが出来ることは大変良い事です。大歓迎です。しかし仙台の牛タンだけはなんとなく困ったものと感じています。私は、「理不尽の字」に手足を付けたような老人なのです。

仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消えてしまったようです。

しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。

人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。

下に仙台城から見た政宗の廟所のある経ケ峯の写真と評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真を示します。

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皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


ふるさと仙台にまつわるエピソード(2)仙臺味噌と四代目八木久兵衛とのかかわり

2011年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。塩味をきかせた辛口の味噌で、炊きたてのご飯でオニギリを作り、仙台味噌を塗って、直火で焼くと香ばしい焼きオニギリが出来ます。江戸時代は仙台藩の御用で製造していましたが現在は宮城県いちえんで製造され、東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。私の家は仙台味噌を使い続けています。

そもそも仙台味噌は、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市衛門が寛永3年(1626年)に現在の仙台市の国分町に、「仙台味噌」の看板を上げたのが始まりと言われています。その後、伊達政宗の指示により城下に御塩噌蔵が設けられ、真壁屋がその醸造と運営に当たりました。真壁屋は100石の扶持を与えられ、武士として古木氏を名乗っていました。

第二代藩主の伊達忠宗の頃から、江戸の大井にあった仙台藩下屋敷においても仙台の真壁屋と同じ醸造方法で仙台味噌が作られていました。江戸勤番の藩士へ配給していましたが、余った分を江戸の味噌問屋へ払い下げていたのです。その結果、江戸では仙台味噌の名が広まっていました。

幕末の戊辰戦争で仙台藩は幕府側につき、負けてしまいます。城も焼かれ、唯一、大手門だけが残りました。明治政府によって仙台藩は解体され、仙台味噌も消えて行く運命にありました。それを救ってくれたのが八木久兵衛という人でした。

紆余曲折の末、明治18年の頃、紅久という豪商の四代目、八木久兵衛ともう一人が仙台藩の味噌醸造業を東京の大井と仙台の両方で引き継いだのです。その後、東京での仙台味噌醸造は四代目八木久兵衛の弟の八木忠助さんに任せ、自分は仙台に大きな味噌醸造工場を作り、大々的に仙台味噌を売り出したのです。その醸造工場のお陰で仙台味噌は江戸時代より有名になったのです。

一方、東京の仙台味噌は現在に至るまで醸造が続きます。現在は八木忠一郎さんが社主で、宮内庁御用達の店にもなっているそうです。

仙台味噌は現在は宮城県のあちこちで作られています。東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。まだの方は是非一度使ってみて下さい。美味しいと思います。

上で出て来た四代目八木久兵衛は明治時代の仙台の代表的な財界人で、仙台市の八木山の所有主として町の発展に大きな貢献をした人です。彼と仙台市とのかかわりについてはいろいろ面白いエピソードがあるので又続編でご紹介したいと思います。

文字通り、手前味噌の故郷の味噌自慢でした。失礼いたしました。(続く)


今日の散歩・・・庭をウロウロ、枝下ろし

2011年06月07日 | 写真

下の写真のように梅の木が伸び放題です。柿の木もサクランボの木も若枝が伸び放題です。今日は散歩のかわりに庭仕事をしました。

ホームセンターへ行って脚立と枝切りハサミと小型のノコギリを買いました。枝をまとめて置くビニールシートも買いました。道具が新しいと庭仕事が面白くなります。

今年は梅の実の当たり年で沢山採れました。さっそく梅干しを作りはじめました。つまらない写真で御免なさい。

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深い悲しみが私の心の中に渦巻いています、その二

2011年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

誰でも年をとります。老境にいたると自分の人生の来し方をいろいろ思い出して反省することが多いのではないでしょうか?勿論、自分の人生は間違っていなかったと自画自賛し、意気軒昂のまま旅立つ人もいます。

私の職業は大学に勤めながら実験科学の研究をし、成果を論文に書き、国内と外国の学会誌へ発表するという仕事でした。随分、数多くの論文を発表したと満足していました。

このたび福島原発事故のせいで、昔お会いした古川和男の電源喪失でも爆発しないトリウム熔融塩原発炉の文書を読みました。

このタイプの原子炉については昔、古川さんから話を聞いたことがありました。その時の主流は沸騰水型原発炉でした。成功の見込みも無いマイナーな、熔融塩原発炉を本気で研究している古川さんを何となく困ったものだと思ったものでした。

