仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。
その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。江戸時代は有名な繁華街で、豪商の店が集まっていました。その奥州街道の部分を国分町といって賑やかな商店街でした。
明治維新で仙台藩が解体された後も「芭蕉の辻」や国分町の賑わいは続きました。しかし、大正、昭和と時が流れるに従って、国分町はしだいに寂れ、それと並行して南北に走る「東一番丁」が繁華街となったのです。
その通りに面して三越百貨店が出来、藤崎百貨店が出来、仙台一番の商店街になりました。
私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。ついでに大人たちからよく聞いた「芭蕉の辻」や「国分町」へも足をのばし意味も無く歩きまわったものです。
仙台を出て東京に暮らすようになって52年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅にでました。昨年の10月の事です。父母や親戚の墓参という目的もありました。以下はその時の紀行文です。
@ふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまった
仙台では、思い出をたどりながら町々を歩き回りました。
高いビルが沢山立っています。見知らぬ白い街になっていました。大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しています。
道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンだけが存続していましたが、あとは全て消えてしまったのです。茫々50年。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。
消えてしまったふるさとの街を歩く淋しさ、寂寥感が秋の夜風で身に沁みました。
@子供の頃遊んだ秘密の場所が観光客に奪われてしまった
昔の家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。
そのうち戦災で廟が焼失しました。その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。
遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。
それが先日行ったら金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。仙台観光の目玉らしく観光客がゾロゾロと歩いています。私は何故か中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽ですが、なにかガッカリしたような気分になりました。家内が一人の観光客になって楽しそうに見物しています。
仙台へ観光客が沢山来てくれることに感謝しています。でも何故か私の心は悲しみが広がっています。
@しかし、自然の景色だけは変わらない
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。老人の私は牛タンが名物だとは信じられません。
牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か嬉しくありません。牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに少しばかり腹を立てているのです。
日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。それで地域輿しが出来ることは大変良い事です。大歓迎です。しかし仙台の牛タンだけはなんとなく困ったものと感じています。私は、「理不尽の字」に手足を付けたような老人なのです。
仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消えてしまったようです。
しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。
人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。
下に仙台城から見た政宗の廟所のある経ケ峯の写真と評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真を示します。
皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人