困った理由は2つです。あんなに優秀な研究者の才能を使い道も分からない熔融塩原発炉へ注ぐのは無駄だと思ったからです。もう一つの理由はマイナーな脇道の研究をする人を私はなんとなくウサン臭く思っていたからです。

私の研究の姿勢はその分野の主流の研究テーマを取上げるという主流主義でした。別な言葉で言えばその分野の流行のテーマを追っていたのです。流行のテーマですから多くの研究者が集まります。要するに華やかなのです。

古川さんのテーマは熔融塩の物理と化学という地味なものでした。熔融塩とは食塩やカルシューム弗化物を加熱して熔解し、液体にしたものです。液体になるとナトリュームや塩素はイオン化して自由に動き回ります。このような液体は濃厚なプラスイオンとマイナスイオンの粒子だけで出来て居ます。その液体構造を古川さんが真面目に研究していたことを思い出しました。兎に角、地味なテーマなのです。

そのような研究の姿勢と信念の延長にトリウム熔融塩原発炉があるのです。

先日、このブログに「原爆へつながる原子力発電へ警告する古川氏を紹介する」という題目で記事を掲載しました。掲載してから古川さんへご連絡しました。そうしたらとても丁寧な言葉使いで、その題目は勘弁して下さいという意味のメールが来ました。・・・「私は原発炉の評論をするのではなく、安全な原発を実際に作る事業をしています。評論と事業推進の違いをどうぞご理解下さい」・・・

私は自分の姿勢、大げさに言えば自分の人生観が間違っていたような気分になっています。悲しいです。それは深い悲しみです。

一般の実社会の会社でも主力事業へのみへ参加し、主流をあるこうとする人もいます。その一方で、脇道や縁の下の支えになるような地味な仕事だけを真面目にする人もいます。いろいろな人が居るからこそその会社は隆盛するのです。しかし停年になって引退し何年かたったとき、どちらの人が幸福感に包まれるでしょうか?

そんな事を考える今日、この頃です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます、藤山杜人

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今日の散歩・・・高尾山の300段の階段へ挑戦、そして精進料理

2011年06月06日 | 写真

今日は梅雨の合間の晴天です。午前中から高尾山へケーブルカーで登り、薬王院、飯綱大権現、奥の院までの300段の石段へ挑戦してみました。

年を取ると階段の昇り降りが怖くなります。階段に負けてなるものかと登って来ました。ケーブルを降りて500m位歩くと1番目の写真のような110段の石段があります。そして2番目の写真のように、薬王院の脇から飯綱大権現まで、更に100段の石段があり、またまた、その上の奥の院まで100段の狭い石段があります。ですから今日は合計310段の石段を登って来ました。

薬王院の宿坊で3番目の写真のような精進料理の昼食をとりました。昼食の間、ゆっくり休みましたので、そこからの200段の石段は案外やすやすと登れました。

奥の院から高尾山の頂上まで30分くらいで登れます。ケーブルを降りた地点から合計60分の歩きで4番目の写真のような頂上に立てます。

そこから富士山が見える筈ですが、今日は霞んでいて見えませんでした。帰路は下り道だったので40分でケーブルカーの山頂駅まで帰って来ました。往復6km位の散歩でした。

清浄な山の空気の中に、ホトトギスの鳴き声がこだましていました。この鳥の鳴き声は昔、仙台に住んでいたとき家の裏山でよく聞いたことなど思い出しながら一人で静かな山道を楽しんで来ました。014 026 021 033

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深い悲しみが私の心の中に渦巻いています、その一

2011年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

原発は核兵器の役に立つと言って反対していた人々が居ました。私は冷笑していました。起爆装置の無い原発は根本的に原子爆弾にはなりません。全く関係の無い平和的な発電装置です。

しかし最近、昔お会いした原子力研究者の古川和男さんの文章を何篇か読みました。ビックリしてしまいました。

第二次大戦中に原爆製造に大きな貢献をしたシカゴ大学の学者たちの思想に2つの流れがあったようです。一つは、一刻も早く原爆を完成しようとするグループと、安全第一を考えた熔融塩原子力発電装置を作ろうとするグループです。2つのグループははじめは一緒に協力しながら新しい技術の開発に努力してようです。

しかしその思想の違いは次第に明らかになってきます。

そして日本には、安全第一の熔融塩原子力発電装置に魅了され、自分の研究能力と情熱の全てを捧げた人が一人居たのです。それが古川和男さんです。(全電源喪失でも爆発しないトリウム熔融塩原発炉を提案した古川和男博士をご紹介します )。

現在、日本で使用されている軽水炉型の原発は、操業をすると副産物としてプルトニウムが生産されます。プルトニウムは原爆や核弾頭用の小型原爆の原料です。

アメリカ政府はソ連との激しい冷戦中に、ソ連と核弾頭長距離ミサイルの製造競争をしていました。プルトニウムは幾らあっても足りません。そして一方で、濃縮装置の効率化も追求されて来ました。

従って軽水型原発装置は発電もしますが、プルトニウム製造装置でもあったのです。しかし1990年頃にソ連が崩壊して、多量のプルトニウムは必要が無くなりました。そして軽水炉がアメリカ同盟圏の高度工業国に数多く残ったのです。ロシア同盟圏にも残りました。

更にもう一つ、現在の原発技術の軍事利用には、原子力潜水艦の発電機としての利用があります。

潜水艦が水中で潜航する間は重油を燃料にしたエンジンは使えません。海の中には空気が無いからです。従来の全ての軍用潜水艦は潜航中は数多くの蓄電池で電動機を回していたのです。危険海域を過ぎれば浮上して、ジーゼルエンジンを回し、蓄電池群を充電していたのです。

しかし、その蓄電池を原子力発電機で充電出来れば潜水艦は非常に長期間、海中を潜航出来るのです。潜水艦に積む原子力発電機は小型で軽量でなければなりません。安全性を無視してでも小型・軽量が要求されます。

原発機の冷却には多量の海水をふんだんに使えます。軽水炉原発と原子力潜水艦の原発の技術は相互に密接な関係を持ちながらアメリカとソ連で開発されて来たのです。

原子力発電の開発はあくまでも軍事技術の一部だったのです。現在、日本で使用されている全ての原発はアメリカの軍事技術の一部として開発されたのです。

そうすると当然、軍事技術の宿命を持っています。「安全性を無視してでも効率と性能だけを追求する」という宿命です。薄い装甲板しか持たなかった軽いゼロ戦が、初めはその軽量故の回転性能の良さで、敵戦闘機を撃ち落としました。しかし性能が上のグラマン機が生産されるようになると、その装甲板の薄さ故に、散々落とされたのがその顕著な実例です。

電源喪失で爆発する運命は当然だったのです。その事に気がつかなかった自分が悲しいのです。原発は原爆製造へ繋がると言って大反対していた人々の気持ちが解らなかったのです。自分の無知が今頃になって分かったのです。深い悲しみに襲われています。そして危険な原発は辺鄙な所に作って、爆発しても少人数の犠牲者なので良いと考えていた人々の考え方が悲しいのです。

プルトニウムを副産できる軽水炉の開発へ莫大な研究費を出したアメリカの軍事研究機関は、安全第一の熔融塩原子力発電装置へは研究費を出しませんでした。僅かにオークリッジ研究所に試験炉の完成と長期間操業を部分的に支援しただけです。そのような軍事色の強いアメリカの文化が悲しいのです。

私の心の中に渦巻いているのは、自分の無知への悲しみ、そして人間の根源的な罪へ対する悲しみです。

福島原発の後で、古川和男さんの文章を幾つか読んで、私は深い、深い悲しみに襲われています。それは重く冷たい鉛のように私の心の底に沈んでいます。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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日本の政治には本当に落胆してしまいました!

2011年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

大地震、大津波、そして福島原発の大事故で多くの人々が被災しました。そして被災者を支援するために多数のボランティアが馳せ参じ、汗水流して居ます。

それなのに政治家達は大災害の被災者をそっちのけで、実に見苦しい権力闘争をしています。野党以上におぞましいのは同じ民主党の小沢一派や鳩山一派です。菅直人さんを倒して、自分達が権力の中心へ帰り咲うとしています。目を覆いたくなるような光景です。

菅直人という人にもガッカリしました。かれは二重の意味で男らしくない、腐ったような男です。不信任案が通過するのを怖がって、「辞めるような」発言をしました。小沢一派と妥協したのです。そんなひ弱な事ではいけません。小沢一派を切り捨てた上で、堂々と勝負に出るべきでした。それで不信任案が通過してしまったら、男らしく解散して国民へ信を問えば良いだけの事でした。

さらに恥の上塗りをしたのは辞める時期を引き延ばし、詐欺師かペテン師のような雰囲気を出してしまった事です。辞めると言った以上は、男らしくサッパリと辞めれば良いだけの事です。見苦しい極みです。

ここ数日は新聞を見るのが厭になりました。おぞましいニュースを見たくないのです。

解決方法は思考停止です。考えない事です。忘れる事です。

従来の自民党の時代にも首相がコロコロ変わったのです。それでも日本はそれ程ひどい国にならなかったではありませんか?働いている皆が努力しているからです。政治家はあまり大きな影響を与えていなかったのです。

政治家の事を忘れて、被災地の人々へ心を寄せましょう。そして祈りましょう。不幸にして亡くなられた人々のご冥福を。

被災した人々が少しでも明るい希望を持つようにと祈りましょう。

日本が良い国になりますように祈っています。(終り)


ふるさと仙台にまつわるエピソード(1)ベーブ・ルースが来て2本のホームラン

2011年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

ふるさと仙台に大きな地方新聞社があります。河北新報社です。そこで長い間、記者をしていた石澤友隆さんが「八木山物語」という本を河北新報出版センターから出しました。仙台の江戸末期、明治大正昭和の郷土の気軽な歴史物語です。仙台に住む弟が送ってくれたこの本を読んでみると、自分があまりにも故郷の事を知らなすぎたことに愕然とします。戦中、戦後の混乱のなかで育ったので郷土のことなど誰にも教えて貰いませんでした。焼け野原になった町々と食料難の事しか思い出せません。

そんな私に、石澤友隆さんの「八木山物語」はいろいろ思い白いお話をしてくれます。自分の少年だった頃の薄れがちな思い出とつなぎ合わせながら、幾つかの面白いエピソードを書き続けたいと思います。

それは昭和9年11月9日の寒い朝でした。ベーブ・ルースやルース・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが函館から仙台駅に着きました。仙台の城山の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。

試合は好天に恵まれ、米国選手の灰色のユニホームに真紅のレザーコート姿が八木山球場の周りの森の緑と鮮やかなコントラストをつくり美しい風景です。アメリカチームはあわせて5本のホームランを打ったのです。ルースは日本に来て初めて2本のホームラン打ったほか、ゲーリック、フォックス、ミラーは各一本打ちました。試合は7対ゼロで米チームの圧勝です。

この年、日本の野球界にとっては画期的な事が起きました。年末に我が国初めてのプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部(巨人軍の前身)が創立されたのです。投手の沢村栄治、スタルヒン、内野手の三原脩、水原茂などの19名です。そして翌年6つの球団が生まれたのです。

それから茫々70有余年、プロ野球チームの楽天が来たのです。仙台の市民は戦前にベーブ・ルースが八木山球場で2本のホームランを打ったことを語り継いでいます。そして楽天を応援しているのです。

少年の頃、私はしばしば八木山球場へ遊びに行きました。戦争一色で誰も野球などしません。放置され荒れ放題です。スタンドの盛り土が崩れ、内野席の前にあった鉄製の網は供出され、崩れた白いコンクリートの台座だけが広がっていました。

広い赤土の内野、外野をわけもなく走って遊びました。ベーブルースのホームランは伝説のように私は知っていなした。子供ながら旧懐の想いをしながら遊んだ思い出があります。その場所は現在、仙台市立動物園になっています。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りもうしあげます。 藤山杜人


モネの睡蓮の絵と写真はこうも違います。興味深いですね

2011年06月04日 | 写真

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上の写真は昨日、神代植物公園で撮った睡蓮の花の写真です。

クロード・モネは睡蓮の絵を数多く描きました。その中から上の写真に近い風景のものを2枚選んで、下に示します。フランスの植物そして陽光の違いは明らかです。そしてモネは心に残った印象を描いたのでしょうか。印象派とはこういうものなのでしょうか。ほんの少しだけ解ったような気分になりました。

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古川 和男著、「核分裂エネルギー“ を全人類のものに!」、その二「脱プルトニウムの「新トリウムエネル

2011年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

1) 現行の原発体系には、未だ余りに多く未解決な問題がある。

基本政策は、「十分に経済的で、日本のみでなく世界市民の広
い賛同と積極的利用が促進されるもの」でなければならない。しか
し、OECDの見解でも「原発規模の現状維持」が精一杯に近い。 

2) 現状維持努力は必須であるが、同時に、その改善打開を「新技
術で積極的に実行」すべきである。 

3) 「極めて単純化された新トリウム熔融塩原発」により可能。

しかも、僅かの資金と期間で実用化可能で、下記のように現存の
諸難問のほとんど全ての解決に役立ち、世界に販売展開できるであ
ろう。 その一部のみを示すと:

① 高い安全性: 原理的に「重大事故」はありえない。
② 高い核拡散抵抗性:プルトニウムなど超ウラン元素が殆ど生ま
れず、また強烈なガンマ放射能で、核拡散・テロ利用防止に最適。
③ 核廃棄物の減.:同上の理由の他に、運転・保守作業の僅.化
で高・低レベル核廃棄物が大きく減.。プルトニウム消滅にも最
適。
④ 再処理作業の単純低廉化: 燃料体の溶解・再製造が皆無で、
圧倒的に単純かつ低廉安全な作業となり、しかも既存使用済み固
体燃料体を極めて単純・経済的に処理処分でき、えられたプルト
ニウム含有熔融塩燃料を熔融塩炉に有効利用できる。
⑤ 高性能小型炉型も経済的:単純常圧密閉炉容器でしかも小型で
も「核燃料自給自足」可能、工場生産で量産でき、世界展開容易。
⑥ 高い経済性: 上記から自明であろう。 単純で理想的原発。
⑦ 小さい開発費: 単純で開発項目僅.。しかも基礎開発完了し
ており、機器開発に「同じ高温融体炉のナトリウム技術」が流用
可能。
⑧ 早い実用化:初期燃料に上記の「プルトニウム含有塩」を利用
すれば、約10年強と1500億円で小型炉FUJI が完成できる。
⑨ 従って、現在の原発産業体系を全く乱すことなく、その困難課
題を打開救済しつつ、円滑に移行展開が可能である。

4) 今世紀中頃には、「世界の一次エネルギーの約半分」を供給でき
る極めて経済的で巨大な新原子力産業創生が、十分可能である。 

5) ただし、トリウムの利用には「その使用済みトリウム燃料の化
学処理」が必須である。そのガンマ線が強烈で軍用不能な代り、「固
体トリウム燃料」であれは再処理再利用が不可能である。従って
「熔融塩」が必須となり、しかもその作業が最良に単純化できる。

この様なもので初めて「CO2 半減を十分経済的に実現可能」
となる。 それに、日本が「先導的役割」を果たし、自らの繁栄と世
界の「環境・貧困」の救済によるテロ防止、を実現すべきである。

これは、70年にわたる「核エネルギー開発史」 の成果を再
精査して、実現可能な「最良の新核燃料増殖システム」:トリウム熔融
塩核エネルギー協働システムを構築したものである。

【この構想は、1997年に日・米(含オークリッジ研)・露・
仏・印・IAEAなど世界の熔融塩炉専門家24名の会議で、全員
の支持を得た。さらに、仏電力庁などの他、例えば米大統領科学
技術補佐官Allan Bromley, John Gibbonsの激賞を得ている。既
にロシア核弾頭開発研究所(Inst.Tech.Physics, Snezhinsk)が
建設を希望し、露政府が支持承認している。 また、チェコ・ト
ルコ・ウクライナ・べラルース・ベネズエラ等々にも優れた協力
者がいる。

国内では“「原発」革命”(文春新書,2001, 2008:1.5万部販売)
が広く読まれ、NPOが法人化され市民にも支持が広がっている。】

その積極的な「実用化作業」開始へのご協力を、強く要請したい。 (完結)


古川 和男著、「核分裂エネルギー“ を全人類のものに!」、その一

2011年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

2010.7.25 :「核分裂エネルギー“ を全人類のものに! 」  IThEMS 古川 和男

はじめに:

19世紀末に始まった「核科学」の成果として、大戦中に明らか
になった「核分裂エネルギー」は、戦中であったのもあり軍用が優先
する不幸な歴史を辿りはじめた。

その利用は、既に世界一次エネルギの数%を占めている。しかし
現行の原発体系には、まだ余りに未解決な問題が多い。安全性・核拡
散・核廃棄物などであり、炉代替期に向かい、現状維持に苦心してい
るが、もっと大きく社会に受容され活用されるべきである。

何がそうさせているかを考え、原発業界のさらなる繁栄を目指す
のが核科学者の使命である。全人類・地球のために!

(A) 「核分裂」は、本来「自然現象」。

天然ウラン中のU235濃度が高かった二十億年前には、ガボンのウ
ラン鉱山で雨水によって「天然原子炉」が稼働していたのである。発
見されたのは1972年だが、その16年前には優れた放射化学者黒田和
夫博士が見事に予測していた。それ位、自然な「現象」である。

(B) その「本質」は?

或る種の重原子核(U233, U235, Pu239, Pu241など)に中
性子をもう一つ加えると、其の原子核が不安定になりほぼ2つに分裂
し、超異例に大きな「核化学反応エネルギー」を放出するのがこの「核
分裂」である。(次に大きいエネルギーを出すDT核融合の1ケタ上。)

その消費燃料量は化石燃料の百万分の1であっても、原子核物質
が変化する「化学反応」である。従って、当然なこととして「化学工
学装置」となる。もっと、明確にいうと:

この核分裂反応遂行、その反応生成物処理処分、使用可能な残渣
の処理・再利用を経て、次の核分裂反に循環させる「核燃料サイクル
化学工学」を完成させる仕事が『事業の本質』である。直接有用な「発
電」などは、其のごく一部の作業に過ぎない。

(C) 戦後の「原発開発史」は間違っていた。

全てが“間違っていた”訳ではない。3,40年前までは例外が
あった。しかし大局は「戦中から始まった」ために、まず良いPu生
産炉、次いで良い発電装置の完成が余りに強く「志向」され、「優れた
合理的“核燃料サイクルの完成”との関連・整備への配慮」は『副次
的で視野に入れないに近かった』と言っても過言でない。(これは、最
近の第4世代原発論議にも殆ど言えるであろう。)

「軍用」では、「良いエンジン」が得られれば最高で、その後は知
らぬ何とでもしてくれ、という姿勢に成るのが自然だったのであろう。

(D)「初心」に戻ろう!

上記の指摘は、全く「奇をてらう」ものではない。大戦中に既に
「明白に確認されていた原則」である。それが、上記の様に時運に乱
され忘れ去られて居たのである。

1930年代に重要な4科学者がブダペストから米に亡命してきた。
その一人がEugene Wignerで(他はTeller, Szilard, von Neumann)、
最初の原爆用Pu生産炉を実用化させたが、その後戦中シカゴ大学で催
された「原子炉セミナー」で、ノーベル学者たちの協力をえて彼が中
心になって結論づけたのが、(B)で述べた原則なのである。しかも「化
学工学装置ならば反応媒体は“液体”が望ましく、その“理想形態の
原発は恐らく熔融弗化物塩燃料炉”であろう。」とまで予言していた
のである(1)。

「熔融塩炉」まで一気に論ずると本当かと驚かれるであろうが、
彼に従ってORNL(米オークリッジ研究所)を整備した高弟のAlvin
Weinbergが次代所長として、その後「熔融塩炉」の基礎開発を成功さ
せたのである(1945-76)。

(実は、上記原則を理解した世界の指導者達は、競って種々の「液
体核燃料炉型」開発を志したが、他は皆「失敗」した。詳細略(2)。)

(E)しかし、巨大R&D投資はもう望むべきでない。

“初心に戻れ“と提唱したが、四,五十年前の「良き時代」とは
本質的に異なるのを軽視してはならない。その詳細を専門的に論ずる
余裕はないが、諸国がよく「40年後の新炉型実用化」を言っているが、
40年間も個人が「緊張を持続してあるPROJECTに専念」する事はあり
得ない事からも、虚構であるのは自明である。

我々は、現実に「現原発産業」を何としても30-40年は利用する
使命を持っているが、その間にもっと「合理的な新技術産業」を恐ら
く数十倍の規模で準備し、未来に答えねばならない。

それを、出来るだけ「社会負担」.なく実現・移行させるべきで
ある。その様な事が出来るのであろうか?

「不可能」と思って当然であるが、戦後は「活力に溢れた良い時
代!」であった。その「過去の優れた遺産調べ」を行えば見事に可能
であった。しかも最も「単純で経済的システム」が構想できた。

その実現・実用化への挑戦が、我々の「新事業:IThEMS提
案」である。 (以上)

[参考文献]

(1)A.M. Weinberg:“Proto-history of molten salt system”, J. Accel. Plasma
Res.2(1)(1997)23.

(2)古川和男:〝液体核燃料”,「原子炉工学講座 第4巻」, P.77~113,培風館刊
(1971).

(続く)


全電源喪失でも爆発しないトリウム熔融塩原発炉を提案した古川和男博士をご紹介します

2011年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム

私の友人の原子力研究者の近藤達男博士が最近、古川和男氏の本や文書に関する情報を送ってくれました。

福島原発の大事故のずっと前から現在の方式の原発の危険性を指摘し、もっと安全なトリウム熔融塩原子力発電炉を提唱していました。その古川和男氏の略歴と、2001年に文藝春秋社から出版された「原発」革命という本をご紹介いたします。

======古川和男博士の略歴と本の内容概要=======

古川和男[フルカワカズオ]1927年、大分県生まれ。第五高等学校理乙及び京都大学理学部卒。東北大学金属材料研究所助教授・日本原子力研究所主任研究員・東海大学開発技術研究所教授として「無機液体構造化学」及び「液体金属・熔融塩工学とその核エネルギーシステムへの応用」を手がけ、「トリウム利用構想」を日・米・仏・露・ベラルーシ等の協力を得てまとめた。現在はトリウム熔融塩国際フォーラム代表、熔融塩熱技術協会会長

==文春新書「原発」革命古川 和男【著】文芸春秋 (2001/08/20 出版)=====

地球の温暖化から化石燃料の使用は控えざるをえない情況なのに、代替を期待される自然エネルギー技術は余りに未熟、かといって原発は安全性に疑問、とエネルギー問題に解決の糸口はないかに見える。
しかし、長く核エネルギー技術の開発に携わってきた著者はいう。
事実上頼れるのは原発のみ、ならば今の原発を根本から変えよう、安全な原発は造りうる、危険なプルトニウムは消滅させうる、と。
本書は未来を見据えた現実的で真摯なエネルギー論である。

はじめに―なぜ今「原発」を見直すのか
人類とエネルギー
核エネルギーとは何か
「原発」のどこが間違いか
「安全な原発」となる条件
「原発」革命(固体から液体へ;ウランからトリウムへ;大型から小型へ小型熔融塩発電炉不二(FUJI))
核燃料を「増殖」する
「革命的な原発」の全体像
核兵器完全廃絶への道

==================終り=============


今日の散歩・・・睡蓮の花の写真を撮りに行く

2011年06月03日 | 写真

花々は季節、季節でかわって行きます。その季節も寒い年、暖かい年と変化します。同じ東京でも公園のある場所にもよります。

今朝から今、満開になっている花とその場所を考えていました。バラもサツキも散り始めました。そうです、その後には、睡蓮、アヤメ、花菖蒲、カキツバタが咲き出します。そこで今日のテーマを決めました。「睡蓮の花の写真を撮りに行く」と。神代植物公園です。

下の写真の上2枚は屋外のもの、あとの全ては温室内で撮った南国の睡蓮たちです。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

022 014 040 044 049 041 056 065